ペッパー警部
筆者が昔勤めていたある職場の上司であるが、40代半ばのオッチャンだった。
本当に、オッチャンという呼び方がこんなにピッタリな人もそういない、という感じの。まるでオッチャンの代名詞のような、男臭い顔。ポッコリお腹の、見本のような中年体型。
普段は単にそういうお人なのだが、年に2、3度ほど豹変する機会がある。
たとえば、忘年会や新年会。新しい職員の歓迎会や辞める人の送別会など——
何か『一席』ある時に、この上司は必ずあることをやった。
それは、ピンクレディーのモノマネであった。レパートリーは数曲あったが、中でも十八番は『ペッパー警部』であった。
一体、何が彼をそこまで駆り立てるのか分からない。でも、そのモノマネは名人芸の域に達していた。
羞恥心とか、ためらいの類は一切なし。振り付けも動きもまるで「こうやるんですよ」という見本のビデオ映像のような感じ。YouTubeとかにアップしたら人気出たんじゃ、と今更ではあるが思ったりする。
それはもう、一度目にしたら忘れられませんよ! あの顔、あの体系で、あの本家そのままのシャープなキレのある振り……もうトラウマのように心に残っている。
(こう言うと、軽々しくトラウマ言うな! というツッコミが来そうだ)
私たちは、この世を舞台としてゲームをやっている。
ゲームにつきものなのは、障害である。また、敵である。あるいは、解決すべき「問題」である。
その「敵」のひとつに、「自己否定感」というのがある。
説明するまでもないね、自己否定感が何かについては。それが、あなたがスムーズに、伸び伸びと生きるのを邪魔してくる。
スピリチュアルでも自己啓発でも、この自己否定をやめて自己肯定を、と勧めている。そのこと自体は、別段問題ではない。その通りだと思う。
ただ、自己肯定をする時に、自分のどこを肯定するのかが問われる。自己肯定を安易にとらえてしまうと、「これでいいんだ」「問題ないんだ」「私は私でいいんだ」「ありのままでOKなんだ」というこれらの言葉がミスリードしやすいある罠に引っ掛かりやすくなってしまう。それが——
●全肯定
これ、ホント楽になるから誘惑なんだよね。
全部認めて気持ち良くなってしまう。失敗も、自分のできていないところも。短所も、明らかに改善したほうがいい点も。
そういうものをも認める、なんて細かいところまでは本人は考えていない。でも、それがどうでもいいこと、さして重要ではないことのように遠くに感じられ、気持ちよくなる効果が「自分全肯定」にはある。
「ダメなところも含めて自己を受け入れる、肯定する」という言葉があるが、誤魔化されるな。
●ダメな部分はダメなのだ。
失敗は失敗なのだ。
(世間一般論的に)短所はやっぱり短所だ。
ありのままのあなたでは良くないのだ。
自己肯定が大事なことは認める。
だが、どこまでを肯定するのかの線引きには、こだわる。
筆者としては、この問題に関して次のように捉えたい。
●自分が「在る」ということ。
生きて、この人生ゲームを放棄せずにちゃんと参加し、向き合っているという事実。この自分の「在り方」を肯定してほしい。
自分のやった過ちであるとか、自分で自覚している問題点であるとか、あきらかにこのままではいけない現状とか。こういう領域にまで「起こることが起こったんだ」「これはこれで宇宙の流れだから、問題ないんだ」などと自己肯定の拡大解釈をしないでほしい。
問題は問題として、そこは厳しく自分に問え。
自己肯定で、気持ちよくなり過ぎたら要注意である。要らんところまで肯定している危険があるから!
ヒットしたアナ雪の「ありの~ままの~」の歌で何か救われた気になった人は、ちょっと気にしてほしい。
自分全肯定は、麻酔のようなものだ。一気にすべての負のイメージを払拭できた気になるので、大変気持ちがいい。大げさな人だと、その安っぽい自己肯定で「人生観変わりました!」と錯覚するほどまで気が大きくなる。
でもそれは、麻酔で「本来痛いはずの部位を無感覚にした」だけのこと。麻酔から醒めたら、元の感覚がよみがえり、ぶり返してくることになる。
無責任で根拠のない自己肯定感は、ただ単に問題を一時的に「隠す」だけである。
もちろん、麻酔は大事だ。一時的とはいえ、治療のためには必要だ。それを使っている間に本治療を施すことで、麻酔が切れた以降は問題解決しているのだから。
だから私は、現状がひどい人のためにも、一時的な「全肯定」は方便として必要だと思う。でも、いつまでもそのままの状態では破たんが来ることはお分かりになるだろう。
ありのままの自分を受け入れて楽になったこのチャンスに、勇気を出して自分と向き合う。自分の抱える問題や短所に勇気をもって取り組む。
自分がどう変わっていったらいいのか、腹を据えて考える。あなたがその一歩を踏み出せたなら、麻酔の甲斐はあったわけだ。切れても、以後はきっと大丈夫。
あなたはやっていける。
『夜回り先生』で有名な水谷修先生。
子どもたちに向けて発せられる、先生の有名な言葉に「いいんだよ」がある。
その言葉は、たった一言だが深い。
水谷先生が向き合うのは、非行に走ったり薬物依存に陥った青少年である。当たり前の話だが、非行少年たちは「そのままでいいはずがない」。
そこを認めるんではない。認めるのはあくまでも、その子の「存在」だ。
皆さんもそのはずだが、『一生懸命生きていない人はいない』。私たちは見た目や結果ばかりを見て、「怠けている」「やる気がない」と判断するが——
●全力で怠けている。
命を懸けて、ゴロロゴロしている。
相当のエネルギーを使って、無気力を味わっている。
水谷先生は、「伸びようとしない命はない」ということを知っていた。
もちろん、この場合の「伸びる」とは、普通に考えるところの「向上する」「立派になる、より素晴らしくなる」というだけの意味ではなく——
●生きるシナリオを進めていく。
この世界を舞台としたゲームでの、自分のキャラの役割を果たしていく。
生きているというただだけで、そこは皆共通している。だから、先生はそこをねぎらったんだと筆者は捉えたい。その心からのいたわりの思いが、「いいんだよ」という言葉になった。
現状は良くはない。その子は間違いなく変わっていったほうがいい。
でも、そんなこと後でしょう? 傷ついている今、その子に必要なのは正論ではない。励ましでありいたわり、また癒しである。
正論に向き合える元気ができるまで、今はゆっくりお休み——傷ついた翼を、飛び立てるまで休ませてあげるのが先生のやさしさ。
もちろん、ずっとそのままでいいなんて先生は思っていない。いつか飛び立つことを信頼しての、「(今はそれで)いいんだよ」なのである。
本日の話をまとめますと。
我々の人生ゲームをややこしくしてくる敵は、ふたつ。
①自己否定感。
②ダメなところはダメなのに、いらないところまでカバーする自己肯定感。
②の場合は、使いようによっては益となるが、いつまでもそこから抜け出ないと問題だ。いつか、自己全肯定の痛くない麻酔から醒めてもいいように、ここぞというタイミングでは奮起したほうがいい。
だから、自己否定と範囲の広すぎる自己肯定とを、ペッパー警部と考えよう。
そういうのに邪魔されそうになったら、思いだして歌おう!
邪魔を~し~ない~で~ぇ~と。そうだよ。私たちこれから、いいところ! なんだから。
自分のダメな所や明らかな誤りを認めるんじゃなくて、「自分が在るということ」を肯定するのだ、ということを再度言っておく。
で、それが基本ベースとしてあってこそ、発展的要素として「自己改善することで、在り方じゃない部分でもどんどん肯定できるようになっていく」ということにもなっていくのだ。
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