枯れ木は山にいらない

 時折、こういう相談がある。

 私には、友達がいない。これは、人として健全ではないのではないか?

 だから頑張って友達をつくろうとするのだけれど、努力が空回りして、なかなかうまくいかない。じゃあひとりでいて気が狂うばかりに寂しいのかと言えば、ひとりもそれほど悪くない、という。

 ただ「自分がそれでいいと思っても、やっぱりこれは平均的に考えてまずい状況なんじゃないか?」という心配が、自分を落ち着かなくさせるのだそうだ。

 さて皆さん。

 この世にはびこる常識のひとつに、この「友達」に関するものがある。



●友達は、多ければ多いほどいい。



 友達=仲の良い人。

 仲の良いことは、この世界では「良いこと」である。

 だから、できるだけ沢山の人とそういう良好な関係であることが奨励される。

 その具体的な成果として見えやすいのが、具体的な友達の数である。

 例えば、有名人などがフェイスブックなどやっていて、何千人という友達登録があったりする。じゃあこれは、友人数が多くても数百の一般人よりも「人間的に魅力があり、優れている」ことのバロメーターになると思いますか?

 実は、ならない。



●この世ゲームにおける、キャラ設定の違い。

 与えられた脚本の違い。

 宇宙という演劇における、役の違い。



 だから、有名人が一般人より優れているというのは、幻想中の幻想である。

 有名人にたかる人間は、はっきり言って「友達」ではない。

 一般人のそれと同列で考えること自体、乱暴である。

 筆者にとって友達とは何か。間違っても、全人類ではない。

 やめてくれ、うっとおしい。分かったような覚醒者かぶれや宗教家がいかにも言いそうな——



●人類平和、人類みな兄弟



 これ、私はくだらないと思っている。ウソがあると思っている。平和とか、仲良くという言葉の手触りのよい表面だけをなぞったような、虚しい標語。

 なんで、一生かかっても知り合いきれない全人類を、友達と認識しなきゃいけない? よく知りもしないからこそ、会ったこともない人を含む「人類」を好きという幻想に浸れる、っていう側面もありますよ?

 言い換えると、相手を知らないからこそ「人類」という漠然としたカテゴリーにしまい込めていたのに、よくよく付き合ってみたらいけ好かないやつだった!” ということで、位置づけが変化することは避けられない。はっきり言って——


 

●人類みな友達、なんて人類一人ひとりをよく知らないから言える言葉。

 本当に皆いちいち知って見ろ、ってんだ。

 それでも言えたら、頭の100回くらい下げてやってもいい。



 ここまでの議論から、筆者にとって友達とは以下の定義になる。



●自分という演劇上の役を、この世界という舞台で演じる上で、その脚本において私の役にからんできて、セリフが生じる役の人物



 ちょっと冷たい言い方に聞こえるかもしれない。

 例えば。親。そして奥さん。娘。親戚たち。

 実は、筆者には上記以外でプライベートで付き合う友達がほぼいない。

 今現在、奥さんと子ども、スピリチュアル情報の発信活動をする上で関わってくれる人々以外の、学校時代からの友人や過去の職場の友人などは一切関わりがない。

 スピリチュアルリーダーと呼ばれる人物や覚者と言われる人物は、人格者であり人付き合いのプロかというと、そうでもない。むしろ、心理学者とか職業的カウンセラー、あるいは人気芸能人の方が上手だろう。

 だって、さきほど私の言ったようなことが、体感的に分かっているからだ。

 みんなみんな友達、ひとりでも多い方がいい! なんてガツガツしていない。少なくていい。いや、シナリオの必然ならいなくてもいい。

 人生はシンプルがいい、というのはこの友達付き合いという側面でも当てはまる。



 筆者は今、十分幸せである。

 私の知らない人が、この地上に星の数ほどいてもいい。

 でも、このゲームの中で出会えた奥さん。そして子ども。私を本名ではない「賢者テラさん」と呼んで慕ってくれる人たち。

 その数は全人類の数からすれば、本当に微々たるものである。でも私には、思い切った言葉を使うと今生でお目にかからない人の事は「どうでもいい」。

 笑っていいとも! という長く続いたかつてのお化け番組が、こういう歌をはやらせた。



●友達の友達は、皆友達だ~♪



 これを、筆者流に言い換えてみよう。



●友達の友達は、無関係



 ……これで、いいのだ!

 嫌でも、実は皆ひとつなんだよ。どうやったって、これは揺るがせられない。

 出所が例外なくワンネスだからね。それが大前提の世界から人間は来た。



●分かり合えるしかない世界が面白くなくて「分かり合えない」を味わいに来た。

 完全な愛でしかないのが刺激がなく、「キライ」とは何か、愛せないとはどんな幻想か知りたがった。

 いちなる存在があえて二極をつくり、変化の世界に冒険に来た。


 

「渡る世間は神ばかり」じゃなくて「渡る世間は鬼ばかり」を見に来た。

 せっかく、無数の分離の中の「個」として来たんだ。

 自分が、この世界においてどういう「役」であり、どういう可能性を担当できるのか……考えるのそれだけでいいじゃん。てか、それだけで精一杯だと思うよ。

 あまりにもいい子ちゃんで、意識すべき範囲を分相応以上に広げると、器用貧乏になっちゃうよ。

 あなたは、あなたの幸せ、情熱、あなたに近い人間関係に着目しなさい。遠い人々のことや事情は、とりあえずよろしい。みんなを何とかしようと思わずともよろしい。

 そんな人に問いたいのですが、肝心の自分自身が何とかなっているのですか?

 世の間違いとして、「まず他に尽くすからこそ、後で自分に返ってくる」というのがある。違う。自分自身を幸福にするから、生み出している世界が変わっていくのだ。

 他に尽くすにしても、「自分がそうしたいから」が動機であってほしい。決して「そうしないと幸せになれないから」という~べきの発想でしないでほしい。



 友達がいない、というシナリオなのなら、それでいいではないか。

(それは今この瞬間という幻想を切り取った話にすぎず、これからの展開はまだ分からない)

 何で、人と比較したり一般常識に照らし合わせて恐怖を抱かなくちゃいけない?

 あなたは、あなたが自然に「そう在りたい」とおもうままの状態でいい。

 それが、一番いい。例え、それがどんなライフスタイルであっても私は応援しているよ。



 最後に、世間にあることわざをひとつ言い換えておこう。



●枯れ木も山の賑わい



 これ、筆者流だと間違い。私的には、こう。



●枯れ木は山にいらない



 無駄なものは、あえて要りません。

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