歴史は発展しない

 とある機関が、2014年に世界各国の「幸福度」というのを調べた。

 その結果、GDP(国内総生産)の伸びと幸福度とが密接に関係している、とその機関は考えた。いやらしい言葉で言えば、「幸せは経済的豊かさと関係する」ということである。

 もちろん、これはかなり大雑把なものの見方に過ぎず、必ずしも正しいとは言えないだろう。例えば、この調査結果の例外に当たるのが日本である。

 日本のGDPは、米国と中国に次いで世界第3位のはず。(この記事が書かれたのが2014年なので当時のデータです。作者注)しかし、結果として日本の幸福度は『先進国中最下位』なのだそうだ。



 上位からいくと、イスラエルが75点、米国が65点、ドイツが60点、英国が58点。

 もちろんこれは、百点満点中いくらか、という採点基準である。びっくりでしょう? 紛争真っ最中のイスラエルでも、この点数なのだ。

 平和ボケ、と揶揄されて久しい日本。治安も良く生活水準も高いはずなのに、戦争が起こっているような国に幸福度で負けているのである。

 確かに、何をもって幸せというかの違いが、お国柄によってあるだろう。でも、それを差し引いてもこの事実は何かを物語っているような気がする。



 紛争地だから、戦争中だから、幸せが存在できないわけではない。

 国に戦争がなくて平和だから、不幸がないわけではない。

 この世界はつくづく、こうだからこうという一面的見方のできない場所だ。筆者がこう言うとまたまた希望にあふれている人に嫌われるが——



●歴史は発展しない、と思っている。



 人類歴史の開始から今まで、世界の本質はまったく変わっていない。

 歴史は、右肩上がりのグラフではない。でもたいていの人はこれをイメージしているだろう。原始時代から次第に科学や精神世界面において進化を遂げ、これからさらに素晴らしくなっていく、と想像していることだろう。

 もちろん、それでいい。ここから述べるのは、多くの賛同は得られなくともよい。



●原始時代から今まで、ずっと陰陽のバランスが一定に保たれ続けている。

 これは、幻想世界ある限り永遠に変わらない。推移しない。



 もちろん、見かけ上は「変わっているように、発展しているように見える」。でもそれは、本当に見かけだけである。

 考えてみてほしい。本当に、今の時代が素晴らしくて、大昔はクソだったか?

 戦時中や封建時代は、日本人は今より全体として「不幸」だっただろうか?

 たとえば、戦争映画って結構感動しませんか?

『永遠の0』 や『男たちの大和』、他にも数限りなく戦争映画の名作はあるが、そこには愛がある。感謝がある。

 その当時の世界全体としては戦争中だが、喜びだってあった。いや、そういう時代だからこそ喜びの輝きも増していたことだろう。影が濃くなると光もまた強くなる。

 本書でずっと主張してきていることだが、すべてのことは二極両面セットである。戦時中だとか世界全体として戦争状態にない平和な時代だとか、表向き見かけ上の差はあるにせよ、かなり引いた宇宙視点で見ると、どの時代も本質は一緒。



●昔だって愛も感謝も喜びもあった。総体量は今も昔もずっと同じ。

 だからこれからだって義務も犠牲も我慢も残り続ける。

 そのバランスは半々に保たれ、世の終わりまでそれで推移する。



 世界はもぐら叩きみたいなものだ。

 ある部分をへっこませれば、別が頭を出す。

 トータルで見ると、常に一定の部分が頭を出しており、一定部分がへっこんでいる。その場所が時代時代で変わるだけなのだが、何かがよく何かが悪いという『価値観』があるせいで、ある基準を決めてそこから良し悪しを判断するという人間のさがのせいで、時代が発展しているようにも見える。

 科学が発達しておらず、法や警察力などの治安も整備されておらず、何かあれば戦争ばかりで、医学も未発達でバッタバッタ人が死ぬ。そんな時代であった代わりに、人生が濃密だった。生きることの輝きがすごかった。

 感情体験も、その受け皿である感受性も強いものだっただろう。生活には常に脅威が付きまとっていた分、喜びや愛の感情なども強烈であったろう。

 現代という時代はその逆で、世界全体としてかなり平和になった。地域によってばらつきはあるが、まず地球トータルとしては、昔よりもはるかに「平和」を獲得したと言っていいだろう。

 しかしその分、生まれてから社会の敷いたレールに載せられ、価値観もだいたい似たようなものに統一される。そしてその価値観の中でレース(競争)を強いられる。

 そんな中で、若者は自分の存在論的アイデンティティーも確立できないまま、突っ走らされることになる。鬱も少なくないし自殺も多い。ストレスのたまることも多い——

 これが、とりあえず戦争もなく、食料も十分あり、いきなり襲われて死ぬことも少ない日本の現状である。(襲われて死ぬことはほぼないが、性的乱暴目的で女性が襲われることは多いようですが!)

 国は確かに戦争をしていないが、個々人の魂が戦争状態である。



 未来は、もっと科学が発展して過度に便利になるだろう。その分、バランスなので何かが薄れていくだろう。

 全体としての、目に見える表面的な争いがなくなっていくほどに、個々人の葛藤が深まっていくだろう。スピリチュアル実践者は、自分の中のエゴや醜い心が無くなることで、人間としての在り方の最高峰に立てた気になるかもしれないが、その分何かを失っていることに気付かない。

 筆者は、仮にこの世界から争いやエゴが消える時が来たとして、それは高度な精神文明などとは言えないと考える。むしろ、感動や狂おしいまでの情熱(情念)の希薄な世界になるように思う。

 もちろん、本人たちは自覚できない。問題のない世界で、起伏のほぼない状態で時を送るだろう。でも、歴史は螺旋であり、サイクルがめぐってくればその表面的平和は壊れる。で、またそこからドラマが展開していく。

 つまり、一度平和を実現しても、必然的に世界を振り出しに戻す誰か(あるいは集団)が現れて、すべてをひっくり返し元に戻す。ゆえに、これで恒久平和だ、メデタシメデタシはこの私たちの宇宙次元にはない。



 ぶっちゃけ、この世界は永遠に「こんなの」だということだ。

 その時代で、何を陽とし何を陰とするかだけの違い。

 昔は、生きる舞台の不安定が陰であり、個人の生きる力や思いの強さが陽であった。逆に現代は、世界の全体的な平和と生き易さが陽であり、整備され過ぎた社会からの、個々人の心身共の拘束状態と生きづらさが陰である。

 見え方は変わっても、大枠として光と闇のバランスは保たれ、この世ゲームは進行していく。



「クラウド・アトラス」というアメリカ映画がある。

 あれで面白かったのが、未来社会は科学力がすごいが、人のやってることは愚かすぎという部分。

「タイムマシン」という映画でも、科学が進み過ぎて大変なことが起き、原始時代のような世界に逆戻り。「風の谷のナウシカ」でも、機械文明が崩壊して世界がリセットされるような設定である。

 私は、スピリチュアルが「アセンション」として盛り上がってるように、このまま地球がお上品になってというか、次元上昇して完全なる愛と平和の世界にイケイケゴーゴーと突っ走れるとは思わない。

 夢を見るのは素敵なことだが、現実と混同しないように。そんなこと言ったら、「あなたがそういう意識だから、そういう現実を作り出すんです!」とか言われるんだろうな。ああ、面倒くさい。

 大衆受けしなくていいや。今回のメッセージ。



 個という幻想ではどうにもできない世界で生かされてあるのだから、この世界での人生脚本(自分の役)を味わうしかないのである。目の前を一生懸命生きるしかないのである。それ以上のスケールのことに手を出だせば、ほとんどの人が疲弊するだけ。(一部そういう役担当のキャラを除いては)

 世界平和というものは、個々人が目の前を一生懸命生きた結果(副産物)でよくて、あえて目標にして追うものではない。色々な理想や理屈をこねまわす自由はあるが、結局は自分のレースを走るしかないと思い知らされる。



 愚かしくも、愛すべき世界——

 世界は未来永劫、それである。

 ただ、問題の見え方が変わるだけで、問題そのものは永遠に消えない。その中で、個々がゲーム参加キャラとして、どう「自分なりの幸せ」を獲得していくか?

 この世ゲームの意義は、それだけである。

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