呪いとしての言葉

 言葉とは何か、を考えたい。

 まず、言葉とは結構曲者くせものである。

 なぜかというと——

 


●本来存在しないものを、存在するかのように生み出す魔法。

 すなわち「呪い(しゅ)」だからだ。



 あなたの名前は、山田か。佐藤か。

 実は、そんなものは本来存在しない。でもその名で呼ぶことで、そういうものがいると認識される。その時点で、もう魔法がかかっている。

 本来、原子分子の集まりに過ぎない一部分に、定義付けがなされる。そこに息が吹き込まれる。それはちょうど、TVゲームをやろうとTVとゲーム機の電源を入れた時に、それまでただの真っ暗だった画面に光が宿り、その細かい画素(ドット)の明滅によって、そこにマリオがいるかのように映し出されるのに似ている。

 プレイヤーがコントローラーをいじると、画面の中の光の集まりにすぎないマリオに命が宿り、あたかも本当に生きているかのように観察される。我々は、画素の光の集まりに過ぎない集合パターンを「マリオ」と呼び、その光の動きに過ぎない現象を見て、「あ~失敗!悔しい~」「おお~ステージクリア!」とか言って一喜一憂しているのである。

 もちろんそれは、光の明滅パターンの集合に過ぎない現象を、あたかもそこで何かが起こっているかのように見るからである。



 ちょうどそれと同じことが、この宇宙という名のモニター画面で起こっている。

 分子、原子という名の「画素」の明滅パターンが、マクロな視点で見ると「人間の形」をしているように見える。そこに「名前を付けて認識する」という魔法により、そこにそういう名前で識別される存在がいるように理解される。もちろん、それはマリオが実際に画面の中にはいないように、我々もまた本当には存在しない。

「存在する」と思っているから存在している。本当には存在していない、ということを忘れているから可能なのだ。

 あなたが小学生だとして、クラスの連絡網を伝え忘れられて「明日学校が休みになった」ことを知らされていなかったら、どうなるか。冗談ではなくて、本気に学校へ行かないだろうか? 休みと知らされていたら、バカバカしくてできないはずだ。

 休みだという事実を知らないからこそ、恥ずかしさも感じず大真面目に学校へ行けるのだ。同じように我々の正体が神であっても、その神であることをマジで知らされていない(ゲームにおける本気度を高めるため、ワザとである)から、私は田中だ、佐藤だと思えるのだ。そこを本当に理解してしまったら、バカバカしくてできない。



 覚醒したら、その「バカバカしい」が起こり、この世を楽しめなくなるのではないか、と心配する人がいる。でも、その心配はない。より楽しめるようになる。

 ゲームは、ゲームに過ぎないと思うからこそ思いっきり伸び伸びと楽しめるのではないか? ゲーム内での失敗イコール自分の死、とか思うと慎重すぎるほどのおっかなびっくり操作になり、ゲームが楽しいどころではない。



 私たちに人間、という定義が適用されるから。それぞれに名前があるから、そのように認識される。

 言葉という「しゅ」、すなわち呪いにより、個人というものがいて動いている、という限定的シーンとして解釈・観察される。そしてそれは、人以外の動植物や「モノ」にも適用される。

 犬。猫。鳥。机。車。鉛筆……

 ただの空間における画素の明滅パターンの違いが、そこにそれらのものがあるという認識を生む。言葉というものは魔法の呪文にも似ている。だって、たちまちにそれらのもの(幻想)を存在させるから。



 無形なものを指し示すのにも、言葉を使う。

 愛。希望。喜び。悲しみ。退屈。不満。恐怖……

 実は、これらのものは存在しない、ということに気付いておられるだろうか。

 言葉の迷惑なところは、我々のゲーム進行上便利がいいから名前を付けたに過ぎないのに、そういうものが実際に存在しているかのように錯覚させてしまうところだ。

 しかも、そこに「価値判断」、いわゆるランク付けを行うから厄介だ。

 どんな状態を表す言葉も、ただ「ある状態」を表現しているという点で同価値だ。個性の違いに過ぎない。でも人間のエゴの都合により、そこに優劣や良し悪しが引っ付く。

 例えば、闇より光のほうがイメージがいいし、好まれる。どちらも性質の違いを言ったもので本来同価値なのに。これは善悪という概念にも言える。

「闇とは光の不在」と言う人がいるが、それは陰陽の二極を等しく見ない、光をひいきしただけの偏った視点である。闇があるからこそ光と認識できる。その闇へのリスペクトを欠いた意見である。

 悲しみも喜びも、単に波動の状態の違いだけで、同価値である。それに名前を付け、その上に「どちらが好ましい、好ましくない」という勝手な価値観の上塗りをしてしまった。

 言葉を使うと、どうしても本来は存在しない「価値判断」というものが宿命的に内包される。



●すべてのことは、ただある状態を指し示すにすぎない。

 なのに、人間が作ってしまったある共通認識パターンのおかげで、言葉によって喚起される感情や価値判断基準に差が出来た。

 パンダ、と聞けばカワイイと感じる。ゴキブリ、と聞けば嫌悪感を生じる。しかしどちらも、本来同価値である。



 言葉は、百人いたら百通りの解釈がある。

「車」という言葉ひとつでも、人それぞれ。先に思い浮かべる車種、色、用途も違う。

 モノですら人によって発想は無限なのに、モノほどにも姿がハッキリしてない無形な「愛」とか「希望」とか「喜び」などの言葉になると、もう互いの間で一致しないと思った方がいい。

 喜びだって、何が喜びなのか人によって全然違う。

「不満」や「退屈」だって、ある状況が不満な人、退屈な人がいると思えば、それが不満でも退屈でもないという人もいる。



 口喧嘩、激しい議論。相手への批判、話が通じないことへの不満。

 それらは、言葉の限界性について認識しないことの弊害。

 言葉は、無限の可能性を持つすべての存在に関して、ある切り取り方で固めてしまう呪い。そしてその切り取り方すらも個々で違うのだから、気の短い人やこらえ性のない人にとっては、争いを生む火種である。

 話が合わない、人の話が納得できないという現象はすべて、意見や個性の違いをいう以前に「そもそも言葉で表現するということ自体、正しく(自分が意図したように)伝えることは不可能」なのだということを大前提としている。



 こう考えてくると、言葉とは無限の可能性をコンクリートで固める「可能性を狭めるツール」でしかないが、よくよく考えると私たちは「あえて限定的、固定的な体験をしに来た」んだった!

 完全なるひとつ(全体)でしかないものが、分離・有限を楽しみに来たんだった。だから、言葉を使って世界を決めつけ呪いをかけるのは、この世ゲームを楽しむためだった! そう考えれば、言葉というものはそう悪いものではない。

 エゴと並んで、問題あるように見えて実は必須なツールのひとつである。



 言葉は、認識する対象の世界を狭めたり、正しく伝えられないというリスクを内包しながらも、この地球ゲームをする上で必須なツールである。

 同じリスクを負うのなら、楽しいことに、幸せになるように使おうではないか。

 リスクも負うわ、それでもってコミュニケーションでも傷付くわ……では、なんのこっちゃである。

 借金をして、そのお金を他人のために使うようなものである。自分が借金するのだ。その金くらい、自分に使わなくてどうする。

 言葉を使うというリスクの分、幸せになってやろうじゃないか。情熱をもち、生きがいのある人生にしようじゃないか。言葉と言う「しゅ」を駆使してさ。



 もしもあなたが、何かのことで嫌な気分になるなら、疑いもせず言葉で定義しているその「何か」を疑ってみればいい。なぜ、その名前が名付けられたのか? そもそも、本来ないものに名前が付いたのだ。

 そしてその何かが引き起こす感情があるなら、その感情に付いている名前はなぜ付いたのか。それが良くないとするなら、そう決めたのは誰か?

 きっと、言葉の限界性とその名前に本来根拠も意味もないことに気付けば、簡単に幻想の罠から抜けられますよ。

 ただ、その本来意味もないところに幻想上の「意味」を付けることで、完全だが面白くなかった世界を、不完全だが面白い世界に変えたのだ。その意味では「言葉ってすごいなぁ、ありがたいなぁ」とあえて感謝してもいい。

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