勇み足

 相撲に、『勇み足』という決まり手がある。

 押し、寄りなどで土俵際まで相手を攻め込んだ側が、相手より先に足を土俵外に踏み越してしまうことを差す。転じて、他の競技や世間一般でも調子に乗って失敗したり、よけいなことに踏み込みすぎて失敗することを例える表現として用いられるようになった。

 また、安易な考えをして裏目に出たことを例える表現として用いられている。



 せっかくスピリチュアルをやっていても、この「勇み足」は多くの人がやる。

 一番すべての人が普通にやっているのは、「ニュースや噂」に関してかな。

「昨夜、東京都~区の路上で、会社員~さんが刃物で刺され病院に運ばれましたが意識不明の重体で、犯人はまだ捕まっていません……」 そういうニュースが流れてきたとする。

 感想としては、「お~こわ!」とか、「人を刺すなんて、なんでそんなアホなことするんや」「おお、一時の感情に負けるなんてアホやなぁ。後の人生のこととか残された家族のこと考えたら、そんなことでけへんやろうに」とか思うのだろう。何の疑問もなく。

 この世界の回っていくスピードは早い。何か落ち着いて考える暇もなく、次の刺激的なニュースがどんどん押し寄せてくる。しかも、当の本人だって現実にやるべきことは山積みなのだ。

 生活に追われる、という麻酔薬が、自分がいかに物事への認識力が劣化しているかを忘れさせてしまう。



 昔の話で恐縮だが、福山雅治主演の『ガリレオ』シリーズの劇場版映画で『真夏の方程式』というのがあった。

 劇中殺人が起き、そこには犯人がいるわけだが、この映画はその犯人がなぜ殺人に手を染めてしまったのかを、その人物の半生をつぶさに追い、観客に見せることで「ただの人殺しではない」ことを伝える。殺人という行為そのものを承認することはできないにしても、その気持ちは理解できるようになる。

 細かい事情を知って見ると、時として殺した側が「被害者」で、殺された側が「加害者」である場合もある。逆転してしまうのは、追い詰められる側が限界にきて、思い余った行為に出てしまうからで、それを加害者側が計算できなかった甘さが産んだ悲劇である。たとえば織田信長がやられたのも、ある方面では天才なくせに人間関係の妙には鈍感だったからだ。

 判断する材料(情報)が少なすぎると、我々はその範囲で頑張って「常識的な」判断を心掛ける。結果、その乏しい情報の範囲ではまっとうな分析でも、実際の真相から遠くかけ離れた判断になることも多い。

 断片的にあったことを数文で伝えるニュースなどは、誤解の宝庫だろう。実際には、目に見えない感情のうねりと隠された意図がもっと錯綜し、誰が正しいとか誰が一方的に悪いとか、そういうくくりでは言ってしまえない事実がほとんどだろう。



 断片的なニュース(あるいは人から聞いた噂)だけを元に、断定的に善悪や正誤を判断してしまうのを、勇み足と呼ぶ。

 でも、私がこう言っても、だからといってどうにかなるものではない。このがっちり構築された社会システムの中で生きる以上、自分は自分の植えられた地で役目を果たすのに忙しく、いちいちニュースや情報の真偽を自分の目で確かめに行くヒマも余裕もない。つまり、どうしようもない、ってこと。

 この社会の中で生きる以上、そこは仕方がない。ニュースはこれからも聞き続けるし、他人の噂や評価も聞き続ける。でも、現地へ飛んだり人と会って実際を確かめられないケースがほとんどだろう。

 確かに、いちいち聞く情報すべてに首を突っ込むわけにはいかないが、我々にもできることがある。



●自分は、断片化された情報しか与えられないことで、状況を見誤る可能性が常にあるという自覚をもつこと。また、自分の主観(好き嫌いの感情、こうあってほしいという願望)によって、受け取りたいように受け取る(歪めて解釈する)危険もあるのだ、という謙虚さをもつ。



 心の片隅にでもそういうことを覚えておけば、自分が実際に見聞きもしない世界の情報を聞いた時も、「待てよ? 今フツーにこう思いそうになったけど、もしかしたら他の重要な情報が欠けているかもしれないし、取材した側の主観に過ぎないかもしれないぞ……?」

 そういう発想ができたら、人間ゲーム上色々と便利である。この能力が人の持てる本当の『豊かさ』というやつである。


 

●物事に対して、いくつの切り口で、いくつの可能性を思いやれるか。



 これがひとつでも多い方が、財産が多いことよりも価値がある。

 自然と、勇み足というやつも減ってくる。



 ある時、私の配信メッセージの中で私が空港のトイレで体験したハプニングについて、ネタにして話したことがあった。その時使用したトイレが『身障者用トイレ』であったという情報が、話の中に含まれていた。 

 筆者を好ましからず思っている人は、この話を素直には聞けなかったらしい。次に紹介するようなコメントが寄せられた。本文そのままではなく私の言い替えになってるが、文意は変えていない。



●身障者用トイレなんかに安易に入るからバチが当たったんじゃないですか? 自業自得でしょう。



 バチ…って。(笑) バチというものについて突っ込むとそれはまた長くなるので、今日は問わないことにする。今日の記事の主旨は「勇み足」だから。

 このコメント主の勇み足は何か? 筆者が「健常者」だと決めつけている部分である。だから、本当にそこを必要としている身障者に対して大迷惑だ、あなたもスピリチュアルの教師づらしていても、配慮のできないその程度の人間だ、と言いたいのだ。

 アンチなコメントを書くくらいだから、講演や個人セッションなどにお金を出して私に会いに来たはずがない。動画配信で顔は露出しているが、上半身しか映らないので下半身が分からない。だからフツー人が安易に身障者用トイレを使った、と考えたのだろう。

 


●実は、私は本当に足腰が悪い。



 私は、障がい手帳を持っているが、肢体不自由ではなく精神のほうだ。

 本当に腰が悪いが、何とか歩行はできる(走れない)レベルなので、たとえ手帳を取ってもほとんど意味のないレベルの等級になるから、意味はないよ(手続き大変だし、その労力と手帳のメリットが見合わないよ)と言われ、取得していない。

 だから、手帳を取ってないというだけで、筆者は身障者のカテゴリーに入る。身障者トイレを使う理由は大ありである。何も、安逸に楽をしようとしたわけではない。



 そういうことを知らないで、コメ主側は「情報が与えられていない部分」を勝手に想像、あるいは捏造したのである。会ったこともないネットの向こう側の人物が「身障者」である可能性は日常そう多くはないから、そこは自分で補って考えてしまう。

 私を嫌っていれば、なおさら感情という最強の力が、「情報がない部分を自己判断で押し切ってでも、自分が下したい判断を発信したい誘惑」にその人物を押し切る。

 勇み足をする時というのは、冷静な判断力を失っている。でも言っている方は、ほぼそれを認めないだろう。また見ようとしないだろう。

 くだらないプライドのゆえに。



 私たちが自分の外側のことを捉えて判断する時、絶対にすべてが分かっていない。この世界で生きる以上、それは不可能で当然なのだ。

 人間のことに関して言えば、人のことはその本人しか、本当のところは分からない。いや、本人だってどれだけ自分のことが分かっているか疑問である。

 そう考えると、この世は誤解とすれ違い、伝言ゲームの宝庫である。

 でも、それは不幸なことじゃない。100%の純度で間違いなく物事が伝達される世界を考えてみよ。



●この世界、要らないんじゃない?



 あえて、その限界がある中で冒険し、思いを尽くし、どうやって「通じたかもしれないきらめきの一瞬」にたどり着くか。巡り合えるか。

 その一瞬のためなら、人はその数百倍も長い時間をも耐える。きらめくその一瞬が、長い模索の期間を補って余りある価値を持つからだ。 

 だから、物事を100%正しく捉えられないことを承知の上で、その一瞬一瞬腹を決めて後悔のないように、選択していこう。

 自分の認識の限界をわきまえて生きる者と、自分の経験や世の情報を惰性で信じ、他の可能性を立ち止まって考えてみることもしない者とでは、明らかな違いが現れてくるはずだ。

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