安心病
人は、どうも自分と他者との間に『共通項』を見つけるとうれしい生き物のようである。『シンクロ』という言葉が大好きなことからもそれがうかがえる。
他人と同じであり、自分が他からさほどズレていないということに安心するクセは、子供時代からつく。保育園なり幼稚園なり、『組織』『複数の人間集団』に関わりだした瞬間から、戦いは始まる。
誰々ちゃんと一緒。(安心)
私だけ、みんなと違う。(不安)
人は幼いころからすでに「多数決」という魔力に絡め取られていく。その瞬間、その空間にいる中心人物あるいは半数以上の意見こそが「真理」になる。この世界ではそれをつかむことこそが価値あることであり、つかめないでいるとうまくやっていけない。
フツーの生活の営みの上ならば、別にそれでいいと思う。そういう体験を、神意識がわざわざ人となってこの世界にコレクションに来ているのだから。
ただし、スピリチュアルと名乗る「この世の真実を言い当てる」と豪語する輩がこんなことだと、ええ加減にせぇ! と思う。具体的にどういうことかというと——
●スピリチュアル発信者で、やたら『科学』を持ち出す人。
ホラ、この内容は科学的分野でこうして証明されているんですよ!
ここ、同じこと言ってるでしょう? スゴイですね。
そんなふうに、科学的に裏付けられている(感じがする)ことに、やたら狂喜乱舞する人がいる。
非常に見苦しい。
私が、そういうメッセンジャーを見苦しいと思う理由を挙げよう。
●無意識に、科学を上に見ている。
スピリチュアルって、冷静に考えてみたら宇宙の根本原理みたいな話である。それが本当なら、どんなこの世的な(科学的・学問的)お話より位置づけは上位のはずである。なのに、その下位属性の科学にケツもってもらって喜んでいる。
まるで、ヤクザがバックについた闇金業者のようである。それをもって、自分の言っていることに説得力が増したかのように喜んでいる。
自分にハクがついたかのようでうれしい。科学と同じでうれしい。これは、子どもの頃から培った『誰々と一緒だと安心』的感覚。
もちろん、スピリチュアル的命題を補佐するたとえ話として、科学の話が出るのはアリだ。ただ、たまに読んでいてどうも「必要以上に科学様様になっている」ものがあることも確かだ。
●スピリチュアルは、別に科学なんぞに認めてもらわなくてもいい。
無意識に、科学のほうがこの世では説得力があり市民権では上位、と思っている証しである。残念だが、覚者(と言われている、あるいは自分で思っている)の中にもそういうのがいる。
例えば、大学教授と意見が同じであることで喜ぶような輩である。
いい機会なので、筆者の『科学』というものに対するスタンスを表明しておこう。
主流スピリチュアルは、「宗教(精神世界)も科学も目指すところ、到達するところは一緒」と見る。宗教と科学の統一、ということが夢見られている。
でも、私は違うと思う。
●宗教(精神)と科学(物質世界の探求)は、別物。
この先もずっと交わることはない。
だから私は、自分の主張していることに科学的に似た話があっても、嬉々として取り入れたりしない。鬼の首を取ったように喜んだりしない。
かなりの確率で誤解されると思うので、言葉の定義を整理しておこう。
筆者がここで「科学」という言葉を使う時、それは現状・現行レベルの「科学の世界」を言っている。本来あるべき姿の「科学」は、だいぶ形が違う。それを論じると長くなるので割愛するが、何せ現行の科学は盲人が手探りしているようなもので、科学と言うにはショボイ。
(もちろん、全部が全部とは言わない。魂の気付きの観点から進める科学者もいるだろうが、全体としては僅かである)
●現行の科学って、徹底した因果律だからね。
今を切り取った正味の科学を「科学」と呼ぶなら、それと精神世界が交わることはない。
今の説明からもう少し述べるなら、結果として宗教と科学の一致を述べるのは、必ずしも的外れではないケースも、もちろんある。でも、問題は表面的な見え方ではなく、動機なのである。
イエス・キリストが聖書の中でしつこいほどクドクド言っているのは、「動機の問題」である。挨拶そのものに価値があるわけでなく、どんな思いでそれをしたか。街中で祈る時。神殿でお賽銭を投げいれる時。そのしていること以上に重要なのは「心からそうしたくてした行動なのか」「それとも、周りを意識した、体面を気にした上での行為なのか」で、全然行動の価値が変わってくるからである。
私はまず、そこを問いたい。スピリチュアル発信者で、やたら科学の援護射撃を求めたがる人は——
●本当に「ああ、面白いな!」という純粋な気持ちからなのか。
それとも、自分の活動にプラスなる、という打算か。
無意識下で、科学を上に見ているのではないか?
科学に権威を与えている世界があるので、それと違うことを恐れていないか?
私は、科学に限らず『何かに保証してもらわないと不安になる、何かの後ろ盾があったら安心でいる』スピリチュアル発信者がいたら、それは『安心病』にかかっていると言えよう。
虎の威を借る狐、みたいなこと。筆者は、自分の言うことがメジャーな(売れている)スピリチュアルと一緒でないから不安になったり、「自分が間違ってるんじゃないか?」などと恐れることはない。
むしろ、違う方がちょっと楽しいかも。
●本当に自立した者には、何かの保証なんて要らない。
発信にただ誇りと喜びを持ち、それを世間的に分かりやすく説明する必要があるなら、無理をせずとも話は与えられる。決して、科学を見上げて合う話を血眼になって探さなくていい。
もちろん、スピリチュアルで科学の話をするな、という話ではない。自然なシナリオとしてそれが展開する場合もあるから。
筆者が常に言っていることだが、人は自分の主観でしかものを見ない。つまり、見たいようにしか見ない。だから、自分ではない他人のことは、その動機の世界までは見抜けない。
だから、こういうスピリチュアルメッセージを受け取る側には、知恵が必要である。読者の皆さんも、スピリチュアルの文章は気を付けて読んでほしい。
●これは、ただの楽しみから、ワクワクする好奇心から科学を取り入れているのか。
それとも、自分の正しさを際立たせたい無意識から、採用したものなのか。
それを判断する醍醐味が、読む皆さんの側にはある。
これは、ゲームだ。難しく考えず、取り組みたまえ。
にしても……だ。
科学と言ってることが共通することで不自然に喜ぶスピリチュアルは多いなぁ、と思う。それって、学校のお勉強面では苦手だったことの裏返し、それともコンプレックス?
……おお、私としたことが。(一言多すぎましたわ!)
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