あなたのせいでなくても頑張れ

 人は長らく、『等価交換』というものに慣らされすぎた。

 だから、自分が価値的に釣り合うと感じる何かどうしを交換することが当たり前になった。その時の「その二つが価値の釣り合うもの同士か」という判断基準は、人により時代により実にいい加減なものである。

 とにかく「釣り合わないもの同士なら取引きしない」ということである。だって『損』をするから。

 この等価交換や損得を超えるのは、私たちが「愛」と呼ぶケースだけである。その場合、行動の動機が「損得」を超える。

 たとえば親の愛などは基本的に、子どもがそれを受けるのに釣り合う得を自分に提供しているかに関係なく、注がれるものである。



 ある人は、言う。

「私が劣等感に苛まれているのは、幼少時代に親に色々責められたせいだ」と。

 そのせいで、潜在意識に「自分はダメだ」という価値判断が刷り込まれた、と。

 この言い分に込められたひとつのニュアンスは、「私は悪くない」ということ。だって、子ども時代に親のせいでそういう意識上のクセを付けさせられたから。

 ここには「お前のせいでこうなった。どうしてくれる?」的な、 「恨み」「責任追及」がある。



 多くの人はまだ、「根拠付け」というものがなされないと、行動する力が湧かない段階にいるようだ。「自分に責任がある」と思えば、また違ってくるのだが——

 


●私のせいではないことで頑張るのは、感情的に難しい。



 先ほどのお話では、その人物の劣等感のルーツは過去の両親にあったわけだが。

「自分のせいじゃない」という強烈なまでの認識が、悪い方に働く。

 自分のせいじゃないから、それを直す(良くする)義務は、私にはない。そんなこと、私にどうにかしろなんて言われる筋合いはない。やるなら、親がやれ! 変わるなら、自分より先に世界が変わりやがれ!

(無茶な欲求だが、幻想上傷付いた魂は、本気でそれくらいは根に持っている)

 人は、自分に関係がないと思う事柄でエネルギーを費やすことは苦手だ。

 我が子や、愛する人だったら、何を置いても助けたり、協力したりするだろう。だって、その人たちの利害は私の利害に繋がるから。動機は十分である。

 しかし、赤の他人だったら?

 自分の大事な人や子供が、悪そうな人に囲まれていたら、必死に何とかしませんか? でもそれがまったくの他人なら、関わらないように、面倒に巻き込まれないようにそそくさと立ち去りませんか? なぜなら関係ない他人を、自分を犠牲にして助ける意味(得)を見出さないからだ。あなたの中の「計算機」が、そういう答えをはじき出す。

 そりゃ、警察を呼ぶとかの手段は講じるかもしれません。でも、身内が巻き込まれていたら、そっちはとりあえず置いといて先に警察呼ぶ、なんて落ち着き過ぎたことはできないはずです。真っ先に体が動いているはずです。

 他人のピンチを見て冷静に判断できるのは、相手が自分にどれだけ近いか、をはかる計算機をもっているから。愛があってなおかつ冷静すぎる判断ができるのは、警察官や災害救助のプロなど、特殊な訓練を受けた人だけでしょう。

 何度も言うが、愛(魂からの声)だけが、他人だからとか損得とか体面などの壁を越えられる。



 だから、「これは親のせい」だと思っている問題に関して。

 自分で奮起して何とかしようとするエネルギーがなかなか湧いてこないのだ。

 だって、自分のせいじゃないことで頑張ったら、損だから。親が悪いんだ。そっちが何とかすべき筋合いなんだ——。

 バカバカしいが、そういう状況にいる人にすれば真剣にそう思っている。

「背に腹は代えられない」とよく言うが、現実にはそうでないケースが多い。



●感情問題が絡めば、人は背に腹を平気で代える。



 それが、人というこの世ゲームキャラの、面白くも悲しい部分である。

 だから、幼少期の体験がトラウマになって劣等感を持ってしまった、と認識している人がいたとして、それが親のせいだという理屈はある面で正しいかもしれない。

 でも、正しいからって、それでどうなる?

 他人に、代わりに食事してもらうわけにはいかない。また、代わりにトイレに行っておいてもらうこともできない。それと同じように、いくら親の責任でも、親にはあなたの意識上のことなどどうにもできないのだ。

 あなたしか、どうにかできる人はいない。

 現実問題、あなた自身の幸せに関することなのに。明らかに、誰の責任ということを超えてあなたがどうにかするべき話なのに、それを心のどこかでは分かっていながら、それでも感情的引っかかりを優先してしまう。自分で責任を取って頑張るのは、親の責任を無償で免除してあげたような気分になるんだろう。

 それだけは絶対にゆるせない! だから、自分が不幸になってでも、ゆるさない(タダでゆるして損をしたくない)という決断になる。



 気持ちとしては、分かる。

 私も、自分が不幸なのを過去実に色んなもののせいにした。

 その感情モードにいる時には、「色メガネ」をかけて世界を見ているので、自分のしていることがいかにバカバカしいかに気付けない。

 でも、人は神だから。遅かれ早かれ、魂の学びのチャンス・気づきのチャンスが訪れる。その時に課題クリアできるか、同じことを繰り返してまた次回に持ち越すか、その人自身が決める。

 私としては、どうか感情的足し算や引き算の上での「釣り合わない・ゆるせない」 にこだわる愚かしさに気付いてほしい、と言うばかりである。宇宙の王であるあなたらしくないですよ。あなたが思い切って世界をゆるし、自分の足で立つ決心をすればそこから新しい世界が開けますよ、とそうお伝えしたい。 



 自分のせいじゃないことでも、受け止めて頑張れる。

 それこそ、旧時代から新時代へ移行する魂にふさわしい在り方である。

 自分のせいじゃない。なのに、なぜ私が引き受けて乗り越えなくちゃいけないの!?

 自分が不幸になってでも、あえてその思いを貫こうとする。これはある意味「プライドを守っている」状態とも言える。そしてそのプライドは、「宇宙の王としての」 とか「神としての」とかのプライドとは質が全然違う。捨てた方がいいくらいのくだらないプライドである。

 自分を不幸にしかしないプライド。このプライドのために、沢山の人があえて不幸になる道を選んだ。そういうシチュエーションは、沢山の文学作品や映画、小説などでいやというほど描かれている。



 誰かのせいだ、社会や世界のせいだと思うと立ち上がれない人たちへ。

 何かのせいだと思うと、自分で何とかしようとする力が湧いてこない人へ。

 あなたは、責任問題という点においては正しいかもしれない。



●でも、正しいことがいいこととは限らない。

 あなたは正しさに固執するあまり、もっと大事なものを見失っている。

 あなたを幸せにしない正しさなど、捨てなさい。

 その勇気が持てた時、人は、変われる。間違いなく。

 その応援をしたいがために、筆者はいる。本書がある。

 


 どうか、これをお読みの「あなた」に勇気が届きますように。

 そして来週かあさってか明日か……願わくば「今」あなたが変われますように。

 変わるというよりは、本来の素敵な「あなた」に気付けますように。 

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