恐怖の正体は罪悪感と欠乏感、そして感情
『クロユリ団地』という邦画がある。
(主演は前田敦子・成宮寛貴)
ホラー映画の部類に入るが、全然怖くなかった。
どちらかと言えば、人間の悲哀を描いたヒューマン・ドラマである。
もしくは、愛するが故に起こる悲劇。
あるさびれた団地に、幽霊が出るといううわさがあった。
団地に住んでいたミノル、という小さな男の子が、かくれんぼ中に死んだ。大きなごみ収集箱の中に隠れて、閉じ込められてしまったのだ。誰も開けてくれないまま、箱は回収されて中身は機械により自動的に焼却炉へ。
その寂しいミノルの霊が、「誰か遊んで」と、団地の遊び場に出てくるのだ。
引っ越してきて、うわさなど何も知らない主人公・明日香(前田敦子)は、公園で出会ったミノルを、幽霊と知らず仲良くなる。
その後、彼女の周りで怪奇現象が起こり続ける。相談した霊能者から「もうその子どもと絶対に関わるな」と釘を刺される。
夜、「お姉ちゃん、ドアを開けて」とミノルが来る。明日香は、最初断る。もうあなたとは遊べない、と。
しかし、明日香には辛い過去があった。
バスが崖に落ちる大事故で、乗っていた家族を含め乗客が全員死んだ。
たったひとりの生き残りを除いて。その生き残りこそが、明日香だった。
たったひとりだけ、死んでしまったミノル。
たったひとりだけ、生き残ってしまった明日香。
この二人の寂しさは、互いを引き合った。
明日香の 「この恐怖から、ミノルの霊から逃れたい」という思いは、たったひとり残される辛さを知る自分がミノルを慰めてあげたい、という思いに負けた。
彼女はついにドアを開け——
映画のラストは、ハッピーエンドとは言いがたい。
でも、明日香は形こそ一般常識が受け入れがたいとはいえ、「愛」を選択した。
歪んだ形だが、愛するために破滅を選んだのだ。
ミノルを、怨霊というよりは愛されるべき魂と考えた。
私見であるが、普通は誤りとされるだろう明日香の選択は、よかったと思う。
別の意味で、彼女は幸せだろうと思う。
さて。
この映画を見て、私が得たインスピレーションが、ふたつある。
①怨霊は、存在しない。
②すべての怪奇現象・恐怖現象の正体は、感情である。
私たちが、今までしてきた誤解。
自分の外側に。世界のどこかに得体のしれない怖い『怨霊』なるものがいて、そのような脅威が自分を襲ってくる可能性がある、と考えてきた。
怨霊などいない、と言うだけだとちょっと誤解を生みそうなので、もう少し説明を試みる。言葉というものは本当に不便なもので、何かを表現するときに限界性がある手段だ。
私が言いたいのは、もう少し正確にはこうである。
●あなたの外側に、あなたにとって怨霊、と呼べるものはいない。
人一人ひとりは、神である。
生前にどんな悪事をしていようが、どんな恨みを残していようが、死ねばこの世ゲームが(一時的にだけだが)終わる。
終わった瞬間に、誰もが気付く。何だ、ゲームだったのかと。(数がいれば中には気付かないのもいるが、そこは今日の論旨では枝葉末節なので触れない)
だから、死んだ後の霊なんて、我々が想像するよりもクールなのだ。
ゲームにすぎない、と分かったので、ああすればよかったくらいは思うだろうが、間違ってもアイツを殺さないと、ひどい目に遭わせないと死んでも死にきれない、なんて思わない。
例えれば、小学生がゲームの勝ち負けにこだわって、友達を殺害してしまうようなものだ。そんなくだらないことを、人生がゲームであって、本当の死などない(意識は永遠)ということが分かった魂がやるはずがない。
輪廻はしても、あの世で他者を恨み続ける、ということはない。むしろ、他よりも自らを「許せない・恨む(ゆえに自らを罰する)」傾向がある。そのような者の集合場所(場所、という言い方は正確でないがこの次元世界ではそう表現するしかない)こそが『地獄』と呼ばれる所である。
なのに、なぜ怖い幽霊が、怨霊が襲ってくるように見える現実があるのか。
それは——
●その人が、創り上げているのである。
望んで、そのようなものを見ている。
ハッキリ言えば、すべて悪魔とか悪霊とか怨霊に見えるものは、すべて宇宙の王たるその人が在らしめている。そのように見えているだけである。(始末の悪いことに人の意識のパワーは強大なので、ただ「見える」だけでなく感じたり触れることができたり、ケガをしたりすることができる)
では、なぜそのようなことが起こり得るのか?
ひとつのたとえ話をしてみよう。
あなたは、友人を助手席に乗せて、車を運転している。
長いドライブだ。もう出発してから二時間になる。
多分あと一時間くらいは、まだ走らねばならないだろう。
実は、30分も前から、二人は無言だった。
友人が、ずっと退屈そうに窓の外を見ているので、話しかけづらかったのだ。
あなたは気まずさを感じて、何とか場を持たせようと、必死に話題を探す。
そして、ぎこちない会話を、無理して頑張りだす。
そこで友人は、顔をしかめてこう言う。
「あなた、何か勘違いしてない……?」
さて。
ここでのあなたの勘違いとは、何か。
実は、二人のその状況に関する認識が、まるで違ったのだ。
あなたは、友人が黙って窓の外を見ている状況を、退屈からだと解釈した。
それは真実でも何でもなく、あなたの解釈である。
実はその友人、本当は「風景を楽しんでいた」のだ。別に退屈したわけでもなく、あなたの話がイヤだったりしたわけでもない。ただ、窓の外の自然豊かな風景に、心奪われていただけなのだ。
このように、本来何も問題がないのに、ある人の独自の解釈がその状況をまったく違うものにしてしまう、ということが日常的に起きる。
考えてもみてほしい。
先ほどの例のように、お互いが思いを話すという状況があったからこそ、後で本当のところが分かったが、もし、ほとんどお互いに話もせずこのドライブが終わってしまったら?
あなたの認識は、「友人が退屈して気まずい」ということで墓場まで行く。誤っていると知る機会もなく、あなたの宇宙ではそういうことになる。
これまでの話を総合して、もう一度言ってみよう。
本当の意味での怨霊などいない。いるように見えても、その怨霊は実は怨霊ではない。あなたの解釈が、そのように見せているだけ。
あなたは、正しくものを見れていない。あなた自身の心の状態、そしてそこにあなのゲーム上のキャラ設定(カルマ、と表現することもある)も加味されて、あなたがこの世界を見る独自の視点が決まる。
だから、誰一人としてこの世界に生きながら同じものを見ていない。でも、それは悪いことではない。むしろ、好きなように世界を見、自由にすべての可能性を試して味わうのが目的でこの世界に来たのだから。
同じ勝手に解釈するのでも、それが自分を幸せにするものならよい。しかしあなたが恐ろしいものを見たり、それに脅かされるかのような現実を見るなら、そんな解釈はちょっと考えた方がよい。
その恐ろしいものを敵視してどうにかしようとするよりも、見つめ直してみた方がよい。自分がどのような視点で世界を見つめているのか。自分を、他者を、世界を何だと定義しているのか。
外には、宇宙の王であるあなたの脅威となるものは、何も存在しない。いるのは、王なるあなたが許可するからである。あなたの解釈こそが、モンスターを生み出すのである。
では、ふたつめ。
この世界で起こるすべての怪奇現象の正体は、たったひとつ。
それは、感情である。
人を恨んだり、攻撃する側(怨霊・悪魔)がなぜ生まれるのか? それは、愛情のひとつのかたちである。負の側面の、愛情である。
愛には違いないのだが、そこにひとつの幻想が作用することで、ねじ曲がってしまう。その幻想とは——
●愛が足りない。
愛されていない。
だから、愛してほしいのだ。
だったら、怖いものになったり攻撃したりと回りくどいしんどいことをしないで、素直に愛してほしい、って言えばいいのに! そう思う人がいるかもしれないが、それはちと酷というものである。
皆さんだって、何かスネた時やひがんだ時って、それほど素直になれないでしょ?
「素直になれない」の極端なバージョンが、何かの存在が怨霊のように観察される場合である。
さっき、怨霊などあなたの外側にはいない、と言った。それは言い換えると、こういうことである。
●あなたの外には、怨霊はいない。
が、あなた自身が怨霊のようになることはできる。宇宙の王として、本気でそう望めば。
ただ、意思によって望んだからそう見える現象を引き寄せただけで、本当はそれも幻想。怨霊などいないが、怨霊のフリ(その役柄にふさわしい現象効果を現実に出現させる)をすることはできる。
あなたの意識が、ゲーム内で一時的に演じる演劇上の役の上だけのことだが。
攻撃する側(怨霊)だけではなく『される側(被害者)』のことを考えてみよう。
なぜ、いもしない怨霊に、襲われるようなことが起こるのか?
先ほど、すべての怪奇現象(恐怖)の正体は、感情だと言った。どんな感情かと言うと、大きくはふたつある。
ひとつめは、さっき言った愛を求める心の、歪んだあらわれ。すべてのものはあるままで完全であるのに、自分に必要なものは現実がどう見えるかに関わらずあるというのに「ない」と解釈(錯覚)して、平常心が保てなくなる状態。
要するに不足感であり、飢え。
そして、もうひとつ。
●それは、罪悪感である。
これもまた、幻想である。
罪悪感とは、悪いことをしたことを悔いる気持ちだが、そもそも罪自体が存在しない。存在しないものに対して、あると考えて罪悪感を抱くわけであるから、これがどれほど根本から捻じ曲がった感情であるかが、お分かりいただけると思う。
実際に、人類を今まで恐怖と不幸のドン底に叩き落としてきた張本人が、罪悪感である。ヘンな表現だが、原発よりもテロよりも北朝鮮なんかよりも、もっと恐るべき存在が罪悪感である。
宇宙の王であるあなたを、あなたの創造物に過ぎない何かに襲わせることを可能にするのは、あなたが罪悪感に与えた『特権』のゆえである。
そんなものを与える必要などなかったと、あなたが気付く時が来た。それが、今という新時代である。
あなたは、そもそも欠けてなどいなかったし、今も欠けてなどいないし、未来にも欠けることはないだろう。存在するというだけで豊かであり、愛に満ちているのだから。(ただ、これを実感できるようになる道のりは遠い。現実の悲惨があまりに強力なので、その渦中にあるほとんどの人はこう言われると反発しかないだろう)
だから、欠乏を、不足を、飢えを理由に攻撃する必要もない。
また、される必要もない。されるような現象を見るようなら、それはあなたが生み出した。
その言い方でしっくりこないなら、攻撃されることを望んでいるからだ、と言えばいいだろうか?
●罪悪感に支配されている魂は、自分が不幸な目に遭うことで、その罪を償っているような気がして楽になることができる。
もっとも、見た目には苦しんでいるが、実はその人の利益になっているのだ。自分を襲わせることで、顕在意識では恐怖で「助けて」となっていても、心の底では実は楽になっているのだ。
人は、自分の利益になること以外しない、と本書でずっと述べてきたとおりだ。
だから、本当の意味で外側の脅威が勝手に人を襲うことなどない。
どこかで、その人が望んだか。または、この世ゲームを始める前に「これを味わおう」とだいたいの方向性を決めてきたか。
では、本日のまとめ。
①すべての魂は、本来的に神である。
②すべての存在は、本来的に愛である。(ただし、相手が自分にとって都合のよいこととばかりをしてくれる、といったような分かりやすい愛だけではないことに注意)
③しかし、この世界へは二元性ゲームをしに来ている。
④同じ愛という現象でも、負の側面を動機とするものとプラスを動機とするものとが存在する。
⑤この世界に来た目的はすべての可能性を体験することであるため、誰かが宿命的に負を担当する。
⑥だから、神なのに悪魔のようだったり怨霊のようだったりする幻想が実現可能である。
⑦人は死ぬと、認識の程度の差こそあれ死がそう大した事でなく、ゲームに過ぎなかったと知る。
⑧だから、死んでまで他者を恨むなんて、そんな割に合わないことを誰もしない。
⑨誰もしないのに、どうしてそう見える現象があるのか。それは、あなたの解釈(視点) のせいである。
⑩外側にいるようにみえる怖い霊の正体は、あなたの解釈が生んだイリュージョンである。
⑪実際のその相手の魂は、怖くも何ともないし、悪さもしない。
⑫そんなおかしな幻想を生む最大の原因は、愛の欠乏という幻想、もうひとつは罪悪感である。
⑬エクソシストや除霊は、役に立たない。役に立っても、それは応急処置程度。
⑭根本的解決は、あなたも世界も愛であり、あるがままで何の問題もないという気付きのみ。
⑮自分を受け入れられれば、罪悪感が消える。そして他者が受け入れられるようになる。
⑯新時代において、このことを理解する人が増えれば、怪奇現象はぐっと減少していく。
⑰いもしない悪魔や悪霊を祓ったり、浄霊したりという仕事は将来的に斜陽産業になる。
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