おおらかな視点
娘がまだ未就学児の頃(現在は小3です)、父親として色んな絵本、わらべうたに触れるた。そうやって初めて知ったお話に、『だいこんとにんじんとごぼう』というお話がある。
お話は、至って簡単。
だいこんとにんじんとごぼうが、ある時お風呂に入る。
ごぼうさんは、ちょっと入っただけで
「アチチチ!」と熱がってしまい、ゼンゼンお湯につかりませんでした。
次に、にんじんさんがお風呂に入りました。
あちち!かなり熱いとは思いましたが、でもにんじんさんは我慢してジーッとつかっていたので、出た時には、真っ赤になっていました。
最後に、だいこんさんがお風呂に入りました。
だいこんさんは、熱いのがキライなので、水を入れて熱さをうすめました。
ぬるいお風呂にゆっくりつかり、体もゴシゴシ洗ったので——
だいこんさんは、真っ白になりました。
これが、ごぼうは真っ黒けで、にんじんは赤くて、大根が白い理由なのだそうだ。
この一見単純に見えるお話にも、いくつかのバリエーションがある。
だいこんとにんじんとごぼうが、山登りに出るシチュエーションもある。
山の頂上に登ったはいいが、疲れてしまって山を下りる元気がなくなった。
通りかかった炭焼きの男に、おんぶして連れて行ってくれ、と頼むと「三人はとても無理だから」と言われ、男はなぜかだいこんだけをおぶって山を下りてしまった。
残されたごぼうは、ひっくり返って怒ったので、日焼けで体が真っ黒に。
にんじんは、かんかんに怒ったので、体が真っ赤に。
そういうバージョンもあるようである。
さらに、設定の細かいのもある。
神様がだいこんとにんじんとごぼうを創造したての時、まだ色がついていなかった。神様の
お風呂に入った結果は、紹介したものと同じ。
オチとして、神様が知らないうちに色がついてしまった三人を見て「まぁ、これはこれでいっか」と、そのまま認めてしまう。
童話のタイトルにしても、「だいこんとにんじんとごぼう」だけでなく——
「大根がしろいわけ」
「にんじんが赤いわけ」
……等々があり、あとだいこん・にんじん・ごぼうの順番が入れ替わるタイトルもある。
調べた感じ、一番多いのは 「にんじんとだいこんとごぼう」。
二番目が「だいこんとにんじんとごぼう」 。
あまりないのが、「ごぼうとにんじんとだいこん」。
ごぼうがトップに来るのは、少ないようだ。
なかなか、『かわいらしい』お話でしょ?
さて、ここで皆さんに質問。
科学的に見れば、このお話はだいこんとにんじんとごぼうの起源を語るには、無茶苦茶である。荒唐無稽で、議論する価値すらないバカバカしい話になる。
もっと言えば、現実的にはうそっぱちである。
でも、あなたは自分のお子さんに——
保育園(幼稚園)でこんなお話を聞いても、信じなさんなよと忠告しますか?
科学的にウソなことを吹き込むのは、よろしくない。子どもだましはよくないから、最初からきちんとしたことを教えねば、と思いますか?
恐らく、大概の親御さんは、抵抗がないはずである。
だって、かわいらしいお話だもの。
知るべきことは、成長とともに自然と知っていくのだから。それまでは、夢のあるおとぎの世界に生きることも、悪くないじゃないか——。
そう思わないだろうか?
サンタクロースについても、そうである。
よほど偏屈な親でもない限り、幼い子にサンタを否定しない。
いるものとして、子どもと対話するはずだ。
こどもが気付いていないのに、あえてサンタはいないと暴露しないだろう。
子どもが成長し、物心ついて自分の力でサンタがいないと分かった頃、親はそれに合わせて対応する。その時になって——
「ああ、世間の夢のない科学に騙されちゃだめよ! サンタはいるのよ!」
……なんて頑張らないだろう。
目に見えない精神世界の話を聞くたびに、科学的でないとか、胡散臭い、あり得ないという方がいる。また、ある宗教やある教えにハマったら、他の世界観や解釈はあり得ないなんて思い込んでしまう。
●なんで、そんな狭い物の見方をするんだろう?
だいこんとにんじんとごぼうのお話をかわいい、と思うような——
そんなおおらかな視点で、他のことも見れないものだろうか?
あなたが、子どもと一緒に童話の絵本を読む時。
うそくさい、何かの起源(どうしてキリンの首は長いのか、など)のお話に対して、科学的な立場からあり得ない、こんなもの教育に良くないという視点に立っていないはずだ。
そんな発想、微塵もないはず。ただただ、感覚的に優しいか、心地いいかだけの基準しかない。
スピリチュアルと科学を結び付けて、喜んでいる分野もある。
ほら、すごいでしょう! 科学的にもこれは証明されているんですよ!
科学の後ろ盾を、強みに思っているスピリチュアル実践者もいる。
私は別に、それ自体は問題ないと思う。おおいに、科学との整合性を追い、一致を楽しんでもらえばいい。
でも、ひとつ言いたい。
●あなたの大事な教えなり真理は——
科学に証明してもらわないといけないような、しょぼいものですか?
そこまで科学に重きを置くのは、実は科学の方が上なのだ、というホンネのあらわれでは?
だから、喜びとして、あくまでもおまけとして科学とのシンクロを追うのはいい。
ようは、面白がっているかどうか。
ただ、何か強迫的に、いかにも科学の後ろ盾がないと胸が張れない、正しいことを証明できないというような恐れの波動で研究していたら、くだらない。
科学と一致せねば! という義務感のようなものがあったら、あなたは科学の奴隷である。
●真理とは、あなたの外の世界が満場一致で決めたもので、あなたが押し付けられるものではない。
科学が決めるのではなく、常識が決めるのでもなく、あなたが決めるのだ。だって、あなただけが見つめる、あなただけの宇宙なのだから。
だいこんとにんじんとごぼうの話。
あれが真理でも、別にいいじゃありませんか。
何か、問題でも?
それらの起源が、科学的に、植物遺伝学的に、進化論的に説明できないとダメなのですか? それ以外は、ダメですか?
だいこんとにんじんとごぼうがどう生まれようが、それで現在のあなたの人生に、幸せに大きく影響しますか?
この世界には、ストーリ (物語) を紡ぎに来た。
意味のないところに、意味づけをするために来た。
真っ白なキャンバスに、絵を描くために来た。
目にするもの、聞くものに対し好きに解釈をするために来た。
間違っても、完璧な何かを得るために来たのではない。
もし、それがすべての人にとっての唯一の目的だったら、どんなにかつまらない世界だろう。
筆者は、自分がこうだと思う(チャネリングする)情報を発信している。
だからと言って、自分と言ってることの違う教えに対して、間違いだと思わない。
この世界に真理がひとつだけあって、それを知る者が正しく、知らない者は間違っている、というのが一般的な世界観だろう。しかし、私は言う。
●私の世界観も、他者の世界観も、両方真実。
それは、共存することが可能。
それぞれのワールドを尊重しながら。
筆者が本書で発信している内容は、「だいこんとにんじんとごぼう」のお話と同レベルだと思っている。でもそれは、決して「だから私のお話に真実も価値もない」と言っているのではない。
私の話だけでなく、この世界のすべてのメッセージが、それと同レベルなのだ。
それは決して、他の教えやメッセージをおとしめるものではない。
だから、メッセージや教えの価値の置き所は「科学的、論理的に整合性があり、論理的に証明されるかどうか」にあるのではない。
心が喜んでいるか。ハートにビビッとくるものがあるか。信じて、受け入れて楽しいか。または——
●かわいいかどうか!!
今日紹介した童話なんかは、かわいいでしょ?
世界に対して、あらゆる人や教えや現実の現象に対して、童話を見るような視点で、やわらかく包み込むように見ることができたなら。
人類が長い間追い求めてきた「天国」に近い世界が誕生する。
それは、外側の世界に現実の「天国」として出現するその前に、あなたの心の中にそれが出来る。
皮肉な話だが、あなたの心に天国ができると、外がどうかはそんなにどうでもよくなる。心に天国がないからこそ、目に見える形での、現実の「天国実現」にこだわり、躍起になるのだ。
最後に、久しぶりに『家政婦のミタ』さんに登場していただこう。
ねぇミタさん。何が大事でとか、何が真実でとか、そういうのは誰が決めるんですかぁ?
社会ですか。教育ですか。
科学ですか? 常識ですか?
人気があって、多数の支持をえている考え方ですか?
教えてくださぁ~い!
…………
『それは、あなたが決めることです。』
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