分かる日本語で話せ!

 筆者がスピリチュアル界全体に物申したいこと。



●意味の通じる日本語で話せ!

 分かりやすい言葉を使え!

 読者をけむに巻くな!



 スピリチュアルが広まりにくい要因のひとつに、これがある。

 スピリチュアル実践者は、いわゆる『スピリチュアル業界特有の専門用語』をつかうことにおいて結構普通の感覚になっているだろう。日常会話にまで自然に登場するほど、使いこなしている。

 でも、その人は気付くべきだ。同じ日本人なのに、フツーの方にとって言葉の通じにくい人になっていることを——



 ある時筆者は暇つぶしに、適当に有名なスピリチュアル系ブログをピックアップして、ある読み方を実践してみた。

 私が『スピリチュアルを知らない』ものと仮定して、そのつもりで読んでみた。したらば、『ドン引いた』。

 この人たち、一体何をしゃべっているの……

 スピリチュアルジャンルのトップたちがこれでは、100年経ってもスピリチュアルは広まらない。(もちろん、有名なものすべてではありません。マシなものもあります)てか、筆者的にはそれでいいけど。



●スピリチュアルとは、この幻想世界ではパン生地をこねる時に入れるベーキングパウダーのようなものである。

 全体の中で、割合を多く占めることは、いいことではないからだ。ちょっとが適量なのだ。もしベーキングパウダーを必要以上に入れてしまうと、パンがえらいことになってしまう。



 スピリチュアル実践者は、自意識で認識はしてないだろうが、一種の『優越感』がある。自分は「本質」に興味をもつことができ、それに迫ることができる道にいる、と。日々仕事とたまの余暇をいかに過ごすかにしか興味がない人よりも、アドバンテージがあると。

 もちろん、自分だけおいしい目にあうのはよろしくない。だから、どれひとつ皆さんにもおすそわけ、というか「広めて進ぜよう」という気になる。

 確かに、スピリチュアルは体質的に宗教に比べると押しつけ度は軽い。でもやっぱり、どこか「これこそが本質ですよ、これこそが真実ですよ」感がある。

 どんなに、ソフトな言葉で飾っていても、だ。



 この世が幻想だとか。

 あなたはいない。他人もいない。

 自他の認識は分離意識の産物で、本当はおおいなるひとつ(ワンネス)だけがある。過去も未来もなく、今しかない。時間は幻想。

 答えは外にない、あなたの内に全部あるとか——

 これらの言葉は、本当である。でも、知る必要は必ずしもない。

 TVゲームでマリオをプレイする上で知っていればいいのは、ゲーム上のルール(決まり事)と、具体的な操作方法だけ。マリオのゲームを組み立てている根本(難解なプログラミングデータ)は、理解しなくてもいい。

 てか、あんなチンプンカンプンなもの、プログラマーやゲームクリエイターを職業とする人だけが分かっていればいいものである。TVゲームを楽しむ子どもには、プログラミング言語がどうだろうが、どうでもよいことだ。

 宇宙の根本や成り立ち、目に見えない世界の本質に迫るのがスピリチュアルなら、それはいわゆる「ゲームプログラムを理解できるようになること」に当たる。

 でも、この世ゲームは、三次元キャラの操作(仕事の仕方、社会生活、勉強や常識など)ができたら、それだけで問題なく楽しめるのである。

 それを、万民にゲーム遊ぶだけじゃなくプログラミング言語分かれ(スピリチュアルたしなめ)、というのはちと行き過ぎである。



 筆者も、一応スピリチュアルという分野で文章を書いている以上、どうしても使わないといけないスピリチュアル用語はある。仕方なく使っている言葉として自覚しているものでは、『*この世は)幻想』『二元性世界』 『くう』 『ワンネス(神意識)』など。あと、この世での人の人生を『ゲーム』に例える。

 この辺に関しては、初めて読んだ方には申し訳ない部分である。でも、私だけに関して言えば、自分のメッセージを広める気はあまりない。 

 こういうのって、『縁』だからね。

 どんなに頑張って説明しても、反応しない人はしない。どんなにテキトーでも、食いつく人は食いつく。

 そして私は、自分の主張を「たくさんあるクラブ活動のひとつ」だと思っている。そのへんをわきまえていないスピリチュアルは多い。

 それが世界を動かし席巻し、いつかメジャーになる(世界中の人が認め、やりだす)と夢想している。ひどいのになると、それの価値が分からない人は最後残念な運命をたどり、それに同調できた人々は、いわゆる高次元と言われる素敵な所へ行けるという。



 今の世で言うスピリチュアルは、今後も人口の一定比率内にとどまる。

 多分、数百年単位で。

 訳の分からん言葉が飛び交う現行のスピリチュアルは当然そうなるが、もし我々スピリチュアル実践者が小難しい用語を駆使するのをやめ、日々小難しいメッセージやそれに対するこれまた知ったかと優越感にまみれた(でも本人はあふれる愛からだと思っている)コメントを書くことをやめ、現実ゲームプレイ面が大事であることに気付き、難しいことは考えず楽しく生きだしたとしたなら——

 そういう『脱スピリチュアル』的なスピリチュアルが確立されるなら、それは勢いよく広まるのではないか、とも思う。

 もう、理屈はいいよ。今世に出ている精神世界系の本だけで十分。お腹いっぱい。

 いくら行動を生むのが意識だから意識だけに取り組んでいたらすべて解決、とは言っても、平均的なスピリチュアル実践者の多くは、どこかピントがズレている。

 この事実を、厳しく指摘したい。



 スピリチュル実践者よりも、やってない人の方が立派な人物であることがある。人間的、人格的評価では一般人のほうに軍配が上がるケースも多い。

 かえって、スピリチュアル用語を駆使し実践している人のほうが「イタイ人」であることも多い。


 

 スピの高名な先生方がよく推薦するのが、『OSHO』の本である。

 私個人的には、あれ大していいとは思わない。ってか、読み方によってはかえって害になる。

 言ってることは至極もっともだ。でも、我々分離意識は、あらゆる可能性、あらゆる役割を演じに来たことをOSHOは分かっていない。つまり、彼が指摘する問題な状態が、そもそも『これでいいのだ』ということを分かっていない。

 彼は、知識に陥る人を 「深みがない。軽薄だ。表面的」と断じているが、演劇上そういう分担の人だって世にはバランスとして要るわけである。あなたがOSHOの言うような本質に迫れる役割のキャラだったら、他に「そうでない役割」を担当し演じてくれる魂があるからこそ、あなたはそれを味わえるのだ。

 天の見事な配役・配剤に感謝しこそすれ、彼らを「分かってない奴ら」などと評価するとはなんと恩知らずな傲慢屋さんなのか。

 これは、私だけの意見であるが、無理にOSHO読まなくていいよ。

(もちろん、読みたいという人は別として。読まなきゃと頑張らなくていいよ、ということ)

 あんなの理解できなくても、幸せにはなれます。

 逆に、下手に理解しようとして、痛い人になることはあります。(笑)



 スピリチュアルをやらないと『大変なことになりますよ!』と言う脅し系スピリチュアルは多い。だったらあえて私も、そういう人たちに一言脅してやろう。



●今すぐ、脅すのをやめなさい! 

 そのスピリチュアルを好きな自分だけができていたら良しとしときなさい!

 でないとあなたは自分を、本質にたどり着いた『イケてる人』と思ってるかもしれませんが、実は多くの一般の人にとってただの『イタい人』になっていることに気付かず、独り相撲の人生で終わるかもしれませんよ?



 まぁ、それも回収するべき体験・可能性のひとつだから、その方が担当してくれるというならそれは大歓迎だけれども。 

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