思いやりの罠
世に、『思いやり』と呼ばれるものがある。
そのバリエーションとして「親切」や「配慮」、ちょっとネガティブなものに「心配」というものがある。
「あなたのためだから」
これなんか、言葉は同じでも、どういう状況で使うかでまったく意味合いが違う。
どんな意識で「その人のためを思う」のかによっても、全然違う。
今日のテーマは何かというと「一見良さそうに見えるこの思いやり、他人への配慮というものも、その思いの背後に潜むエネルギーの質によっては、意味がないどころかむしろ有害」というショッキングなお話である。
例えば、人に何かをしてあげよう、と思った時。
そのしてあげること(行為)自体に、価値などない。
みんな、どこばっかり見るかというと、行為そのものばっかり。やってあげたことのすごさ。行為の内容。かけた(犠牲にした)時間。
他者からすると、その基準次第で「あの人はすごい」という評価になり、してもらった方はその内容のすごさに比例して「何と有難い!」ということになる。
時々、してもらったことよりも背後のエネルギーを読んで、嫌な気分にはなるがとりあえず現実的にありがたいことではあるので、表面上感謝しておく。そんなドラマもあるだろう。
まず、今日のお話をすすめる上での、重要な前提。
●思いやりや親切の価値は、行為そのものや事の大小にはない。
そこばかり見る二元性世界ゲームプレイヤーは、下手っぴい。
では、「親切や思いやりの真価」はどこで測るのか。
それは——
●その思いやりなり親切なりが、「相手を無力化するエネルギー」になっていないかどうか。
例えを、いくつか挙げてみよう。
あるしっかりした人が、ちょっと頼りない友人のために色々世話を焼いているとする。友人によかれ、と思って立ち回っているその姿は、傍目には偉く見える。
しかし、もしその人がこういう意識で親切をしていたら?
●コイツは、オレがいないとホントだめなやつだなぁ。
例え自覚はなくとも、裏返せば実はそういうことになるパターンは多いものだ。
思いやってはいるし、親切にはしているが「相手が、自分よりも下だ」という意識があるのだ。だから、自分が何とかしてあげないと、となる。
会社の上司。学校の先生。先輩と後輩。親と子。
あらゆる状況において、このような構図はある。親切に見えて、思いやっているように見えて、実は結果的に相手をパワーダウンさせている、という。
だって、あなたが「(あなたの)宇宙の主人公」であると同時に、相手も同じなんです。いわば神なんですよ?
何で「神」が、あなたの助けがなければ独力で生きられないんですか?
バカな。
実は、あなたという宇宙の王が、あなたの統治する宇宙の中で『この人は、私がいないとダメな人。放っておけない人』、そう定義するからまさにそのような現実をさらに見せてくれる状況を、招き寄せている。
ここで、見方を変えることで衝撃の事実が浮かび上がった。
●実は相手に親切にしているようで、思いやっているようで実は相手をダメにしている場合が多々あるのだ。
相手の神としての位置を、悪気なく取り上げている場合があるのだ。
例えば、障がいをもつお子さんがいる親などは、これになりやすい。(もちろん障がいの程度のこともあるので、本当に重い場合はそうなっても心情的に責められない)子どもを溺愛するタイプの親もそう。
逆に、厳しい「教育ママ」タイプの親もしかり。
共通するキーワードは……
「かわいそう」
「私がいなくなれば、この子は……」
「この子のためだから」
その言葉の背後には、相手のためと言いながら、実は自分の思い通りにしたいという「エゴ」が見え隠れする。
相手を、「可哀想な存在」「自分が守ってあげないと生きていけない存在」と必要以上に思い込み、見た目には立派に見える「献身」により、子どもの主権を蹂躙する。もちろん、先ほども触れたように「本当にハンデが重度で、文字通り本人だけではなにもできない」という現実があったとしても、それでも気持ちの上では「独立した、ひとつの命」と見る視点をもつほうがいい、というのが今回のお話の大事なポイントである。
聡明な読者は分かってくれていると思うが、念のため言うともちろん、障がいのある方や病人、高齢者にや赤ん坊に対して「神なんだから、何もしないよ、助けないよ」という乱暴な話ではない。
きちんと、必要な世話はする。ただ、その世話をする上での、意識の持ちようを変えるだけだ。
世話が必要なのは現実だが、相手の本質は神だ。だから、私はこの人の世話をするという、このゲーム世界上の役割を演じているに過ぎない。
世話をしないと何もできないから、世話をしてやっているのではなく「世話をする役をさせていただいている」。それによって、私は「今ここ」の世界で素敵な体験をコレクションできている。
こうして生きる上での役割を与えてくれて、ありがとう。体験を、そしてそこからくる学びや気付きをありがとう。そんな「おかげ様」の気持ちで共に生きるのだ。
●現実的に世話はするけど、魂レベルでまで世話をするのではない。
そこでは互いに対等であり、相手も神である。
本質は神だが、あえてその神を世話するという体験を味わいに来ている。
現実的に必要な対処があればするけど、深い想いの世界でまで、その対象を無力化しないこと。その深みでは、相手も神であり、何ら非力な存在ではないと認める。
それこそが、周囲に大きなエネルギーを与え、パワフルにする生き方である。
こうした意識の存在する周囲では、現実がびっくりするほど好転していく傾向がある。ただ間違ってはいけないのが、現実に何が起こるかよりも重要なのは、そこに生きる人の内面が輝いていくことである。
それは何が起こるか、よりもはるかに価値のあることである。
これは、対人関係以外にも使える。
例えば、この世界には色々な問題に対する社会運動が存在する。
●原発問題。経済問題。
政治問題。医療問題。
教育問題。福祉の問題。
動物愛護の問題。
子どもの人権問題。虐待問題。
少し挙げただけでも、かなりの数の「問題」がある。
それをする上で、私たちにこんな意識が巣食っていないだろうか?
無自覚になっているだけで、以下に挙げるような意識はないだろうか?
●この問題を解決しないと、世界は大変なことに。世界は滅んでしまう!
放射能によって、世界はエライことに!
私たちが立ち上がって動物を守らないと! 子どもを守らないと!
でないと、子どもが(動物が)大変なことに。かわいそうなことに!
政治を何とかしないと、日本は終わりだ!
このままでは、この世界は……
これではまったく宇宙を信頼していない。
(世話や保護、対処が本当に必要だとしても)本質的なところで、見下している。だって、あなたやあなたの団体が立ち上がらないと、ダメになるんでしょ?
実は、そういう深刻な意識が、そういう現実を強化している。
表面しか見ない人は、何をしているのかしか見ない。私は、動物愛護のために頑張っている! 政治改革のために運動している!
……ポイントは「何をしているか」じゃないんだよな。
「どういう意識でそれを行っているか」なんだな。
この宇宙を信じている。すべての命(あらゆるもの。我々が無生物と呼ぶものも含む)を信じている。
助ける者、助けられる者なんて立場の違いや格差なんて、ない。皆対等。皆最高。
このゲーム世界(演劇世界)では、ただそれぞれの「役」を演じているだけ。
恐れから運動しているなら、くだらないよ。
もちろん、すべては同価値であるし、自由だ。恐れから行動しても、悪いことではない。ただ、この世界がゲームで、一定の勝利条件を満たすために生きているのだとすれば、私のアドバイスは、傾聴に値するはずだ。
●恐れから行動して、例え何かが守れたとしても、その成果は「張子の虎」である。短期的には良かったように見えるが、長い目で見ると最後には朽ちる。
恐れではなく、実は守られる必要のあるものなんてない、という前提で行動すればそのエネルギーは末永く持続し、大いなる繁栄と発展を生み出す。
さて、今日のまとめをしよう。
思いやりとか配慮・親切と一口に言っても、実はピンキリである。同じ行為でも、全然意味合いが違うものがある。
しょうがないなぁ。私がいないと、この人は、この子は——
私が頑張らないと、この社会は。この日本は。この世界は——
じゃあ、あなたが頑張るから、その人は大丈夫なんですか?
あなたのおかげで、その人は存在することができているんですか?
ある面では正しいが、それはあなたが考えることじゃないです。
●そんなの、交換条件じゃないですか。
あなたの親切や思いやりと引き換えに、その成果をいただく(相手が無事、社会が平和に保たれる)というわけですか? お好きですねぇ、等価交換が。
本当に何かを守るために等価交換を使うのは、利口じゃありません。
そんな今ここではない先のことを、考えないことです。(こういう良い結果を得よう、みたいな)
宇宙に降参していたら、すべての命を信じていたら、先のことを考える時間なんてないはずです。だって、今を信頼と喜びに生きていたら、考える必要ないですもん!
こうなれ、ああなれって過度に考えるということは、恐れているんですよ。
そうならなかったら? という心配の裏返しです。
だから、「必死さ」「深刻さ」 を生むんですよ。この世界で活動する上で、上記2つのエネルギーはしょうもない。第一、楽しくない。
もしあなたが、この世の活動において必死になり深刻になるなら、あなたの中には世界に対する根本的な「不信」があるということです。
それを誤魔化すために、忙しくしている。立ち止まった瞬間に、自分の正体を思い出してしまいそうで怖いから。
まぁ、何かを守る・守られるということ自体幻想なんだけど。
この世ゲーム世界ではそれをあえてやっているので、あえて言う。
●本当の意味で何かを守ろうと思うなら、こう意識してみよう。
相手があなたの目にどんなに非力に見えても。ダメに見えても。
私がこうしてあげないと、この人はじゃなくて。
私が何とかしないと、この世界は……じゃなくて。
相手も神だ、という信頼のもと、守るという行為を演じさせていただくのだ。
そう。この世界のすべては神。
あるがままにあり、目に見える矛盾をわざわざ味わうために来たのだ——。
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