飽きる極意

 人が簡単に何かをやめれる時って、どんな時?

 それはズバリ「飽きる」ことである。

 ハンバーガーを食べまくったら、「もうイヤ!もう食べたくない!」となる。テレビゲームだって休憩なしで数十時間やり続けたら、どこかで限界が来るだろう。

「も~イヤ!」と叫びたくなるほどそれをすれば、直ちにやめれるものだ。



 人生において、「何かをやめられない」という悩みは結構あるものだ。たとえばタバコをやめられない。お酒をやめられない。

 ギャンブルをやめらない。風俗通いをやめられない (笑)。

 現実的行為だけでなく、精神的なものもある。自己卑下をやめられない。悲観的に(ネガティブに)物事を発想するクセが抜けない。

 自分を守るために、ウソをつく癖。そして気に入らないやつを見たら傷付けるようなことを言ってしまう癖。 

 やめられないんですけど、どうしたらいいですか? そういう質問を受けることがある。答えは簡単、最初に言った理屈を応用すればいい。

 でも現実は、言葉で言うほど楽じゃない。



 ほとんどのケースで、「飽きる前に逃避してしまっている」。

 さっき言ったように、本当の意味で飽きるということは「も~いい! も~イヤ!」と心から思うまで成立しない。では成立した時というのは、どうやって分かるか? それは大した労力もなく、誰から言われなくてもやめられた、という状況を観察できた時だ。

 そうなるのを見るまでは、「飽きた」とは言えない。してみれば、これも感謝とかゆるしとか気付きと同じで、あくまでも『結果論』であって、自我の意図で「飽きたという状況」を生み出せるものではない。



 人は、自分の利益になる行為以外しない。本書ではそのことを、ずっと伝え続けてきた。

 タバコや酒などの嗜好品も、心のクセも、一度はあなた自身が「利益になる」と定義したことである。いったん心と体が受け入れたことを、そうやすやすと破棄できるわけがない。その破棄手続きを完了するためには、「もう体には要らないんだ」ということを理屈ではなく実感として認識する必要がある。

 やめたいのにやめられない、という状況は、あなたという存在がトータルとしてまだ「やりたい」と判断している証拠である。



 バカは死なないと治らない、というあまり愉快でない言葉がある。でも残念ながら、この言葉は的を射ている側面がある。

 もうイヤ! と思えるための分かりやすすぎる簡単な方法は、それを体験し続けることである。しかし、人は時として忍耐力がない。本当にイヤ、と思える前にそこから逃げてしまう。

 他人からの執拗な説得が原因な場合もあれば、自分自身のごまかし(私は本当にやめたいと思っているんだ! という、まだ時でない時点での勘違い。早合点)である場合もある。



【筆者注】ここで述べているのは、心(考え方)のクセであるとか、直ちには命や社会的地位を脅かすことのない嗜好品や一定の行動に関することであり、強力な薬物(例えば麻薬など)に関してはここで述べているような理屈を当てはめている余裕はなく、どんな手段をもっても直ちにやめるべきである。



 その体験をまだ十分にしきっていないのに、そこから離れたりするということは——


 

●その体験から何も学ばない、ということである。

 せっかく問題に取りかかったのに、最後まで解かない、ということである。

 やりかかった課題を放棄する、ということである。



 タバコも酒も、心についたクセも、決してそれ自体は悪者ではない。あなたが『気付きや学び』を得るための課題である。

 飽きるとは、その正解をつかむことである。一度解けてしまい、自分の身についた問題は、もう解く気が失せる。よってそのことは二度とあなたを悩ますことはない。

 だって、今後何度同じ問題を出されても、解き方を覚えたからもう面白くないのだ。だから、手を出さないことが容易にできてしまう。

 でも、解いていないと何度放棄した問題でもいとも簡単に手を出すことになる。



●問題に手を出す → 解けないで途中放棄 → 解きたいのでまた手を出す → また放棄



 この繰り返しをして、人はボロボロになる。

 それもひとつの、価値ある体験の回収と言ってしまえばそれまでだが、皆さんはやっぱり何とかしたいと思うでしょう。



 あなたがやめられない、とお困りのそれを、悪者にしないこと。

 社会的、対外的に問題がない範囲で(大人ならそれくらい考えられるでしょう)、それを楽しめばいい。味わえばいい。思わずやってしまうというなら、今のあなたにとっては「それが一番自然なことだから」です。

 それに逆らうのは、苦しいでしょう。そして残念ながら、その苦しみはほとんど何の良いものも生みだしません。労多くして功少なし、になる。

 あなたが今それにとらわれているのは、学びを得るためです。単なる知識ではなく、生きた叡智をあなたにしみこませるためです。

 学びを得るまで苦しめ、と言っているのではありません。それはあなたが「やめたいと頭で思っているものをやめないのはいけないこと」だと判断しているからです。そこに罪悪感を持っているからです。

「これでいいんだ」「何か問題でしょうか?」くらいに思っても結構です。やっぱり別のやり方がいい、と心から思えるまではそれでいい。

 逆に、そう思えるまでに賢く立ち回っても(合理的判断で、知的分析でやめたほうがいいという計算結果を得る)、それは痛み止めと同じ効果しかない。いつかまた、それは襲い掛かってきますから。



 だったら、「今」でしょ!(笑)

 先送りにするくらいなら。また歴史を繰り返さないといけないのなら。

 もちろん、この次元を超えた観点では、あなたが今その課題をこなそうが失敗しようが、誰も何も困らない。知ったこっちゃない。どうでもいい。

 だが、あなたはどうでもよくないでしょう。こういう発信している筆者も、どうでもよくない。

 発信しているからには、それが「生きる」ことを願うのが普通だ。



●自分をいじめないこと。

 そのためには、比較分析という罠に気付くこと。

 その次の段階は、罠に気付いてもその罠自体が、生きる上で必要だと認めること。

 認めた上で、あえて私はその罠を楽しんでいる、という自覚をもつこと。

 確信犯的に、この世界に生きること。

 意識的に、人間を楽しむこと。



 以上を意識していただければいいと思う。



 しかし。人というものは面白いもので。焼き肉食べ放題で死ぬほど食べて、「もう肉なんか見たくもねぇ!」って言っていても2、3日もしたらまた「肉美味しそ~! 食いてぇ~」 となる。

 ホント、懲りないよねぇ。



 決して悪い意味ではなく、またその問題で「遊びたくなる」ということはある。

 飽きた、という状態は「それを二度としない」という使い方だけではなく——



●それを健全に楽しみ続ける。



 ……という使い道もあることを忘れてはならない。だから、あなたが「何かをやめたい」という問題に直面した時、二つの選択肢がある。



①納得するまで味わい、キッパリやめる道。

②あなたがそれに振り回されない「主人」の座を勝ち得ることで、コントロールして問題のない範囲で楽しめるようになる。



 いろいろ言ったが、こういうことって結局紙に書いた理屈じゃないんだよな。

 なるほどそうか、やってみよう! ホイできました! ああ、今のボクにはまだできません!……そういう、単純な問題じゃないんだよ。

「時」というものがあるんだな。人生の脚本、またはシナリオに書かれたタイミングと言ってもいい。

 心ってやつは難しい。頭でしたいと思ったことでも、できない時は本当にできない。逆にできる時というのは、得てしてそう苦労せずできてしまう。

 大事なのは「人事を尽くして天命を待つ」ってことかな。

 人間次元では、望みを抱いて頑張る。いろいろあがいてみる。でも、その結果や成り行きは、自分で治められるものではないから、お任せ(サレンダー)。

 現実なる前向きな行動と、内奥なる結果に対する降参。これらは一見相反するように見えるが、実は車の両輪である。

 極端なスピリチュアルも、極端な現実主義も、どちらか一方に偏っている。そのバランスが、今の時代必要とされている。

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