想像力なんか使うな

 人の気持ちがすさむ現象を説明するために、『想像力の欠如』ということが言われることがある。相手の立場に立ってモノを考えることができないので「相手がこれくらい悲しいのかな、これくらい傷付いているのかな?」と推し量ることができない、という事象を指す。

 その状態だと当然、相手の心情事情に寄り添った対応ができない。

 ひどい場合には、相手がすでに傷付いているのに、その上に余分なダメージまで与えかねない。そんな傷口に塩をすり込むようなマネができるのは、相手の気持ちが分かっていないだけに、平気だから。

 子どもの教育問題でも(特にいじめ問題では) 、想像力の欠如というのはよく引き合いに出される概念である。



 でも、今回のメッセージにおいては、想像力の欠如などが真犯人ではない、と言ってみる。そんなものを悪者にしていたら、ニセモノをつかまされホンモノと信じ込んでいるようなのと同じ。まるで見当違いなのである。

 意外に思われるだろうが、人の気持ちを理解するのに想像力など役に立たない。

 まず最初に押さえておきたいのは、次の点。


 

●想像力そのものは、思考である。

 つまり、手段である。

 本質ではない。



 人は想像力を使おうとする時、間違いなく思考を使っている。

「想像してみようか」という意図がまずあり、その意図の力が思考という道具を用いて、自分の見聞きし構築してきたデータベースの中から、作業台(メモリー)の中に、意図に合致する画像(動画)データや感情データをひっぱり出してくる。

 そして、色々と頭の中の劇場で演劇を展開させてみたりして、シュミレーションする。その結果を踏まえてはじき出した答えをもって、目の前の現実の相手に対処しようとする。

 でも、その時に気を付けたいのは——



●思考とは、100%エゴである。



 的を射た思考、というものはない。当たっている思考、というものもない。

 想像力を使って出す結果は、純度100%主観である。

 この世界で肉体を持って生きている限り、100%客観、というのは存在不可。ゆえに、絶対的な真実など認識不可。

 だから、想像力そのものは人の気持ちを分かる手段にはなり得ない。



 ここで気を付けたいのは、「想像力は絶対に要らない」と言っているのではないこと。厳密に言うと——



●想像力(原因・起) → 相手の気持ちの理解(結果・結)



 この図式が、あり得ないということ。 

 思考に源を発する想像力風情が、相手の気持ちの理解というすごいものを生む原因となれるような資格も力もない、ということ。もし想像力が発動するにしても、二の次三の次の位置づけになる。



 ①?(意識の中に「この人はどんな気持ちだろう?」という無形の疑問が反射的・瞬間的に湧く。この段階ではまだ言語化・ビジュアル化はさせず)

 ② → その人なりの他者の気持ちの理解(直観によるもの。ここでもまだ言語化・ビジュアル化されず)

 ③ → 思考による想像力の発動命令 (相手の気持ちが無形な部分で推し量れたが、形にならないままでは不便なので具体化、つまり言語化・ビジュアル化しようとする)

 ④ → 想像力 (思考の命令に従い、ビジョンをこさえる)



 ……と、これが人の気持ちを理解する時のおおよその流れである。

 想像力などが登場するにしても、4番目とかなり後だ。

 相手の気持ちが分かる、という作業が済んでもいないのに使う想像力など意味がない。そんなものは、何の仕事もしない。

 ここで言えることは、すべてのことの生みの親ともなる①の?に当たるものがさしあたって最重要なものとなる。

 人によっては、想像力というものにその最重要の座を明け渡していたであろうが、今日こそ変えよう。それは……



●波動を感じること。



 今ここの世界の振動に、チャンネルを合わせること。

 対象から発せられる波動とエネルギーにフォーカスすること。

 これができている時には、思考が働く余地などない。もし先に思考など発動させれば、それは「試験問題を解きながら、皿回しをしようとするようなもの」だ。

 ゆえに『Don't think. FEEL!』というブルース・リーの言葉は至言である。

 魂全体で感じる、というこの完璧な作業に、下手な映像や論理的思考の流れなどの助けは必要がない。無論、登場してはいけないのではなく、感じたあとでなら整理するために思考の出番となっても問題ない。

 そういう時というのは決して 「考えよう」「想像しよう」という思考的意思操作が先行しては動いていないはずだ。

 感じる、ということは個々人の想像力なんてちっぽけと言えるほどの圧倒的な情報量を得るということである。

 数千倍、数万倍というか、とにかく圧倒的である。



 あなたが今、誰かと向き合っているならば……

 相手の気持ちを理解するために想像力を働かせようとするのは、言わば「最前線からあえて一歩引く」ような行為である。戦争で言えば、今が一番肝心、ここで踏み込めば活路が見いだせるぞという時に、あえて撤退するようなものである。

 そしてそれは、相手に失礼な行為でもある。

 想像力などに頼るな、宇宙の王よ。感じろ! 

 ただその場の空気を。波動を。

(じゃあ具体的にどうやって感じるんですか? などというくだらない質問をされる方は、まだ魂がこの学びに合った学齢でないと思うので、今はあきらめてください)

 フィーリングは、思考劇場が勝手に生む自分の中にだけあるショボい情報だけを材料に制作する映像動画(想像力)などとは比べ物にならない、圧倒的にビビッドな「ホンモノ」の世界を見させてくれる。

(それだって究極には幻想だが、幻想のそのまた幻想よりはマシである)



 相手の気持ちが分かるという現象は、相手の波動を浴びることで、あなたの振動数が相手のそれに限りなく接近することである。客観的には、二人の波動が引き合っているという現象になる。

 想像力は、あくまでもその後で発動することに意味がある。でないと、とんだ的外れの想像になる。決して、想像力がすべての解決の中心役者となることはない。



●問題解決において、何かの手段や「かつてこれでうまくいった」という成功体験に頼って解決しようとするな。

 ただ感じることで、おのずと道が見えてくる。

 そうやって今ここの生のその場に真摯に向き合い続けることを愚直に積み上げることで「思考に頼らずハートを開けばそれでよい」という言葉の指し示すものの、正味の意味を実感することになるだろう。

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