覚醒体験をするから、覚醒者なのか?

 最近、思うこと。



●覚醒者、って言葉…要る?

 覚醒したとかしてないとか、そんなに気にする??



 覚醒した、しないの基準は何?

 人は何をもってして覚醒したの、まだだのという境界線を引いているか。



●体験、というものにかなりの比重を置いている。



 絶対にそうだ、これだ! という確信を伴った体験をしたから、というのがあるようだ。本人の中でそれがあったなら、はた目からどんなにアチャーな人に見えようが「覚醒者」となる。(もちろん、本人のワールドの中でだが)

 逆に、はた目にどんなに人格者でも、にじみ出るオーラがすごくても本人が 「いいえ、私なんて全然そういう体験はないんですよ。覚醒者じゃありません」と言えば、前者と比較して後者がどんなにできた人でも、前者が覚醒者で、後者はそうでないということになる。一応。



 筆者も、こういう発信をしている中で「覚醒者」を名乗る知り合いも増えた。

 その中には人間的に、この人どうなん? と思えるのもいる。

 実に、失礼なのが実際にいる。

(覚醒したら常識を超える、という理屈を適用するのはこの場合卑怯である)

 逆に、私に個人セッションを申し込んできたことのある人の中に、おっと思う人がある。もう、楽しくおしゃべりする以外にすることないぞ、みたいな。

 実に、宇宙がすっきりされている。でも、その方は「覚醒体験なんかないです」とおっしゃる。

 私的には、「またまたぁ、ご謙遜を~」なんて思ってしまうのだが、本人が言うんだからそうなのだろう。こうなってきたら、どっちがいいんだかまったく分かったものではない。



 もちろん、明らかな覚醒体験があって、それを境に世界の見方が変わる、ということはある。それを違う、と言いたいわけではない。

 ただ、そういう体験をするから覚醒者なんだという、安逸な二分法は嫌いだ。そんな、白黒はっきりさせるみたいな分け方でいいのか?

 ここで、ひとつ言ってしまおう。



●明らかな覚醒体験がなくても、覚醒者である人がいる。

 いや覚醒者じゃありません、と本人が言っても、覚醒者とそう変わらない人というのはいる。



 私は、何かを根拠として「これがあるから、こうだ」というのは、弱いと思っている。つまり、覚醒体験をした、ということが自分が覚醒者であることの一番の拠り所になっている人は、弱い。

 それは、例えて言うなら、「お金があるから幸せ」「こういう地位を得ているから幸せ」「愛する人がいるから幸せ」というように、幸せの根拠を何か具体的なものに置いている人のごときである。



 お金があるから幸せ、という人は、一文無しになったとたん、幸せでなくなる。

 だって、幸せの根拠がなくなったから。

 地位があるから幸せ、という人は、その地位を失った瞬間、幸せでなくなる。

 幸せの根拠がなくなったから。

 愛する人がいるから幸せ、という人は、愛する人を失ったら、幸せでなくなる。

 幸せの根拠を、失ったから。



 三次元ゲームをやっているからには、ゲームなので敵さんが出てくる。

 敵さんは、あなどれない名スナイパーである。狙った的は、外さない。

 敵さんが、ある人を見る。

 明らかに、「お金」という的が目立ちまくっている。

 おっ、あそこを狙えば一発だな! ズドン!

 お金が幸せの根拠のその人を崩すのは、実に簡単。いっちょ上がり。

 次に人を見ると、「愛する人」という目立つ的を掲げて歩いている。

 敵さんは思う。おっ、こいつもまた分かりやすい! 的も狙いやすい!

 ズドン! と打てば、愛する人を失ったその人は、失意と悲しみのどん底へ。

 ほんま簡単や! 敵さんは、ほくそ笑む。

 自分が覚醒者である、という根拠を何かの経験に置いている人は、まだ「生悟り」 である。そんな人は、他人を「覚醒した人」「覚醒していない人」と見る癖が残っている。

 例えて言うなら、イナズマンになる前のサナギマン。

 仮面ライダーカブトでいう、キャスト・オフする前のライダー。

 電王のプラットフォーム。白い状態のクウガ。

 ……ごめんなさい。例えがマニアックでしたね。



 しかし。幸せであることに根拠のない人はどうか?

 何だか、生きているだけで、存在しているだけで幸せ。

 根拠のない自信や、根拠のない安らぎと喜びに満ちていたら、敵さんは困る。

 …… 一体、どこを狙えばいいんだ!

 敵さんがいかに優秀なスナイパーでも、的がはっきりしないものはどうしようもない。急所が分からないので、手出しのしようがなくなる。

 このように、根拠のあることは弱く、根拠のないことは強い。



 ゆえに私は、こう提案したい。



●覚醒体験(と思えるもの)をしたから覚醒したんだとか、してないから覚醒者じゃないんだとか……そういう発想、やめません?



 不毛すぎる。実にワクワクしない考えである。

 私にとっては、実にどうでもいい区別である。

 私には、覚醒者だろうがフツーの人だろうが、究極同じに見える。

 どうでもよい。どうでもよいが、やはり「覚醒」を気にする人は気にすると思うので、新提案。



●覚醒者というのは、体験によって決まるのではない。

 その生き様である。

 そして、どう世界を見つめるか、という視点の継続である。

 最終的には、『覚悟』であるとも言える。



 体験がなくても、覚醒しているケースはある。

 本人が、絶対的に強烈な何かの体験がないとダメだと頑なに思い込んでいるので、覚醒してないと認識している人もいる。

 逆に、望むあまり覚醒体験に似たような現象を自分で生み出しておいて、「我覚醒せり!」というのも実は多かったりしてね!

 それが、悪いと言ってるんじゃないですよ。私は、それだって認める。宇宙の王たる本人が言うんだし。

 でも、これだけは言いたい。体験、というものをしたかしないかで人を分けないで、覚醒者としてありたい、という意識や覚悟を持った人は、それで覚醒者でいいじゃないか、と。



 そもそも、すべての存在はあるがままで完全なのだ。

 その視点から考えたら、覚醒したしないは、ゲーム上のお遊びだ。

 どっちでもいいじゃない。どっちでもいいんだから、あえて自分はどっちでいたい? ということ。ワクワクするなら、今から覚醒者になっちゃいな!

 自分で、そう決めればよい。ハイ、あなたも今日から覚醒者!

 覚醒者だろうが違おうが、今ここに生きていることが充実しているなら、どっちでも値打ちは一緒。 

 最後に、もう一度言う。



●生き様以上に、大事なものはない。

 生き様以上に、その人を物語るものはない。

 何かの体験や、目に見える栄光など、その人を何も規定しない。

 するものは、毎瞬の人生の選択を、喜びをもって選べているかということ。

 それができるなら、体験などなくてもあなたは覚醒者である。

 いや、覚醒者以上の者である。

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