命を懸けてもやりたいこと

 私がこれまでよく言ってきたことのひとつに、「やりたいこと、好きなことをしろ」ということがある。

 様々な社会的、立場的制約(縛り)のゆえに、したいことができていない。したいことができていないどころか、したくないことをあえてやっている。あるいはやらされている。

 人生の主人公はあなたなのだから。あなたの好きなようにすることが一番大事だ。

 ましてや、自分が犠牲になってでも他者(親・子ども、配偶者、親友)のために…… とか。そんなのはもってのか! というようなことを書いたと思う。

 でも、今になって改めて、ここはケースによって様々だ、ということを補足する必要を感じた。

 同じ「自己犠牲」に見える現象でも、あながち「自分をいじめているのではない」ことがあるからだ。

 むしろ、その自己犠牲が「本人の幸せにつながっている」ケースもある。




 ドラえもんの映画で、『のび太と鉄人兵団』という作品がある。

 もともと昔の作品だが、人気のあまりリメイク映画化されるほどの良作だ。

 リルル、という地球を侵略する側のキャラがいる。

 彼女は、ドラえもんたちとの交流の中で、最初は地球を侵略する気だったが、やはり間違いだと気付く。

 しかし、鉄人兵団の力は圧倒的で、正面から戦っても勝ち目はない。

 そこで、ドラえもんたちは奇策に出る。神様が鉄人兵団たちを生み出した時代にまでさかのぼって、文句を言おうというものである。他を侵略するようなメカではなく、他者を思いやる心を持ったロボットに作り替えてほしい、と。

 神様(ロボット工学の天才)は、将来自分の創造したメカがどんなひどいことをするのかを聞かされ、設計を変えると約束。作業に取り掛かるが、老齢のため倒れる。

 誰が作業を引き継げる?

 リルルは、博士のあとを引き継ぐ。

 作業を続けるリルルの体が、だんだん透明になっていく。なぜなら、歴史が変わってしまい、鉄人兵団が消えるだけでなくリルル自身も消えるからだ。

 しかし。自らの存在が消えてしまうというのに、リルルの顔は輝いていた。

「私が歴史を作るの。そして私は……本当の天使になるの!」



 これはかなり昔の映画になるが、次に紹介するのは『ステラ』という、洋画のヒューマン・ドラマだ。

 酒場で働く、教養もなく行動も粗暴なステラという女性がいた。

 彼女には、紆余曲折あってできてしまった娘のジェニーがいた。二人は、仲良く暮らしていた。

 だが、年頃になった娘は、母の価値観が理解できず、母を恥ずかしく思い始める。そしてだんだん、二人の仲は険悪な方向に。

 娘に、素敵な男性の恋人ができるに当たって、それは決定的となった。母は娘を罵倒し、お前など知らない、恩知らずは出ていけと罵る。

 耐えきれなくなった娘は、本当に家を出ていく。



 そして、ラストシーン。

 娘の結婚式の日。

 激しく雨の降る夜、式場の窓の外から、式を食い入るように眺める人影があった。

 ステラだ。

 娘と夫になる男性が結婚の誓約を交わすところを、涙で見つめる。

 それを見届けたステラは、去っていく。

 去りゆく彼女の表情には、何とも言えない満足感が漂っていた。

 そう。

 実は、娘を罵って出て行かせたのは、わざとだった。

 自分のような母がいては、良家の男性と結婚する上で障害となろう——。

 娘を誰よりも愛していたステラは、あえてこの道を選んだのだ。



 今、二つの例を挙げた。

 表面的な現象としては、両方とも『自己犠牲』である。

 リルルは、「自分という存在そのもの」を犠牲にして、世界を救った。

 ステラは、「自分が娘と暮らす幸せ」を犠牲にして、娘の幸せ(好きな男と結婚できる)を選んだ。

 単純には、宇宙の王である自分の幸せよりも、外部の他人のそれを優先させる、愚かな行為である。しかしここでよく考えてみたい。



●ふたりとも、「自分の本当にしたいこと」をしただけなのでは?

 自己犠牲、というのは外部からの評価に過ぎない。

 でも本人たちは、本望だった。幸せだった。

 最終的に死んでしまったとか、その人が損を負ったとか、そういう観点はあまり意味がない。むしろ、結果よりも「本人たちが本気でそうしたかった」ということが重要なのだ。



 だから、リルルは悲劇のヒロインではない。

 むしろ、命を懸けて自分のしたいことが貫き通せた、「幸せ者」なのだ。

 ステラも、自分が一番「こうであってほしい」という目的を実現できた「幸せ者」なのだ。彼女らは、自分を犠牲にした愚かな人たちじゃないのだ。



 見た目の現象だけで、自己犠牲だ愚かだ可哀想だとか、別に死ななくてもいいのに、とか外野は色々なことを思ってしまう。でも、宇宙の王たる本人が、最終的に「選択」したのだ。

 人間は感情の生き物だから(その変化を味わいに来ているくらいだから)、他者の選択に対して主観から気持ちが揺さぶられるのは仕方がない。でも、最終的には、やはりその選択を尊重してあげたい。それが命を懸けたものであればあるほどに。懸けたものが貴重であればあるほどに。



 イエス・キリストの十字架などは、事件後二千年たった今でも、人々の胸を打ち続けている。ドラえもんの映画にしても、ステラにしても、宇宙戦艦ヤマトにしても……なぜ人は「自己犠牲」という現象を見て、胸が熱くなるのか?



●「いいなぁ。自分もそうありたいなぁ——」

 そういう、無意識の羨望である。



 人はそもそも、目に見えない「神意識」という名のゼロポイントより無限のエネルギーを産み出せる「能力」と「可能性」を所持して生きている。本来人は、エネルギーの限り、情熱の限りを尽くして生きることのできる存在なのだ。

 ただ、ゲーム的に面白くするため、その能力(本来のスペック)を忘れて生きている。だから、情熱の限り生き生きと生きている人を見れば、聞けば、知れば……「本来そうできる」という自分の可能性の部分が共鳴し、感動するという現象となる。

 自由に自分の好きなことを選択して生きられる、ということだけでもすごいのに。命を懸けてでも、そのしたいことが選べる、なんてのは「したいようにする」ことの究極形態である。

 命なんて懸けなくても、死ななくても(そこまでしなくても)……というのは、この場合ヤボである。純粋にすごいんである!

 だから「ああ、命を懸けてまで、自分を犠牲にしてまで、したいことを貫けるなんてスゲー!」と魂が震える。自分も、身を焦がすほどの情熱を見つけらればなぁ! そこまで、したいことを貫いて生きられればなぁ! そう思える。

 この場合の、ああいうふうに生きられればなぁ!というのは仮定形ではない。実は、その気になれば自分だってできる、という本来の自分の隠されたスペックが、ムクムクと顔をもたげてきているのだ。

 魂がその人に伝えているのは、まさに「次はあなたの番ですよ!」ということ。

 そのことに感動して、人は映画館をあとにするのだ。本を閉じるのだ。

 もちろん、あなたの番ですよ、ってのは死ね、ってことじゃないですよ。念のため。全身全霊を懸けて生きれるチャンスが来ますよ、ってこと。

 死ぬの何かが犠牲になるの、というのは結果論でしかない。



 すべての人が、結局は自分にとっての「最善」しか選んでいない、とすれば。

 そういう切り口で考えれば、本当の「自己犠牲」なんて存在しないのではないか。

 マザー・テレサも「偉い人」というよりは、人助けという方向で究極に自分の好きなようにやった、ということなのだ。

 ゆえに我々が、他人の行為の外面的な部分だけを撫でて「すばらしい」「くだらない」などと評価するのは、大して意味がない。だって、最終的に宇宙の王がくだした決断であるから。

 我々の「わたしは在る」という存在意識は永遠。

 永遠にチャンスがあるのだから、一時的な現象的生き死にや損得など、何ほどのことでもない。



 大事なのは、自分が一番望むことができたか?ということ。

 その大事さの前に、他の要素は二の次なのだ。 

 もちろん、命があって、自分が守られてなおかつ一番したい選択ができるに越したことはない。しかし、あらゆる可能性、あらゆるドラマを味わいにきたので、ケースとしては命を失うのも致し方なしの場合もある。

 でもその場面で、一番大事な選択さえできたら、その魂はやっぱり幸せなのだ。

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