Q&Aのコーナー第六十三回「根拠がないのにそう言い切る自信はどこから?」
Q.
シナリオなのであらかじめすべて決まっているとよく言われますが、あの世で見てきたわけでもないのに、なぜそう断言できるのでしょうか。
覚醒した時にわかるのですか。覚醒者さん特有の思い込みや決め付けという可能性はないんでしょうか?
一人ひとりが宇宙の王だということなので、真実かどうかは関係なくそれでいいのでしょうが……
「すべてはシナリオ説」を筆者さんが採用することになったのは何がきっかけだったのか、聞きたいです。
A.
根拠がなくても、断言できるんです。
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これは、前回の本書の記事「この世界で起きることはすべて決まっている」に対して寄せられた質問コメントである。
そこで私が語ったお話の肝は、その主題の他にもうひとつ「因果なんてない、必要ない」ということだったはずだ。なのに、この質問は一体?
あの世を見てきたわけでもないのに(原因)
→ そんなこと断言できるのはおかしい(結果)
言い換えれば、見て来てこそ初めて言える、ということである。
これを言ってしまったら、スピリチュアルという分野は崩壊する。百歩譲って「私は見てきた!」というスピリチュアル発信者がいたとしても、だ。それは、結局本人しか分からないことで、他者には言葉以上にはどうにも示しようがない。
証明のしようがなく、周囲は信じるか信じないかしかない。つまりは賭けだ。
筆者が本書で言ってきたように、人は主観でしかものを見ていない。文章をよく読んでみたらいい。有名どころの覚者の文章でさえ、ありゃ主観だ。
だから、人間の認識、つまり視覚・聴覚・身体感覚・あるいは物事を捉える認識能力これらのものは実に不安定で、脆弱なものだということを忘れてはならない。
見たわけじゃないなら言えない、とはいえ逆に「じゃあ見たら言えるのか?」 となるとそれもまた疑問である。
その「見る」ということすら、証拠としてはもろい。
要するに、この質問者さんは因果があるという立場に立っている。そこから、物事の論理を展開している。筆者はというと、それがないというお話を展開している。
要は、日本語が分からない外人と英語が分からない日本人が会話をしているようなもの。議論が、噛みあわない。
因果がない、という話をしているのに、因果はあるというワールドの発想で質問を返されても、どうしようもない。答えようがないので困ってしまう。
何を言っても、平行線でしょう。だって、考える土台がまるで違うのだから。
でも、それを言っちゃあお話が広がっていかない。なので、以下頑張って(笑)お話を続けてみたいと思う。
本書で筆者は、色々断言している。
その根拠は? と皆さんとしては問いたいだろうとは思う。
でも、私はこう答えるしかない。
●根拠など、ない。
常識的には、こんな重要で人生を左右しかねない内容を、根拠もなく言っている私は世を惑わす大迷惑な人、ということになってもおかしくない。
じゃあ根拠があればいいのか、という話になるが、じゃああったとしてその根拠の質やいかに?
●(その人にとっては)信頼できる有名なスピリチュアルの先生が言っている。
根拠といったって、実はただそれだけの場合が多い。
そこにあるのは、信頼だけである。じゃあ、その信頼はどこから来るか?
世間的に有名である、という肩書は苦もなく人を信頼させる。じゃあ、その信頼を勝ち得るに至った根拠は?
多くの人に受け入れられた? あえて皆さんの土俵で相撲を取ると、そんなの「非科学的」。だって、1+1=2みたいなハッキリしたもんじゃないでしょ?
皆一人ひとり個性が違い、生まれてから吸収してきた経験や感情も違う。ゆえに何かを一定数が支持しても、その支持の仕方も千差万別。何がツボったのか、どこに反応し、どこに救われたのかも違う。
もっと言えば、どんなメジャーどころでも支持しない人はいる。信じている人からしたら、「相手は分かってない」という傲慢な理屈に走ってしまうが。じゃあその不支持はなぜ起こる?
一応この世界では、1+1は2である。(そういうことにしておく)計算する人によって正解が変わる、ということはない。
仮に、精神世界で言う『真理』なるものも、人によって正解がコロコロ変わるようなものであってはいけなくて、誰にとっても「同じ」なものであるべきだ、とする。
でも、皆スピリチュアル的文言に触れて、出す答え(あるいは反応)が違う。
熱狂的に支持する人。そこまでではなくても、まぁいい話じゃない? `程度でそんなに重要視しない人。嫌悪感をあらわにし、目くじらてて批判、攻撃する人。そこまでではなくても「これもういいや。自分には合わんわ」と二度と見ない人。
1+1=2というふうに、人間は何故かできない。
今回の質問者さんも世間の皆さんも、何かを信じる時に求めるのは「保証」である。それが確かである、という。
損をしたくないからだ。「間違った」ものをつかまされたくないからだ。でも、私にとってはそういう保証など、この世界には存在しないことを知っている。
ある真理「~は~だ」という内容。
そして 「なぜなら、かくかくしかじかで……よってこう言える」という根拠。
根拠が、何かの真理を言い当てた言葉の信憑性を保証できるには条件がある。真理の言葉そのもの以上に、具体性、客観性において根拠の方が上回っていないといけない。でも、スピリチュアル的な分野で言う真理なんて、どれほどの裏付けが可能?
●ただ、覚醒体験を通して『見た!』の一点張り。
キリストが現れた。ハイヤーセルフが現れた。守護霊が現れた。で、神々しい光を放ってそう言った。
もっとひどくなると、「魂の深い部分で確信したのです!」ただそれだけ。感じた、っちゅうだけ。(ただし強いレベルで)
こういうのは、「根拠」とは言わない。
さらに愚かな展開だが、そうしたものが世間にウケて、本まで出てしまう。その人は、講演に引っ張りだこ。そうしたら、根拠云々という次元を人は問わなくなる。
目に見えた人気、それが内容が正しいことの根拠に、無意識の部分ですり替わる。
だから、予選を飛ばせるシード選手のように、ある程度の知名度と人気を得ると、今まであれほどニセモノはゆるさない! くらいの勢いで突っ込んできた人が、ウソのように激減する。いなくなることはないが、減る。そしてメッセンジャーという人種には「調子に乗る」タイプが多いので、初心を忘れて現状維持もしくは発展を望むようになる。
すべてはあるがまま、執着しないと言っておいてホンネは 「もっと欲しい。最低でも現状維持。下がるなんてあってはいけない」と思っている。
(年寄りはもうちょっとタンパクかもしれないが)
いや、私は違う。これこそ真理だと魂が感じています!
波動で分かります! これこそ本物。
本当に腑に落ちたので、支持しているんです。人気でしょ、とか筆者さんひどい!
そういう、信じる側の「その人なりの確信や実体験」があってのことだという人もいるだろう。
腑に落ちる、という体験の正体の多くは『腑に落ちた気になる』というものである。皆さんはこの言葉を軽々しく連発するが、本当の意味で腑に落ちることなどそうそうないのだ。
この世に真理はない、というのと同じ理屈で、この世で「本当に(100%)腑に落ちる」ということはない。それは、願望というものが生みの親だからである。
あなたの向き合っているものが「真理」だから、意識し続けているうちにそのことが「腑に落ちた」ということになると思っている。でも実は、あなたの意識がそれを受け入れた以上、「それが本物でないと困る」のだ。
もうあとにはひけない。それが真理でないなんて、あってはならないのだ。
もちろん、そんなこと自覚できたら格好悪いので、自意識で自覚できないように深層意識に押し込める。
●あなたが「本物や!」と感じる波動もオーラも魂反応も、夢を壊すようで悪いが、全部願望の副産物である。
客観的なデータなどこの世界には存在せず、ただあなたの「どう思いたいか」が見せるイリュージョンである。時として覚醒というものですら、そのカテゴリーに入る場合がある。
スピリチュアルな内容が腑に落ちました! というのは、たいがいは願望が見せるイリュージョンであり、勘違いである。そうであってほしい、という必死さが成す業である。
この世には、『腑に落ちない』ために来た。落ちたとしても、それはこの世ゲームを続けるために「余地を残した」腑の落ち方に絶対なる。
完全に腑に落ちる、というのはメガトン級の思い込みである。乱暴に言えば、覚者とはメガトン級の思い込みをしている人とも言える。
筆者も、そうなのだろう。要は、思い込みだろうが何だろうが『幸せになったもん勝ち』『魂の平安を得たもの勝ち』なのである。
裸の王様、という童話を思い出してほしい。
王様は、裸である。実際、裸に見える。
でも、権威ある筋が 「王様は裸なのではないぞ! 透明なお召し物を着ていらっしゃるだけだ! ちなみにそれは、賢い者だけに見えて、愚か者には見えないそうだ」という公式見解を出す。
一般民衆は、普通に考えたらどう頭をひねっても裸に見える。でも、二つの要素が、彼らをして自分を疑わせ、聞いた情報こそ信じるべきと誘導する。
①王様という、自分たちよりも偉い(賢い)人間が言っていることだ、という点。
②賢い者には見える、と言われて、自分が愚か者のほうでいいと思える人は少ない。ほとんどの人は他者の評価を気にする。よって「見える」という方に自分の手持ちのチップを全部張る(賭ける)。見えなくても見えるフリをする。
そうしていたら、本当に見える! という体験をするから不思議だ。
やはり、ほとんどの人は 「おお、なんと立派なお召し物!」 と言った。
でも、素直な子どもが一人、こう言う。「王様、裸だよ!」
自分たちのエゴをあぶりだされた大人たちは、大いに恥じ入る、というお話。
たいがいのスピリチュアルは、これだ。
そう言えば、質問者さんは面白い指摘をしていたなぁ。
「覚醒者さん特有の思い込みや決め付けという可能性はないんでしょうか。」
あ、いや。可能性も何も、それしかないでしょ!
その通り、と言っておこう。だからこの世界のスピリチュアルとは——
●自分の気に入った思い込み・ファンクラブ
そのように思って差し支えない。
筆者は、好き勝手に思い込みと決めつけを語っているのだ。だいぶ前から言ってるでしょうに。
……なんか今、元の話と思いっきりズレていることに気付いた。
これも、起こることが起こっている? (笑)
ひとつのたとえ話をして、質問への答えとしよう。
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あるところに、悪魔がいた。
この悪魔は、百発百中の名スナイパー。
狙ったまとは絶対に外さない、正確無比の狙撃手。
ある人が、「お金があるから幸せ」だったとする。
そこには、「お金」という実に分かりやすいまとが燦然と輝いている。
「おお、あれだな」
ライフルを構え、悪魔はズドン! お金が幸せの根拠だったその人は、幸せである理由(裏付け)を失い、不幸になる。
またある人は、「愛する人がいるから幸せ」だったとする。
そこには、「愛する人」 というまとがキラキラ輝いている。
「おお、これも分かりやすい。ちょろいぜ」
ライフルで、ズドン! 愛する人を失ったその人は、幸せである理由ももはやなくなり、不幸になる。
でも、幸せそうにしているある人を見て、悪魔は困った。
いつものように、「まと」を探そうとしたのだが……
ないのだ。
たいがいの人間には、何事も根拠があるのに!
なんだこいつ。ただ生きてるだけで幸せ、って顔してやがる——
結局、悪魔はこの人に何もできなかった。いくら名狙撃手といっても、狙うまとがあってのこと。まとがなくては、狙撃の腕を発揮のしようがないのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
根拠などあると、その根拠がもろくも崩れ去ると終わりだ。
でもあなたは、だからこそ「強固な、崩れない絶対の根拠」ならいいと考える。
でも、この宇宙にそんなものは存在しない。どんなモノも、現象も、認識も感覚も——
●すべて主観。
すべてイリュージョン(幻想)。
ワンネス(ただひとつの「在る」 という存在)以外、全部 「存在しない」。
結局、この世界の何かを、絶対として支えうる情報などない。根拠として挙げられる理屈などない。
裏を返せば、根拠がなければ崩されたり壊されることはない。
筆者は、すべての情報を「根拠なく」言っている。チャネリング同様来るままにしゃべっているので、口を貸している話者には根拠までは分からない。
ただ言えるのは、すべてに根拠がないので、皆さんより生きるのが楽でシンプルだとは思う。
根拠なしで好きなことをしゃべり、なおかつ罪悪感がないので、自分で言うのも何だがある意味最強である。強制はしませんし信じろとも言いませんが、あなたさえよければ試してみませんか? 「すべてに根拠などなくていい」 という楽な生き方を。
後日、「すべてが決まっている」 という内容に対する皆さんの偏見や先入観について改めて語ろう。
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