謝罪について Again

 朝、ワイドショーを何気なく見ていたら、「謝罪の仕方」の特集をやっていた。

 現代では謝罪の仕方が分からない、できない人が増えているという。そして、驚いたことに『謝罪代行業』なる職業もあるという。

 なんと、映画の中だけの話じゃないんだな!(謝罪の王様、っていう)



 一番笑えたのが、謝罪のプロと紹介された弁護士が、「自分の子どもが他人の子どもとケンカして迷惑をかけた(どうもこちらが悪い)ので謝りに行く場合、菓子折りはいくらくらいのものがよいか?」という質問に答えるくだり。

 


●相場(平均)より少し高めのものがいいでしょう。

 具体的には、5千円~1万円のもの。

 それなら「ゆるそうかな」という気にもなりやすいでしょう。



 こりゃ謝罪のプロというより、その場しのぎのプロと言ったほうがいい。

 先ほどの話で、謝罪代行業の人間が言っていた「今の世、どういう風に謝ったらいいか分からない人が多い。謝り方を知らない」という指摘について、筆者はこれはちょっと違うと思う。みんな「謝り方」という具体的方法を知らないから謝れないのではない。

 子どもは、幼稚園や保育園で「お友達をつくる方法・仲良くなる方法」を講義されるか? 息をするとか声を出すとか、ものを食べるとかという行為と一緒で、一定のトレーニングを積む必要があるとかいうことはない。自然と獲得されるものである。

 謝る、つまり相手にごめんねと思う感情を表すことは、そのたぐいのものだから、本来難しくはないのである。でも、この世次元の独特なゲームルールやその流れの中で付いたクセの影響で、謝るということに必要以上のアレルギーをもつようになってしまった。

 もっというと、謝ることに「不安と恐怖」を持つようになってしまった。



●謝っても通じないのではないか、という不安がある。

 自分の謝り方ではダメなんじゃないか、という恐怖がある。

 これは、根本的に捉え違いをしている。そんな不安や恐怖がある状態では——



 =実は、謝罪の気持ちなんてこれっぽっちもない!



 私は、あえて厳しいことを言う。

 ゆるしてもらえるかどうかという結果を気にする次元にいるということは、あなたに謝る気はない。そう思っておくぐらいのほうがいい。

 私が一番あきれるのは、「申し訳ない気持ちはあるけど、どう謝ったらいいかわからない・自信がない」という言葉だ。これは自分へのごまかしであり、甘やかしだ。

 そういう場合、申し訳ない気持ちなどないのだ。あるなどと、ウソをつくな。

 謝罪の気持ちもないくせに、「あるんだけどできないんだ」という、かっこつけ。プライドを守っているだけ。まるで「宿題はやったんですけどノートを忘れました」 みたいな言い訳。



 はっきり言って、気持ちがあったら謝罪はできるものなのだ。それは、言葉として見事かどうかなど関係ない。

 やり方を知らない、なんてバカなことを言うな。本当に気持ちがあったら、どんな奇跡的な力を生むか知っていますか?

 私は、自意識が抵抗したが気持ちが勝って驚くべき行動がとれたという経験が幾度もある。ものすごく大変な失敗をしたことが分かった瞬間、一瞬の躊躇のあと間髪入れず相手のいる場所を調べ、飛んで行って頭を下げたら、こっちがびっくりするほど簡単にゆるしてくれた。

 芸能人になりたくて、親に黙ってタレント養成所のオーディションを勝手に受けた。なんと合格してしまい、お金の問題とかで親に隠し通すことが不可能となって、結果やめろと説得された。でも、いい思い出である。

 フラれたらどうしよう、という不安と恐怖はあったが、でも好きな子に思いを伝えたい、言わずに後悔したくないという思いが勝って、告白できたことは数回。

 私は、本当に思う。気持ちが本当にあれば、方法論的なことは何とかなる。

 その気持ちのことよりも、方法論のほうに比重を置いていたのが、今日の「謝罪代行業」の特集番組であった。



 なぜ不安と恐怖が生まれるのか、考えてみたらいい。自分の謝罪の方法でほんとうにいいのか、ベストなのかと心配するその裏には何が?

 謝罪が相手に届くかどうかを心配している、というのは自分に都合のいい解釈だ。「相手のため」に心配しているのだ、という部分で隠れ蓑にできるから。

 実は違う。自分のためだ。「自分がゆるしてもらるかどうか」を気にしているだけだ。自分のとくを考えているのだ。



 不安と恐怖が邪魔しないのは、「余計なことを考える余地がない」状態。

 それすなわち、「申し訳ないという思いが純度100%で、あとでどうなるなどを思いやる隙間すらない心の状態」。それが、多くの場合相手の心にストレートに届く。

 謝罪の気持ちの本気度を測りたければ、謝る瞬間に不安や恐怖、ゆるしてもらえるもらえないなどの結果を気にする余裕さえない状態かどうかを見つめたらいい。

 これでいいのだろうか、なんて思考が頭をよぎるくらいの余裕があるなら、出直してきなさい。



 もうね、謝りに行くのに菓子折りがいくらがいいか、なんてね。すべてが体験のバリエーションで良し悪しはないと言ってもね……



●このバッキャロー!

 てめぇのバカさ加減にゃあな、

 父ちゃんあきれて、涙が出てくらぁ!



 そう叫びたくなる。

 高価な電化製品を買ったが、説明書もろくすっぽ読んでいないので、せっかく画期的な機能がついているのに知らないので使えないようなもの。

 機能が付いていても使う側が「知らない」ということは、「機能がない」のと同じだ。人は本来心から謝るすべを備えているのに、本人がそれを使えない状態にあるので「ない」のと同じ。把握しないからない、というだけなのに、人間はいつしか「もともとない」「だから頑張って身につけないといけない」と勘違いするようになった。



 まるで指示がないと動けない機械のように、謝り方を伝授してもらわないといけないなんて!

 あなたには、そのスペックはすでにちゃんとある。あなたが生きてきたこれまでの経験は、このためにある。それを信じて総動員して望めば、乗り切れる。

 そのことを信じられない世の中なんだなぁ。自分に自信がない世の中なんだなぁ。そしてそういう状況の真の大ボスは、すべてを損得や成功失敗で考える価値観システムなのだ。



 謝罪代行業者は、こうも言っていた。

 皆、謝るタイミングが下手だ、と。

 相手が怒っている時に何を言ってもムダ。相手がひとしきり怒って、言うことを言った後がいい、と。状況によっては、このタイミングに出会うのに何時間も(与えた被害の大小によっては何日・何か月・何年)かかる場合がある、と。



 アホか!

 確かに、表面的にはもっともらしい言葉のように聞こえるだろうがよ。

 謝罪のタイミングって意図的に図るもんじゃなく、自然に出てくるもんちゃうのん? 相手の話を聞くだけ聞く姿勢についても、作戦とかじゃなくて「相手の話に耳を傾けたいから、聞く」のでは? 気持ちがあるから、徹底的に聞こうと思えるんじゃ?

 こういう、方法論を聞いて「これで十分聞いたかな?」「まだ終わってないかな?」なんて思考で分析しながら相手の気持ちを聞くのか? それは、内面のことだから隠せるけど「相手の話を聞きながら、スマホでゲームをする」のと同程度に失礼である。

 この代行業者が示したような方法論は、方法論として知らなくても、気持ちが本当にあれば結果的にできる。事実、私がそうだった。謝罪のテクニックを教えるような本を読んだことはないが、何度も乗り切ってきた。そしてそれらは、単にゆるしてもらえたとかでなく、苦くはあったが気付きや学びとなった、感動的な体験だった。

 単にその場をしのごうという謝罪では、そういう体験にならない。



 おバカな方法論が流行っている。

 謝罪に限らず、TV番組やベストセラー本には、ハウツーや大学教授の実験知識などが踊っている。そして皆、それを手放しに受け入れ、喜んだり不安がったりしている。

 謝罪の研究で、どう謝ったら効果的か、を人の頭にコードをつないで脳波を測って実験している様子が番組内で紹介されていたが、一般論として普遍的に言えることなんてないの! 人が違い、場所が違い、文化が違い、時代が違ったら、全部答えなんか変わるの!

 あらゆる状況から普遍性を探って、その法則性に安心するよりも、その状況そのものをその都度見ることでのほうが、人類は成長できる。

 もちろん、物質科学的側面ではなく、精神面でね。

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