頭隠して尻隠さず

 道端に、ウンコが落ちているようだ。


「あれって、まさかウンコじゃないか?」


 近づいて、視認する。


「どうも、ウンコらしいぞ」


 さらに近寄って眺める。


「うん、見たところウンコだ」


 においを嗅いでみる。


「うん、ウンコのにおいだ」


 手で触って、感触を確かめてみる。


「ウンコっぽいな」


 指で少々すくって、食べてみる。


「間違いなくウンコだ」



●あ~よかった! 踏まなくて!



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 どこがよかったんじゃい!

 そう突っ込みたくなる話だろう。

 この話のおかしさは、『ウンコを踏まないということを気を付けるあまり、結局それ以上の行為に及んでいる』ところにある。食ってたら、踏むよりひどいじゃん……



 人生には、これと似た構造のことが多く起こる。

 スピリチュアルの世界でも、起こっている。



●何かを一面的にだけ理解してしまった時。その一面的理解に対して四角四面に忠実であろうとした時——

 結果として、ひどいことになっている。



 例えば、先日話題にした『無条件の愛』。

 人が無条件の愛を実践する時に陥りがちな失敗が、「無条件の愛にしないと」という頑張りである。無条件の愛にしようと思うあまり、「義務化」してしまう。無条件の愛でないといけない、みたいな。

 無条件の愛がいいのだ、それを実践することがいいのだという風に一面的に理解してしまうと、実践しようとすることを追うばかりに「いつのまにか義務化している」 という弊害に気付くことができない。



 そして、感謝について。

 感謝はよいこととされている。その単純な理解から、『感謝しよう』という努力になることがある。

 いつの間にやら、感謝の二文字に「義務」という要素が侵略してきている。感謝とは、結果論でしかないことである。できる時はでき、できない時はできない。

 その成否に関わってくるのは日常の体験や気付きの積み重ねだが、それだって計画的に狙ってはできない。何が最終的に生きてくるのかも、分からない。

 感謝をする、という単純な行為的ノルマを果たすことで満足し、その感謝が頑張ってしたバッタもんであることを忘れ、いい気になる。

 はっきり言って、自然と湧き出る感謝は天然物であり、頑張ってする感謝は養殖物である。その差は歴然としている。



 ウンコを踏まないという条件だけを守ろうとして、結果触ったり食ったりしている。それと同じことを、スピリチュアルなワークでやってしまうのだ。

 無条件の愛の実践であるために必死に気を付けることで、無条件どころか条件だらけになっている。感謝する、という単純な既成事実を作ることで成長した気になるが、結局義務化した感謝である。

 こういうのを称して、『頭隠して尻隠さず』と言うのだ。本人は一番大事なことを押さえているつもりだが、実は全体を損なう結果になっている。

 人生でも、スピリチュアルの実践上でも、こういった問題はゴロゴロしている。言い方を変えると、せっかくやってても『片手落ち』というやつになっている。

 もしあなたが、自分を静かに見つめ直してみて「私って片手落ちだなぁ」と思うことがあれば、あなたには取るべき二つの道がある。

 ひとつは、もっと真剣に取り組むこと。本腰入れてやること。つまり、片手落ちでは無くすわけだ。

 そしてもうひとつの道は、あなたが「これ以上頑張る、ったってなぁ……」 と、限界を感じた時に取ればいい道。つまりは、スピリチュアルをやめる。無理してまでしない、ってこと。

 どちらの道も、中途半端ではないということろで共通しているので、どちらに行ってもオススメである。一番苦しいのが、今言った『中途半端』である。



『幸せって、意外とムツカシイ!』かもしれない。

 だってこれ、永遠に近い時間をかけたゲームだから。

 簡単であろうはずがないのである。

 だから、取り組みがいがあるのである。

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