いつだってオレは全力さ
スピリチュアル業界の全てがそうでないかもしれないが、そこに関わるほとんどの人の願いが「スピリチュアルが1人でも多くの人に広まること、特別なことではなく日常に浸透すること」ではないだろうか。
自分がいいと思ったもの、「これだ!」と思った人生をより良く生きるためのヒントに関して、他のみんなにも知ってもらって、みんなで一緒に幸せになりたい、と思うものだろう。
でも、「もっと広めたい」ということは、裏を返せば「今現状として広まっていない」「まだまだ色眼鏡で見られている」という感覚を、多くのスピリチュアル実践者が持っているということも言えるのではないか。
イメージとして、この広い世界の中にポツリと「精神世界(スピリチュアル)」というジャンル(関心をもつ群れ)がある、という感じ。最近は以前より市民権を得てきてはいるものの、まだ人類全体に占める割合としては少ない。
本屋でも、スピリチュアル(精神世界)のコーナーは大型書店でもなければコーナー自体がないこともある。今のところはスピリチュアル、という決して大きくない間口を通った者が「スピリチュアルやってる人」というのになる。
こういう言葉を使う時、キリスト教を熱心にやっていた時代を懐かしく思い出す。キリストを救い主として受け入れ、洗礼を受けた人を『クリスチャン』と言うのだが、一方でキリストを信じていない、まだその価値を見出さないその他大勢を「ノンクリスチャン」と言う。未信者のことで、略して『ノンクリ』。
だから、信者が頑張って一般の人を誘った教会主催のイベントをする時、舞台裏で交わされるのは、こんな会話である。
「今日、ノンクリ何人来てる?」
まるで、獲物である。信者化してやるぞ、みたいな。
とにかく、だ。
スピリチュアルの門をくぐり、「救われた。この世界に来てよかった」という人々の中に、大ざっぱに言って次のような無意識化の認識構造があるのではないか。
●スピリチュアルの価値(本質)に気付いている私
そしてそれに今まだ気付いていない大勢の人々
そういう風に、単純な白黒でこの世界の人々を分類する。
そこでどういう力学が働くかというと、「自分が良い方の側にいると認識している人たち」によって、その反対側の人々に対して善意の 「救出作戦」が行われる。
やっている側は、正義感と使命感に酔っているので自覚していないが、その深層意識下では……
●ちゃんとしたことが分かっている私たちが。
それを知ることのできていない人のために頑張らなくちゃ!
ぶっちゃけた話、「助けてあげなきゃ」である。
私は断言する。この意識がベースにあってスピリチュアルを広めても、絶対空回りするよ、と。
宗教は過去数千年をかけて、これで失敗をしてきた。スピリチュアルは、そんな宗教の二の舞をしている場合ではない。もう、そんな立ち位置でグズグズしている時流じゃない。
乗っていこう、乗っていこう! 新時代の豊穣の恩恵。その激流の中に。すべての人が神(意識)であり、あるがままで完全で、常に最善が起こっているという認識の海へ漕ぎ出そう。
長い歴史を通じて、人の中に植え付けられてきた罠のひとつ、『選民意識』 。
私は、選ばれし者。自分が特別である、という意識は実に甘美である。
小さいことからヒーロもののアニメを見て育ち、数々の『有名人』を見ながら生きるので、人より能力的に秀でること・名をのこすほどの偉業を成すこと・世界を救うことがよい、と刷り込まれる。
それに大なり小なり乗っかっていける者は、ピンキリではあるが「自己肯定感」を得られる。一方で時代が要求する流れに乗れず、「負け組」と言われるグループに分類されてしまうとどうなるか?
自己否定感から不幸になるか、もしくは開き直って「優秀な人々」に頼って、助けてもらいながら生きていこうとする。そういう人は、助けてもらっているうちは尻尾を振るが、向こうが失敗したり間違いを犯したりすると、手のひらを返したように攻撃に転じる。
この時代まで、そんな流れだった。何も、このチャンスの時代にそれを繰り返す必要はない。
●ちゃんとできている人、できていない人という分類は、存在しない。
私がスピリチュアルをやってる人に言いたいことがあるとすれば、まず最初にこれだ。確かに表面的な現象としては、スピリチュアルに目覚めた私が、まだ目覚めていない大勢の人のために使命を果たす、という感じになるかもしれない。しかし忘れてはいけないのが、この宇宙で行われているのが「神意識」によって仕掛けられた壮大な「演劇」である、という点だ。
すべての分離された無数の魂は、それぞれ違う役の脚本を与えられ、それを演じている……ということはですよ。
●スピリチュアルに先に目覚めたあなたも、まだ知らないで世の営みにどっぷりの人も「ただそういう役をやっているだけ」と見れませんか?
選民意識で喜んでいるスピ実践者には申し訳ないが、そういう身もフタもない話なのだ。
「真理」とは、人を必ずしもいい気分にはさせない。だって、出所が二元性を超えたところにあるから。皆さんをいい気分にさせる「幸せ」とか「愛」とかは、二元性の中での一側面に過ぎないから。
究極には、不幸も幸福も同価値である。愛の反対語は、本来ない。皆さんは、愛という言葉の使い方を間違っている。
愛じゃないものは存在しない。だから、愛という言葉を使っても、大した意味はない。でも多くの人は、何か自分にとって都合のいいもの、いい気分にさせてくれるものを何となく「愛」と呼び、そうでないものを「愛じゃない」とか「愛がない」とか言う。
人を気分良くさせることしか書かないスピリチュアルは、分かってない。そんなのはうまくいかない。盲人が盲人の手を引くようなものだ。
でもまぁ、そういうほうが世間ウケするんだよね!
売れるスピリチュアルを目指すなら、二通りのやり方がある。
ひとつ。皆さんを気分良くさせることばかり言っていればいい。たとえば愛。仲良く。幸せ。豊かさ。リラックス。その手の言葉を羅列させとけばOK。
エゴは喜んで、安心して支持する。自分が脅かされずに済むから。
もうひとつ。不安をあおって引きつける。「このままじゃいけませんよ」「あなた、これこれこういう魂の状態ですね」「これをオススメします。これをしないと、将来(極端には死後の世界で、来世で)大変なことになりますよ」この手の言葉を言っておけば、手堅い。(笑)
ゆえに、「人を気分よくさせること」と「エゴをえぐるような厳しい話」 のバランスが取れたものが、私がオススメできるスピリチュアルである。
ただ、それすらも究極には「演劇上の役割」である。
だから、スピリチュアルに演劇上、先に目覚めた役をしている皆様。決して、まだスピが分かってない人に対して「教えてあげなきゃ! 助けてあげなきゃ!」そんな動機で広めないでください。
そりゃ、形を変えた『見下し』であり、『上から目線』である。
●スピリチュアルを広めるなら、義務や使命ではなく趣味で!
しなきゃ、とか世界をどげんかせんといかん! とかいうエネルギーじゃなくて。
宇宙を信頼しているからこそ、今人類がそれぞれどんな役を演じていても、大丈夫。脚本を忠実に演じている、という意味では「ちゃんとやっていない」人など存在していないのだから。
皆、全力で「今そうであることを熱演している」 。
だから、表面上の善悪、出来不出来で人や物事をジャッジせずともよい。あるがままを受け入れたその上で、せっかくこのゲーム世界に来ているのだから、趣味で「ああしよう、こうしよう」と楽しめばいい。
そこには、マイナスがあってそれをマシなプラス方向に持っていこう、という力学はない。すべてはあるがままでいいのに、それでもなお「何かしたい」という溢れる意図があるだけ。
だから、力みがない。うまくいかないからって、腹立たしくもならない。
腹が立ったり、嫌な気分になるなら、まず間違いなく「~べき」がある。その基準に照らし合わせて理想通りではないから、違和感を覚えるのだ。
あるべき基準で生きてない人などいない。
あるべき基準に到達しており、ダメな人を助ける使命のある人なんて幻想。
すべての人が……
●いつだってオレは全力さ~♪
と歌っているのである。
どんなドラマを今展開しているとしても。
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