『最善』という言葉の本当の使い方

『宇宙では最善の事が起こっている』



 スピリチュアル系の教えでは、よく聞く内容である。

 私も、同じことを言ってきた。

 しかし、どうも使い方が人によって一定しないような気がする……ので、今日はそれについての至極当たり前の話をする。

 なぁんだ、あたしゃそれくらい把握してるよ! って方は、今日は休憩です。(笑)『最善』という言葉の招きやすい誤解について、今日は語ろう。



 例えば、あなたが交通事故に遭うとする。

 病気をしたり、あるいは仕事をクビになったり。財布を落としたり、何かの試練が降りかかってきたり。そういう時、スピリチュアル的発想として——



●いやいや。これが悪いことだというのは自分のエゴによる発想で、宇宙で起こることは常に最善なのだ。

 すべてのことは、あるがままにある。だから、これも最善なんだと認めよう!



 ……という感じで思ってしまう人がいると思う。スピリチュアル歴の長い人は、こう思うのが自然で、何の抵抗もない。

 でも、人によっては以下のように感じることもある。特に、スピリチュアル的思考法や価値判断に慣れていない人。

 でも、こういう人の方が、実は的を射た視点を持っていたりする。ちょうど、裸の王様を皆ほめる中、「王様は裸だ!」と指摘できた子どものようなもの。



●最善、最善って何言ってんの?

 どう考えたってそれ、最善じゃないでしょ!

 やせ我慢はよしなさいよ。自分の気持ちに正直になりなさいよ。

 実際、どっかでは苦しいし、嫌だと思ってるんでしょ?

 いきなり最善とか言うよりも、まず先にそこを認めなさいよ。

 何で、そんな無理くり自分を納得させようとするの?

 確かに、言ってることの理屈は分かるし、正しいとは思う。でも、何ていうか……悪いけど、人間らしくない感じ。



 実は、この二人とも「最善」という言葉を誤って使っている。

 これは、どうしても仕方のないことだが、最善というからにはそれと反対の最悪がある、という前提になる。

 この世界は二元性の世界。陰と陽、という正反対の二極から成り立つ世界。つまり、最善と言う時の多くの人は——



●最悪の反対としての最善



 ……だと認識しようとする。

 つまり、『この二元性世界レベルにおいて最善』だととらえる。

 言葉上の理屈のことだけ言えば「宇宙で起きることは最善」なんだったら、交通事故や破産や誰かの死も最善となる。

 では聞きますが、それらはどう考えても歓迎できることではないのではないですか? やっぱり、感情的には嫌なことであり、避けたいことではありませんか?

 それを「最善」と思おうと処理するなんて、ロボットのようじゃありませんか?

 嫌だ、悲しい。その感情を認めて、そのことが最善だなんて思考処理はひとまず置いておきませんか?

 嫌なこと・悲しいことを体験した時に、十分感じも受け止めもせずに感覚を切り離して「これは最善なんだ」と自分を納得させることに、何のメリットもありません。

 覚醒した視点でも持って、ごく自然に思えるのでなければやめてください。そんな危ないこと!

 TV番組とかで雑技団の人や軽業師の人が、見事なアクロバットを決めた時、こんなテロップが流れる。



『よい子は、絶対にマネをしないでください!』



 すべてが中立、という超越した視点でもない限り、無理がある。例え覚醒者であっても、多用は良くない。どんどん、この世感覚から遊離していく。

 結局まとめると、ある人種は「(最善とは思えないけど)でも起きたことは最善なのだから、(頑張って)それを認めよう」と考え、また別の人種は「どう考えても最善じゃないことが起きているんだから、宇宙で起きることはすべて最善という理屈は誤りだ」と考える、ということである。



 だから、宇宙のすべては最善と言う時。

 筆者的は——



●陰陽の意味での最善、を指すのではない。

 最悪の反対としての最善、ととらえるべきではない。

 それをすると、どんどん自然な感情の認識力が減退していく。

 この世の陰陽次元を超えた、神意識(上位次元)の世界の観点においての最善なのだ。それは、この世界に生きる我々が考える「最善」とはズレがある。



 この世界は、陰陽の二面性の縛りをまぬがれない。だから、最善という言葉を使うと、どうしても反対があるという前提を宿命的に含んでしまう。

 だから、上位次元世界の視点から見た「最善」のことを——



●反対の、陰陽のペアとしての「最悪」の存在しない最善



 ……なのだ、と無理くりに表現するとしようか。

 ちょうど「くう」の説明として、「であるが、有る無しという相対概念の片方を意味する無ではなく、ただ無だけの無。いしかない」と言うのとおなじ理屈である。



 さて、言葉では表現しづらい今日のお話を、まとめにかかろう。

 


①スピリチュアル的に 「最善、最善」と言う時、意識的に気を付けてみよう。

②それは、最悪の反対としての最善だ、という認識になっていませんか?

③不幸な出来事に対してホンネでは嫌だし、最善とは思えないけれど最善だと頑張って思おう、としてませんか?

④裸の王様のお召し物を素晴らしい、とほめるような不自然感や無理矢理感はないですか?

⑤起きることを何でも「最善」と処理しようとすることは、何の良いものも生み出さない。そんなことをすれば、かえってあなたの心(感情)の機能が鈍磨する。

⑥嫌なことは嫌なこと、でいい。辛いことはこの世レベルで「最善でないこと」と正直に思っていい。

⑧ただ、ゲーム世界を超えた創造主(上位次元)視点では、この世界で起こることは何の問題でもない。宇宙が最善だと言えるのは、その視点からのみである。

⑨よって、その視点以外から人間風情がすべて最善、最善と連呼するのは不健全であり、地に足がついていない。



 この世界には、ゲームをしに来ている。

 変化する様々な状況を味わい、独自のストーリーをつくりあげていく。

 だから、生きる上では素直な感情を前面に出してもらっていい。やせ我慢をせずに。ただ、心の片隅にでもいいから、これはゲーム内にいるから感じることであって、ゲームを出た究極の視座からは何の問題もないことなんだろうなぁ、と漠然と思ってもらうだけで結構。

 ホント、それだけでいい。間違っても、柔道の寝技のようにこれでもか、と自分の心を固めて締め付けなくていい。外から学んだ、こうあるべき(感謝すべき、最善と思うべき)という教えに惑わされずともよい。



 一番大事なのは、その時々で何でもかんでも無理矢理最善、最善と思いを処理することではなく、ただ感じ、素直に思いを認めること。

 ただ意識の片隅で「究極にはこれも問題ない、という視座があるんだなぁ」と覚えておくこと。

 あなたの責任は、それだけ。

 後のことは、宇宙が面倒を見てくれます。

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