Destiny

●この宇宙に、偶然はない。



 これは、スピリチュアルでよく聞くことのある言葉だと思う。

 筆者としても、このことに異存はない。

 しかしこの言葉には、一般的には余分な解釈までがおまけでついてくる。



●偶然はない=すべてのことに意味がある



 世の人は、この誤解をしている。

 これは、飛躍しすぎた思考の展開である。



 偶然でないということは、ちゃんと筋書きがある。

 筋書きがあるということは、物語には作者がちゃんといてその作者の意図が反映されるように、この宇宙の事象にもその創造主なる、大いなる存在(たとえば神)の意志が込められている……と見る。

 この論理的思考が、余計だ。

 二元性世界における因果理論が、別次元にも当てはまると思ってはいけない。



●作者の意図 (原因) → 作者の作品 (結果)



 こういう理屈が、上位の別次元世界でも成り立つと浅はかにも考える人たちがいる。原因と、そこから自然に導き出される結果がセットでなくてもいいという自由度の高さこそ、本当だ。別次元では、なおさらだ。



 意図を持った神などいない。

 この宇宙の物語を書く小説家は、究極にはいない。

 唯一の実在である非二元、別名『くう』には、意志がない。

 それはただの「無」、である。

 実は、思考したり感じたりできるのは、「作られた幻想レベルの存在のみ」である。言い換えれば、物語を紡ぎ意味づけできるのは、低次の存在ということである。

 しかし、神意識 (この世界を創造した上位次元存在) にしたら、これがなんともありがたいことなのである。完全であるがゆえに「楽しいことなど起きない」神意識には、二元性キャラ様様なのである。低次の存在である我々に頭が上がらない。

 だから、見方を変えると完全・絶対であることよりもこちら(人間)側、つまり幻想世界のほうが貴重であるとも言える。



 神意識は、確かにすべての可能性を回収したいから、すべての筋書きを用意はする。でもそれは、人間が物語を書くように『意図的』にではない。そこには感情がこもっていない。ただ機械的に、すべての筋道をきっちり用意するだけである。

 そしてまた、神意識が用意する人生の可能性は、私たちにとって「良い」と思われるものばかりではない。すべてが必要なので、こちらからすれば無慈悲な、容赦のないシナリオも描く。

 こちらの気持ちが分かっていれば書かないような、ひどいのものある。でも、分かっていないからこそすべてのタイプのシナリオがきっちり書ける。これは他が言わない重要事項であるが、神(神意識)には人間の気持ちが分からない。

 我々にできるのは、ただ自らに与えられた人生脚本の筋書きををなぞり、得た体験を神意識にフィードバックすることだけ。

 神意識自体に主体的な感情はないが、人間がフィードバックした体験(そしてそこに込められた感情)を取り込むことで、感じるという行為ができる。

 


 宇宙におけるすべてのことは決まっているので、その意味で偶然はない。

 偶然はないが、だからと言ってそこに特別な意味など込められていない。ただ、すべての体験の可能性を潰していきたいだけ。

 皆さんは、それを聞いて寂しいと思うだろうか? 思うのなら、もう筆者の言うことは忘れていい。あなたは、私と人生シナリオが違うのだ。どちらが正しい、というわけではない。



 スピリチュアルの世界で神のことを言う時に、ストレートに神と言わず「サムシング・グレート」という言葉で言う時があるが、筆者はこの言葉が好きではない。

 あれは、手あかのついた「神」という言葉を避けるための方便としての「逃げ」だ。そんなものはいない。誤解のないように捕捉すると、この宇宙を創造したぬしとしての「神」はいるが、それは人間が思い描く宗教上の「神」ではまったくない、ということだ。いるとしても、その神はこの宇宙をあらゆる可能性を試す「実験場」くらいにしか認識していない。

 サムシング・グレートとやらがあなたの幸せを願っている、とかいつも愛をもって見つめているとか、どうしたらそんな寝言がでてくるのか。

 百歩譲って、そういうもの(愛の神)がいるとしたら、それは「人間自身」である。間違っても、あなたの外に偉大な存在はいない。

 理解が混乱するので、たとえ便宜上でも、外に何かが在るかのように誤解しかねない言葉は使わないほうがいい。それは、「くうとは何か」と考えることにも似ていて、認識する主体(あなた)と認識される外部の対象(くう・サムシンググレート)があるかのように錯覚してしまう。

 そんなスピ情報ばかりだから、いつまでたってもスピ実践者は空がつかめない。 



 もう一度言っておく。

 意味あるものを創造する力のあるのは、人間(知的生命体)意識のみである。(神意識と言ってもいい)

 究極の大いなる存在とやらは、ただその材料を提供してくれるだけで、自身では何ら意味づけには関与してこない。こちらが意味づけしたあとのすべてを、受け身で「味わう」ことしかしないのだ。

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