田中が死んだらお前も死ぬんか?

 筆者に読者から、質問メッセージが届いた。

 詳しいことは書かないが、超要約すると「あるところであなたは100%原因説は意味がないと言ってるが、別のメッセージでは『意識を向けた対象が力を持つ(思考が現実化する)』というようなことを言っていた。それは矛盾ではないのか?」と、そんな内容である。



 恐らくだが、この質問者は私が最近発信したある二つの記事を時間を置かずに連続で読んで、混乱したものと思われる。

 ひとつめの記事では、「100%自分原因説は違う」という内容を読み取り、それはこの方の価値観とも一致したようで「ふむふむなるほど」ということになった。

 でも、ふたつめの記事を読んだ時に「人の意識が投影されたものが現実をつくる」 と書いている部分で反応した。「エッ! 昨日と言っていることが違うぞ!? これだとやっぱり『自分原因』だと言えるんじゃないの?」



 振り返って調べてみたが、私はこう発信しているはずである。

 自分の言ったことを、そのまま引用してみる。

『この世界は大なり小なり、その人の意識にあるものが投影されるものである。』



●『大なり小なり』 って書いていますけど?



 大、だとしても「すべて」だとは言ってませんよね? つまり、一定のパーセンテージでの「自分原因」のケースを認めているにすぎず、100%すべて自分原因だと言っていない点に注意してほしい。

 なのになぜ、私のここで言っていることが 「100%自分原因説と同じ。あるいは支持している」 ということになってしまうのか?

 要するに、決まっている部分もあるけど選択できる部分もある、ってこと。

 この質問者さんが囚われている、認識の枠組みは何かと言うと——



●黒か、白か。

 相反する二つの事柄があった場合、どちらかが正しく、どちらかが間違っている。

 だから、私が矛盾する二つのことを言った時、落ち着かない気分になる。

 どちらが正しいのかを整理しなければ、落ち着かないからだ。



 この世界に、真理などない。

 100歩譲ってあるとしても、次のふたつだけである。



①真理(決まったこと)などない、という真理。

②自由、という真理。



 この世界がひとつで、そこにたくさんの人間がひしめいていて、その世界を貫くある真理(神が創造した法則性)のようなものがあり、それから逃げることができない。だから人は、その真理とやらを見つけ出して「幸せ」にならなければ、と考える。したがって、その真理が分からないと「不幸になる」と考える。

 だから、不安に駆られた人々が脅迫的に考え続けることは「何が一番正しいのか?」ということである。

 そういう方に、筆者が引導を渡してあげよう。

 唯一の正しい答えなどない。あなたが神であり、あなたが採用する何かが、あなたのワールドでの真理になる。

 


 もし、仮にこの世界に「絶対なる真理」なるものがあるとしよう。

 必然的に、それを基準にして人類が行うすべてのこと、目にするすべてのものの正誤や善悪がジャッジされ、皆その結果に応じた報いを受けることになる。

 人間、世界を観察し続けることによって普遍なる法則性を見つけ出すプロだ。現に、そうやって科学というものを発展させてきた。でもそのプロをして、6千年以上の時を観察して来たというのに、科学的・数学的普遍性を越えた『宇宙の真理(生き方、目に見えない世界やこの世界を越えた次元の秘密)』に関しては発見できずにいるのだ。

 未だに世界には無数の宗教や哲学、スピリチュアルが存在する。皆それぞれに真剣にやっており、お互いが歩み寄る気配もない。

 私もかつてキリスト教を真剣にやってきたから、分かる。当時、私は名探偵コナンばりに「真実はひとつ! 真理はひとつ!」と考えてきた。

 だから、時代が進むとニセモノは淘汰され、滅びゆき、本物だけが生き残るのだ、という世界観を持っていた。いずれ、正しいものは明らかになる、と。

 でも、よく考えたら浅はかな考えだった。6千年もあれば、正しものが明らかになるのに短すぎるということがあるか? なるものなら、もうなっていてもおかしくない。それとも人間という存在は、それほどまでに能無しのボンクラなのか?

 本物がその真価を現しニセモノが消えるどころか、新興宗教も新手のスピリチュアルも、どんどんそのバリエーションは増えしかも勢いを増している。滅ぶどころか、逆に盛り上がっている。

 これをどう説明するのか? で、私は覚醒体験を通してやっと次のことが分かった。



●あ、決まった真理なんてないんだ。

 全部、自由なんだ。

 何かの正しさがあって、その定規に合わないものは 「まちがい」 だから、その基準にしがみついていたら物事がうまくいかなかったり、不幸になったりするんだ……という今までの発想は、的外れである上に楽しくない考え方だったんだ。

 だから、みんな好きなようにやってみんないい。違っていい。

 ただ、イヤになったり変えたくなったら、その都度思想信条は変えたらいい。



 100%自分原因説が間違いで、起こることはすべてシナリオが決まっている論が正しいのではない。また、その逆と言うわけでもない。

 100%自分原因説は正しいのだ! と宇宙の主人公としてのその人が本気(マジ)で採用し、情熱をかけているのだったらなおさら。筆者のシナリオ論に関しても同じことが言える。

 人の数だけ真理がある。人の数だけ宇宙がある。そしてそれらは統一される必要はなく、異質なままでその最高の価値は保障される。



●なんで、みんなが従わないといけない理屈を考えたいの?

 そこまでして、皆をひとくくりにして、何かの正しさを当てはめたいの?

 もしかしてあんた、『楽したい』の?



 従うべき絶対的に正しい真理などあれば、生きるのに楽かもしれないが窮屈だ。

 実は、私個人としては全部起こることが起こると思っている。自由意思など、実はないと思っている。(あ、言っちゃった!)

 でも、あなたは小さな子どもと 「サンタがいるかいないか」 で真剣に議論して打ち負かしますか? 勝ったら、うれしいですか?

 サンタはいる、でそっとしておいたらいいじゃないですか。その子が自らの力で色々と認識し、世界の見つめ方を成熟させていくに任せればいい。今ここでの、その人物の全力の「認識」を、尊重してあげたらいい。

 それができるのが、成熟した社会である。

 質問者さんは、心外に思うかもしれない。私、そこまでのこと言ってません。何でそんな大げさな話になるんですか! と。

 でも本人が自覚しなくても、見たくないものをあえて見つめていくと、そういうところに行きつくのだ。



 ここまで書いて、ホンットどうでもよくなってきた。

 好きに考えたらいいやろ!

 他人の言うことなんか、どうでもいいやん!

 信じたいように信じ、考えたいように考えたらいいやん!

 矛盾してたっていいやん。ってか、「矛盾したらいけない」「矛盾してたらそれは間違い」って誰が決めたん?

 そこからして、すでに 「思考の罠」「疑うことすらしない、常識という名の決めつけの落とし穴」である。私は、1+1=2ではなく、3でも4でも100でもいいと思っている人間だ。矛盾それ自体、矛盾でも何でもないと思っている人間だ。

 そりゃ、質問者さんと話も合わないはずだ。



 一番痛いところを指摘しよう。

 この質問者さんは、自分が主人公の人生を生き切っていない。

 だって、宇宙の主人公が他人の言うことで意志を左右されているんですよ?

 こういう質問が出ること自体、自分に本当の権威を置いていない証拠だ。

 きっとこの人は、他の覚者やスピリチュアル発信者さんや売れているスピリチュアル本に対しても、同じ態度なんだろう。自分はよく分かっていなくて、教わらないといけない人間。だから、自分がせっかく耳を傾けようとしている人物なり内容なりに、間違われたら困るのだ。

 他人に、あなたの考えの正しさをを保証してもらったり、裏付けてもらわないとダメなんですか? めっちゃ、不自由な人生ですね。

 あなたの外に正しさはない。あなたが決めなさい。

 あなたが100%原因説が正しいと思う場合、他人がどうだろうとそれでいいじゃないですか。あなたがすべて宇宙のシナリオ通り論が良ければ、他人がどうだろうとそれでいいじゃないですか。

 他人の意見で不安になるということは、あなたは自分を神としての自己受容ができていない。筆者に自分の感じた矛盾を解決してくれ、ということは自分では決められないってことだ。

 ってか、私の事なんか放っておけばいいものを。

 


 小学生時代、流行った言葉。

 名前の部分は別に誰でもいいのだが——



●田中が死んだら、お前も死ぬんか!?



 何かの言い訳で、「誰々ちゃんがやれっていうから」「誰々くんがそう言うから」などというのがある。その責任転嫁を、強烈なユーモアで揚げ足取ったのが、この言葉である。

 この質問者さんにだけでなく、改めて本書の読者の皆さんに問いたい。



●筆者がこーゆったら、あんた信じるんか?

 筆者が死んだら、あんたも死ぬんか?



 本書には、真理は書いてない。ただ、書きたいことを書きたいように、整合性など無視して書いている。

 そんな本書に、そもそも一貫性を要求してくること自体、油を洗剤にして皿洗いをするようなものである。意味がない。



 最後に、一言。

 本書には、いろんな人が読みに来る。

 私が日々綴る言葉も、その時々のチャネリングなので、思考で過去に言ったこととの整合性など取ってられない。

 あと、誰が相手かによって言うことって変わってきません?

 たとえばここに、少年野球チームの監督がいるとする。

 強気の、芯の強い選手には、あえて「闘魂に火が付くように」多少厳しめにアドバイスするかもしれない。逆にちょっとナイーブな性格の子には、あまり頭ごなしにミスや不調を責めず、優しく「お前を信じているよ」というようなことを伝えたりするだろう。

 相手(の状態)によって、言うことや対応を変えることは当たり前。

 だから、所々矛盾している場合には、自我を越えたプレイヤー意識からの要請で、そのタイミングでこの言葉を必要としている人向けに書かせた、と考えてほしい。この場合、その対象の人以外のすべての人に「今日の記事はくだらなかった。響かなかった」と言われても全然かまわない。

 大人が子どもに目線を合わせて話をするように、私も時折柔軟に書く。まだまだこの世界は、「自由意思信仰・自分で作っていけること至上主義」のほうが多数だから。合わせてあげることも時には優しさでしょ?

 だから、そこのところは空気を読んでから、ツッコミを入れてくださいな。



 美しさとは、整合性の取れている状態のことではない。

 それは、見方を変えると醜さでもある。

 本当の美しさとは、矛盾や整合性を越えて、すべてを認めた上で自分が一番心地よいものを選べる状態の事である。

 その状態に憩える人は、他人の意見がどうだろうがそれによって不安になったり、左右されたりしない。

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