他人はいる

 筆者は、本書の最初で(2番目の記事です)、『他人はいない』という記事を書いた。もちろん、今でも自分で書いたその内容を(自分の宇宙において)間違っているとは思っていない。

 でも時を経た今、もう少し言いようがあるだろう、という思いがある。

 私が、本書でたまに言うこと。



●正論は、人を救わない。



 この世界でゲームをする上で、非二元で言う『他人はいない』というこの究極の理屈は、さほど役に立たない。

 だって、いるんだもん! 目の前に!

 それを無視できます?

 いくら、自他というのは幻想で、元はといえばワンネスで同じなんだ……そんなことを念仏のように心の中で唱えたところで、その思考は上滑りしませんか?

 ムリクリ感がありませんか? (もちろん、ない人はいいんですよ)

 多くのケースで、結局何かただの現実逃避チックなことになっている。

 だから今回、私は大胆にも過去記事のタイトルを真逆にして、記事を書いてみる。

 題して、『他人はいる』!



 たとえ話をしてみよう。

 パソコンをいじっていると、必ずお世話になる『カーソル』。マウスを動かすと画面上を動く矢印の、アレね。

 聞きますけど、あれ実際の矢印ですか? 本当にああいう矢印が存在して、画面の中を動き回っているのですか?

 違いますよね。実際は、モニターの液晶画面内のドット(細かい点)の明滅が正体で、それが人の目にいかにも「矢印が動いている」かのように見せているんですよね。つまるところ、カーソル(矢印)なんてない、というのが真実です。



 でも、だからといって日常生活の中でこう言いますか?

『カーソル(矢印)のように見えてるけれど、実は画面を構成している細かいドットの明滅が動いているように見せかけているよ!』

 う~ん、正しいんだけど回りくどい。面倒くさい。 

 実際はないものだととしても、もっと簡単にこう言いませんか?

『カーソルが動いてるよ』『カーソル左に動かしてくれる?』

 これでいいんです。正しいからって、いちいち真面目に対応していたのでは、自然な日常ではなくなります。実際にはないけれど、あるものとして考えた方が便利がいいからです。便宜上そのように言ったほうが処理が楽だし、自然です。



 もうひとつ。

 例えば、あなたがスーパーマリオのゲームをやっているとする。画面の中に、マリオが実際にいるわけではありませんね?

 もちろん、テレビ画面のドット(点)の明滅パターンが、いかにもマリオがいて動いているように見せかけているだけです。それが、まぎれもない真実。

 だからって、あなたは画面の中のマリオを、クソ正直に「マリオにように人の目には映るけれども、実際は細かい点の明滅パターンが正体の映像」なんて、呼びます?

 ……長い。単に、「マリオ、そこでジャンプだ!」「ああっ、マリオ危ない!」でいいですよね。例え真実を突いていなくても、その方が自然だし、面倒がないし、何より『楽しい』 。



 私たちが認識する『他人』というのも、実はそのようである。

 ひとつの宇宙の中に、たくさんの人間がひしめいていて、私は無数にいる中のたった一人に過ぎない。そして私とは全く関係のない、別個の魂や意思があって、それが私を苦しめたり、幸せにしたりする。そのように、見える。

 しかし、究極の真実においては、一人一人が宇宙の中心である。あなたが宇宙の王であり、あなたが認識している広大な宇宙を創造し、開いている。

 もちろん、(二元性の世界のカテゴリーで)他人はいる。しかし、その他人もその人自身の宇宙を開いている。

 それが、私たち人間キャラには思いもよらないような見事なシステムで、あたかも同じ世界に大勢の人が同時に存在しているように見せている。まさに、厳密には画面上の点の明滅の集合にすぎないものが、全体として不思議で楽しいゲーム世界に見せてくれているのである。



 だから、「他人はいない」という真実は、せっかく他人がいるように見えるこの世界で楽しく生きる上で、それほど大事なことではない。

 確かに、何かの苦痛や試練を乗り越える上で「憎たらしいけれど、この他人もやっぱり自分なんだ。元を正せば、ワンネスでひとつなんだ」と思うことで、多少の気休めにはなろう。でも、何が何でも本気で腑に落とすべきものではない。

 自然にそう思えたり、覚醒に導かれた人は別にいい。問題は、今ここという最善の時においてそう思えない場合に、それでこの理解では「自分がまだまだ不十分」「スピリチュアル的に幼い」だから「腑に落とすべき」となってしまうと、あまり楽しくない『試練の時間』を過ごすはめになる。

 もちろん、それが悪いことなのではない。すべては同価値。ただゲーム展開的にあまり楽しくないでしょうね、というだけ。



 私も本書を書き始めた頃は、色々メッセージをダウンロードして分かることが嬉しく、無造作にメッセージを言い放ってしまった。

「他人はいない」というのもそうだし、「私が認識していない世界は存在していない(私が今見ていない駅前のコンビニは、存在していない。駆けつけたとたん、一瞬にして創造される)」というのもそう。

 これらは正論だが、分かったからってだから何が変わるの? って程度の話。知らないほうが、ずっと快適に生きられる。

 逆に下手に知ってしまうことで、腑に落とせないことが心に引っかかって、悶々としたり。私が見ている限り、スピリチュアルの世界において心の平安以上に知的好奇心の方が勝っている人は多い。そういう人が、「あれがこうなら、これどうなんですか」 とうるさく質問してくる。

 スピリチュアルとは、理屈を納得することではなく『魂で感じるもの』である。

 知的パズルに必死になっている人がいる。それによって、かえって『この世ゲーム』がやりにくくなる人がいる。幸せになるためにスピリチュアルを学ぶんだろうに、皮肉な結果になっているよね。



 だから今、私は過去記事のタイトルを、言い換えたい。



●『他人はいる!』



 それは他人がいない、という内容が間違ってました、というのではない。

 真面目に正論を意識し続け、周囲とはズレた痛い人にならないためにも、この世界の流儀に従って『他人はいる』ってことで、他人を大切にして生きたほうが楽しいよね、ってこと。

 ことわざでも、『郷に入らば郷に従え』って言うでしょ? 『神意識』が、この二元性の世界に遊びに来たんだから、この世界の流儀に合わせるほうがいいのは明らかですよね。

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