素直になれない人たち
だいぶ昔の話になるが、星野仙一監督率いる阪神タイガースの2003年のキャッチフレーズが、これ。
●勝ちたいんや!
筆者は当時、この言葉に好感を持った。なぜなら、熱いトラファンの心情をシンプルな言葉で見事に表現しているからである。
そうだよね、ホント『勝ちたい』よね!
何かの言葉に強く同感できる時というのは、その言葉はかなり「素直であり、ストレートな表現」であるはずだ。ごちゃごちゃ複雑に表現したら、たとえ美辞麗句であっても心が動きにくい。
むき出しの赤裸々な言葉こそ、言い手の気持ちを乗せやすい。また、伝わりやすいということがある。
前回の記事で、私は現代人類を評して『Stand Alone Complex』と言った。
感情的、心的複合体。
うれしい、悲しい、腹が立つ、面白い。そういうシンプルな感情だけではもはや生きれなくなっていて、「面白いけど笑えない」「好きなのに、素直に好きと言えない」など、いくつかの感情的要素が複雑に絡み合うという、シンプルではないコンプレックス(複合体)としての心的存在になってしまった、ということを指摘した。
さらにそれは、個人だけの責任であるというよりも、生まれた後の周囲や世界から吸収した部分が多い、とも言った。自主独立型生命のくせに、自分で自分の感じ方や発想において大部分を環境や世間の空気に左右されている、という皮肉を「本来スタンドアローン(自主独立型)のくせにその実コントロールされている」という言葉で言ったものである。
つまりはシンプルに生きづらくなった、ということである。素直な思いはあれど、それを素直に出しにくくなった、ということである。
そこには、色々な障害物がある。世間体とか、羞恥心とか。また、他人にどう思われるかとか。
それは残念ながら、スピリチュアルな指導者層レベルでも見られる現象である。例えば、ランキング上位に食い込むようなある人気スピリチュアルブログでは、次のような趣旨のことを言っている。
●一人でも多くの人にこれが読まれ、拡散するように、あなたのワンクリック(ランキングへの投票になる)をお願いします。
そして、その言葉の下に一票が入るクリックボタンがあったりする。こういうのを、コンプレックスと呼ぶ。
誤解してほしくないが、コンプレックスとは 「劣等感」という意味ではない。それは、常識の域まで出世してしまった「誤用」である。
もともとの意味は、二つ以上のものが絡み合った状態のことである。
つまりここでは……
ホンネは、もっと票が欲しい。上位を狙いたい。
でも、そういう気持ちを前面に押し出すのは、スピリチュアル指導者としての格好がつかなくなるので得策ではないと分かっている。だから、ストレートに欲を言わず
「一人でも多くの人の力になるように」。おおっ、これならいい響きかも! ということで、採用している。
もちろん、魂レベルによっては建前じゃなく『本当に』そう思えている場合もあるだろう。その場合は、素直な思いそのままだから「シンプル」である。
でも、ホンネが「勝ちたい」「上に行きたい」なのに、その思いを確信犯的に素直に出さずに「皆様のために……」とやる場合、シンプルとは対極に当たる「複合体(コンプレックス)」となる。
二つ以上の感情要素がそこに関わり、複雑化をしているから。筆者が見た所、この「クリックお願い」の理由がきれいごとでしかないスピリチュアルブログは多い。
まだ、「押してね!」とだけ素直に言っているほうが好感が持てる。
四の五の、理屈は要らないんだよ。押して欲しいんでしょ? だったら、素直にそう言いなよ。
これは、ある心理系スピリチュアルブログでの話である。
読者登録数が、結構な数に到達したことを喜んでの、こういう文章があった。
●読者数が~人になりました。ありがとうございます。
数の多さではありませんが、うれしいですね。
この文章、1行目で終わっておけばよかったのである。
それなら、「シンプル」である。実際、目に見える数として成果が分かるとうれしいものだ。
うれしいものはうれしい。それでいいのに、この方は余計な一文を付けた。
「数の多さではありませんが」である。
これを、コンプレックスと言う。
●なぜ、「数の多さではない」とここでわざわざ言う必要がある?
あなたがわざわざ言わなければ、誰も突っ込まないのに。
答えは、『本人が数は大事だと思っているから。そういうホンネがあるから』。
でも、色々世間から学んでいる思考さんは、待ったをかける。そこで、うれしい気持ちをストレートに表現したい時に、わざわざ水を差してくる。
「おい、念のためにこの一文を入れておけ。大事なのは数ではないですが……と。 これで安心! 皆、私のことを誤解しないだろう」
……いや、そっちのほうが誤解ですって。最後、「うれしいですね」だけで終わっておくほうが、うれしさがより伝わってくる。
セラピーやって人を指導する人でも、こうなのである。
でもだからって、スピリチュアルを発信する資格なし、ということを言いたいわけではない。そんなことを言ったら、誰もできなくなるから。ほとんど皆そうだから、安心しましょう。
コンプレックスから逃れられる人はいないからだ。ここでは、もちろん本来の意味のコンプレックス(複合体)のことを言っている。劣等的コンプレックスだけの話だったら、逃れる道はあるから。
結論は、「だからシンプルに生きましょう。ホンネで生きましょう」という単純なものではない。なぜなら、この世界にはそもそも何をしに来たか、を考える必要があるからである。
シンプル、とは本質世界に近いものの象徴である。もちろん理想ではあるが、我々は陰陽の二極の間の無限の空間で無数パターンに揺れ動く『二元性の世界』に住んでいるのだ。それは、シンプルさよりも「複雑さ」を比重として多めに味わうために来た、ということだ。
だから、今日は二つのことが言える。
●コンプレックス(心的複合)から逃れられないのなら、良い方向に利用しよう。
●同じコンプレックスを使うのでも、気持ちよく使おう。
映画やドラマなど、シンプルすぎてもつまらんでしょ。
実際、そういう生き方をする本人は幸せだろうが、そんな人の一生を映画にされても、第三者として眺めるにはつまらん。
渡る世間は……じゃないけど、感情問題が複雑で込み入っているからこそ、見ていて面白い。でも、だからって修羅場はイヤだよね。
だから、人生に深い味わいが出るような、人情の機微に感動できるような「心的複合」を、芸術チックに用いればよいのだ。
あと、無意識でコンプレックスを「良くないもの」と捉えている場合が多い。だから先ほど紹介した例のように、無意識下のやましさから来る「言い訳」や「照れ」が出る。そこを、もっとおおらかにいきたいわけだ。
『私、数にコンプレックスありますけど、それが何か?
いいじゃん! それはそれで、別に。
皆のため、と看板を貼っておりますが、実は自分のためだったりしますが何か?
数じゃない、と言ってはいますがホンネでは数が多いとめっちゃうれしいですが、それが何か?』
真面目で誠実な人ほど、ホンネの反作用から来る取り繕いと言い訳は念入りだ。
そりゃもちろん、根本的に「素直になれればいいし、あとはコンプレックスを確信犯的に使う側に回ればいい」のだが、何せ無意識下が相手のことなので、そう簡単ではない。
次善の策にはなるが、自分のそういう心的反応に関して気付いたら、無理せず「それもそれ!」と思い、開き直ることである。
●シンプルに生きれる時は、そうする。
そうできない、あるいはそうしたくない時はコンプレックスを楽しむ。
シンプルに生きるも、複雑という幻想に生きるも、味わいのひとつである。
その時々に応じて、無理せず流れるように選んで行くのが吉である。
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