Q&Aのコーナー第五十四回「覚醒のために苦労は必要ですか?」
Q.
自我が崩壊してしまうほどの苦しみを経験しないと、目覚めは降りてこないのでしょうか?
目覚めには、苦しみが必須要素なのでしょうか?
A.
問い自体が、成立しません。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
決めつけたのは~ あなたのせいよ~
原因と結果のラブゲーム ♪
(男と女のラブゲームのフシで)
筆者は、自分のブログや執筆物で「覚醒」に至った時の話を書いている。その経験の前後で私は、とあるスピリチュアルセミナーに参加していた。
そこの情報を拡大解釈して、次のように言う人がいた。
「なるほど! テラさんは●●先生のセミナーに出たから、覚醒されたんですね!」
この方はどうも、その●●先生のセミナーがきっかけとなって(そのおかげで)覚醒が起こったのだ、ととらえたようだ。でも、私は一言もそのようなことは言っていない。ただ、こう言ったに過ぎない。
「●●先生のセミナーに出ている最中に、覚醒体験があった」
そのタイミング的事実を述べただけで、一言も●●先生のおかげだなどと書いていない。筆者はそこで思った。
「なんで人って、原因と結果をやたら結び付けて、考えたがるんだろう?」
筆者自身の感覚としては、こうとらえている。
「●●先生のセミナーに出たことと、自分が覚醒したこととの間には、何の因果関係もない」
人類は長い間、やたらとこの原因・結果という論理思考パターンに慣れ過ぎた。
だから、そのクセを治すのは簡単にはいかない。
私の話を聞いたら、10人中9人までは勝手に結びつけて考えるだろう。
私が直接 「●●生のセミナーに出たおかげで、覚醒に至りました!」 と言わなくても、「●●先生のセミナーに出ていました。その期間のある日、覚醒体験をしました」と言うだけで、一言もそのふたつを結び付ける言葉を使わなくても、皆さんの側で勝手に「脳内変換」してくれる。
まこと、親切すぎてありがた迷惑な機能(過去からの遺産)を、人間は持っているのだ。ここで、私が本書で言ってきたことを思い出してほしい。
●この宇宙に、意味はない。
我々が考えるような因果関係もない。
物事は、ただあるべくしてあり、それ以上でも以下でもない。
だから、「神(意識)の遊戯」のためにこの幻想フィールドにやってきた我々は意味のない所に意味を創造して、楽しんでいるのである。
分かるだろうか。
白紙の画用紙、真っ白なキャンバスに自由に絵を描くように、意味のない所に自分の好きなように意味づけをして、楽しもうとしているのだ。思い思いの物語(ストーリー)を紡ぎに来たのだ。
私たちは、すべての事象に確かな意味があり、それを知る(探求)することが大事だと考えている。でも、その「確かな意味(すべての魂の視点にとっての)」など、存在しない。存在しないのに、すると思っているから、もう何か見たら反射的に何でもかんでも意味を探る。
探ること自体は、別に問題ない。だって、好きな意味をつけていいのだから。 そういう「解釈ごっこ」という遊びをしに、神意識はこの地上に舞い降りた。
でも、やっかいなことに人はいつしか「ある物事に込められた、たったひとつの絶対真実」というものがあると勘違いして、必死にそれを探求しだした。
例えそれが、自分に気に入らないストーリーでも、「大勢が支持し、受け入れている」という理由で、自分の思いを押し殺してでも仕方なく受け入れようと頑張ってしまい、結果苦しんでしまう。
だから、「筆者さんは●●先生のセミナーで覚醒したらしい! すごいなぁ、だったら私も行こ!」と思っていらっしゃる方がいたら、私は全力であなたを阻止する。(笑)それは、あなたが勝手に私の言葉を解釈して、都合のいいストーリーを構築しただけだから!
その●●先生のセミナーへは、筆者がどうしたからということとは関係なく「そういうことを抜きにしても、素晴らしいから! 内容がいいと思ったから」っていうので、参加してほしいのだ。。
ユー・アンダスタン?
前置きが長かったが、本題に移ろう。
「自我が崩壊してしまうほどの苦しみを経験しないと、目覚めは降りてこないのでしょうか?」
~しないと (原因)、~にならない (結果) 。
ほら、早速この思考パターンに絡め取られてるね。
私はこの質問に、はいともいいえとも答えられない。
ただ、こう聞き返すのみだ。
「苦しみがあるほうがいいですか? ないほうがいいですか? あなたはどっちがお好み?」
あなたという意識的創造主が生み出しているこの宇宙には、あなたの意識が(ある程度に限られるが)反映されるので、あなたがどういう意識的前提を持とうとするか、が鍵である。
「苦しみを経験しないと、目覚めは起きないらしいよ!」というのは、単なる情報。それ自体は真理でも何でもないが、あなたが「へぇ~なるほど!」と受け入れれば、その時点であなたの宇宙におけるその部分の世界は、そういうことでセメントで固められる。
でも、あなたがそこは解釈が自由であり、思いたいように思えばよいという秘訣を知っていたら、「苦労なんて関係なく目覚めが起こっても全然かまわない」と図々しく思える。
するとやはり、そういう世界が構築されていく。
Q&Aのコーナーで答えながらいつも思うのは——
皆さん、必ず何かの問題に対してはひとつの確かな答えがあると思い込んでいるのが、いつも面倒。そこさえ質問者さんがクリアすれば、このコーナーはぐっと楽になる。本書のこの質問コーナーに質問しても……
①確実かつ明確な答えなり方法論なりを教えてもらえない。
②あなたがどう思いたいかだ、と丸投げされる。
③それどころか「あなたはどうしたい?」と、質問に質問で返される。
④絶対に、皮肉を言われる。(愛の皮肉だ、と分かるには人生修行が要る)
だから、よっぽどの物好きでなければ、筆者に質問投稿はやめといたほうがいいよ、ということ。そう言っても来る……ということは、やっぱり世の中「物好きさん」が多いんだな!
うんうん。
ここまで話を進めておいてなんですけど……
このお話には、致命的な問題があった。
●覚醒は、人為的努力とは何の関係もない!
この前提を、実はすっとばしてお話していた。
だって、そんなこと言ったら話が続かないんだもん!
だから、あえてそこは目をつぶり、他のことでも応用できる感じの話をするため、確信犯的に飛ばした。
苦労しないと覚醒しないのか?と聞くということは——
覚醒に原因がある、と考えているのか?
何らかの原因が引き起こせる、と考えているのか?
ましてや、「苦労」などという人為的なものが、それを左右し得ると?
バカな。
だから、私はこの質問を見た時、前提が破たんしているから、議論ができないと思った。だからこの質問をスルーしちゃおうか、とも思った。
でも、話題にされている「覚醒」自体は議論の余地がなくとも、「生きる姿勢」という意味では、あえて答えることが有益だろうと思った。
カチコチに決まった意味など、この世界にはないんだよ。でも人はひとつだけある、と思って。そしてそれを自分が知らない、と思い込んで、外に意味を探す。
でも、この宇宙のすべてには本来何の意味もなく「あなたが、どう思いたいか。どうとらえたいか。どんな世界(ストーリー)であってほしいか」大事なのはそれだけなんだよ、と伝えることも悪くない、と思ったのだ。
覚醒を直接的には起こせなくても、その確率を間接的に高めるために「日ごろからこういう意識前提でいると、もしかしたらいいことあるかもよ?」という話なのである。
色んなスピリチュアル発信者の経歴を聞くとなぜか、ものすごい苦労をされたとか、度胆を抜かれるようなエピソードを持っている方が多い。
そこに、理由や因果関係はない。ただ、そうであるというだけ。
なのに、人は勝手に「意味のない、現象に過ぎないこと」に対し、独自の意味づけを開始する。
「そうか! 人生で誰よりも苦労した人、波乱万丈のすごい人生を生きた人が、覚醒しやすいんだな!」
そうやって、勝手な勘違いの世界に落ちていく。
何にも、関係ないのに。
私たちは「意味づけ」を楽しみに来たので、意味づけ自体が悪いのではない。
ただ問題は、「自分が幸せになれないような意味づけ」までも、自虐的にやってしまうことである。
その原因は、自分は神ではなく、神にすべてを決められ、その真理を知らない自分という認識にある。
だから、自分が好まない(望まない)意味づけでも、外部の権威(世界の学問・常識・文献やメディアの情報・伝統的教え)が「正しい」としたものは、嫌でも従うほかない。
身もふたもない話だが、覚醒だけは何かの要因が働いた結果起こることはない。
何かをしたから、何かの原因を作ったから、誘発されるというものでもない。
百歩千歩譲って覚醒に原因があったと仮定しても、それは私たちが思考という狭い認識方法で捉えられるものではない。
特に、これこれこうしたから、覚醒した!なんて言葉で言えてしまったとしたら「覚醒ってどれだけ安物よ!?」って感じがする。
もし、「覚醒を促す12の方法」なんて本があったら、売れるでしょうね!
(そんなものないけど。あったら詐欺だけど)
それでも、スピリチュアルでよくこうしたらああしたら近付くよ(瞑想や各種ワーク)、というようなことを言う人もいる。
でもそれは、さっきの●●先生のセミナーと私の覚醒との関係と同じで——
●そうしたから、覚醒が引き起こされやすい、というのは創作物語。
事実は、統計学上その行為をしている期間に覚醒体験が比較的多く起こっている状況が観察された、という単なる現象的事実にすぎないものに対し「そうか、これをしていれば起こりやすいんだ!」と、勝手な因果関係を連想し、意味づけをしただけ。
もし、瞑想をはじめ覚醒のために努力している人がいて、今の私の言葉に腹が立った人がいたら、冷静に考えてほしいことがある。
●あなた、悟りたいから瞑想してんの?
くだらない。
あなたは、因果関係のとりこ。等価交換の奴隷。
これこれこうしたら、それと引き換えに、こういうことが得られる——
何かの見返りを求めてやってんじゃないよ。
それ自体が楽しいから、好きだからってんでおやりよ!
何より魂が喜ぶし、やりたいからやるんだ、ってんでおやりよ。
いいかい、瞑想と悟りの間には因果関係はないよ!
瞑想してて悟った~! というのは人の紡いだ物語にすぎない。
例えば、学校でボランティア募集のお知らせが配られた。
お金にはならない。
主催が学校とは関係ない所なので、学校の単位とも評価ともまったく関係がない。
お金が欲しかったり、内申書を良くしたい下心のある人は「謝礼が出ますよ! 参加したら、成績にも加味しますよ!」と宣伝されてたら行くだろう。行く労力と引き換えに、望むものが得られるからである。
だから、望むものが得られない、と最初から分かっていたら行かないはずだ。
この場合、それでもボランティアに参加するのは、お金目的でも内申書目的でもないただ「やりたい」人であり、純粋なこころざしがある人だろう。
だから、あなたが日々やっている瞑想その他のスピリチュアル的努力が本物かどうか見分ける方法。これを、自分に問うてください。
●例えそれをすることで、何の見返りもなくてもそれをしますか?
このフィルターを当てると、引っかかる人が結構いたりして。
えっ、これしても覚醒できないの? ならや~めた!面倒くさいし。そもそも好きじゃないし。覚醒に近づく、って聞いたから頑張ってんのに!
何かと引き換えではなく、本当に瞑想やワークそのものが楽しくって! という人は、それでもやり続けるだろう。それこそ「あなたが本当にしたいこと」であり、「魂が求めているもの」であり、もっと言えば「使命」や「ライフワーク」といったたぐいのものだ。
質問者さん。
苦しみが必須か必須じゃないかなんて以前に、人のする行為や立てる対策、意図的にする心構えではどうにもならないんです。
目覚めは何をしていても、来るときは来ます。来ない時は、来ません。
だから、どうにもならないことのために対策を立て、あくせく追われるようなエネルギーで生きるのではなく、どうせ目覚めは来るときには来るんだから、「果報は寝て待て」で、その間同じ過ごすなら楽しく過ごしたらいいだけなのだ。
あっ、今「そんな好き勝手に過ごしといて目覚めなんか来るのかよ?」と思いませんでした?
まだ、何かの要因が覚醒を左右できると思ってる!
あなたはまだ、「覚醒脳」じゃありませんね!
それだとあなたの「原因と結果のラブゲーム」は、もうしばらく続きそうですね。
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