Q&Aのコーナー第四十三回「依存症から抜け出すにはどうすればいいですか?」

 Q.


 私はある人に依存してしまっており、何かある度に頼って甘えてしまうのです。

 そうしてしまう事を自分で決めて行動している自覚はあるのですが、時々、「この人に頼り続けるのは自分にとって良くないんじゃないか」「このまま頼ってたらこの人なしで生活できなくなるんじゃないか」と怖くなって、その人と距離を置こうと思ったりします。(結局できないんですが……)

 依存や執着って、自分で分かってそれを選択してても、しない方がいいものなのでしょうか。


 A.


 無理をしないことです。

 依存症を抱えたあなたがダメだから、克服を目指すのではありません。

 今のあなたでOKであり、あえて克服したいからするのだ、くらいの気持ちで。



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 依存症と聞くと、まず良いイメージは湧かないだろうと思う。

 モノに対する依存もあれば、人物や特定の状況に関する依存もある。

 どちらにしても、本来は宇宙の王であるはずのその人が、「何か他の存在がなければ、やっていけない」というとんでもない(ある意味大笑いな)錯覚に陥る現象である。もちろん、「人間はひとりでは生きていけない(他の存在のおかげで生きている)」という理屈はあるが、ここで言うのはそことは意味合いが違うのは、分かるよね? そんなアホみたいな揚げ足取りする人は、本書の読者には向かない。

 依存なんて、やめたらいい。百害あって、一利なし。だから多少無理してでも、強制してでも、やめさせたほうがいいと第三者は思ってしまう。

 しかしこの質問者のように、自ら「これではいけない!」と感じて、やめなければと感じる真面目な方もいる。これは、特に依存症に苦しんだ方ならお分かりいただけると思うが——



●依存症は、力技で根本的に解決するのは不可能なのである。



 強制して(または矯正して)、何とかなるものではない。

 依存症の問題だけでなく、あらゆる問題は『感情問題』なのである。だから、情的側面における力学的変化、しかも強制ではなく自発的変化によらずして、依存症から抜け出ることはない。

 たとえ、方法論的なことで抜けることができたように見えても、それは一時的なものに過ぎない。きっとまた、何かの拍子に顔を出してくる。

 では、依存症とはどのように扱うのがいいのか? 



●依存症とは、子どものする無謀な家出のようなもの



 ……と、お考えいただくのがよい。

 子どもは成長段階において、親に反発したくなる。

 反発が高じると、親の庇護がないと生きられないのに、思わず家を飛び出す。

 で、友達の家も夕食時くらいまでしかいられず、寒空の下、だんだん後悔しだす。

 この頃になると、カッカした頭も落ち着いているので、お腹がすいた、寒い、心細いなどと思い出す。こっそり家の周りを、それとなくウロウロしだす。

 実は、きっかけを待っているのだ。自分で入るのは決まりが悪いので。

 親もその辺を察して、見つけて「入ってきなさい」 と言う。表面的には「見つかっちゃった」「入ってやるか」 というような顔をして入るが、内心は安堵。



 依存とは、人間が本来宇宙の王であることを考えれば、正反対の性質のもの。決してふさわしくは、ない。

 だったら、依存というものをしないように努力すればいい、という単純な発想になるのだが、筆者が本書で訴えてきたのは……



●どんなに正しいと言われることでも——

 心から素直にそうできないことを自分に強いるのは良い結果を生まない

 もちろん他者から強いられても良い結果を生まない、ということ。



 先ほどのたとえ話のこどもの家出こそ、依存のことである。

 そんなもの、合理的にはやらないほうがいいに決まっている。

 でも実は、子供の成長過程で必要だった。また、どんなに愚かに見えても馬鹿馬鹿しくても、心としてはしないわけにはいかなかった。

 でも、実行してみせたからこそ、そのくだらなさが理解できたわけで。

 やっぱり、必要な行為であり、成長の一段階だったのだ。



 ゆえに、あなたが心から今の状態がイヤで、死んでも脱するぞ! と思えるまでは無理をすることはありません。それまでは、まず抜けられない。



●その状態にあって、あなたに何らかの利益があるからこそ、やめられないのだ。



 これも、本書で何度となく言ってきたこと。それが自覚できない限り、その人は「我ならぬ我」と呼ばれるものに振り回される。

 時が来れば、人生のステージが一段上がる時が来れば、強制イベントが起きる。

 それまでのあなたではいられなくなり、依存から卒業する時が来る。

 小学校は6年、中学校は3年で自動的に卒業するではないか。

 よほどの例外を除いて、それが短縮されたり延長されたりすることはない。

 依存というものにとらわれている魂の段階に、今あなたがいるなら、その一定期間を抜けきるまではムリは禁物でしょう。

 自分をいじめず、あるがままを認め、『時が来る』のを信じて待つのが、手堅い乗り越え方。


 

 また、ちょっと過激な乗り越え方もある。

 人間の意思の力、意識の力は最強である。それをフル活用する。

 あなたが、本気で変わりたいと、意識の中にあるターボ・ボタンを押すならば、その一瞬で変われる世界がある。その可能性はゼロではない。

 ただ、ハンパでな気持ちではかすりもしない、ということは申し上げておこう。

 それこそ、命がけ、死にもの狂いの情的エネルギーを必要とする。



 このように、意識の力を発動した大勝負にでることもできるが、一般的にはおすすめしない。人を選ぶからだ。成功する人は限られているからだ。

 やはり前者のように無理せず、ゆっくり人生のドラマの中で様々な感情をかみしめていただいて、時の満ちるのを待ちつつ一歩一歩成長していくほうがいいように思う。善悪も優劣も本来ありませんが、それがこの三次元ゲームのおすすめな楽しみ方です。何たって、永遠の時間があるのですから。

 多少遠回りでも、いいではありませんか。



『狭い日本 そんなに急いでどこへ行く』



 昔、そういう交通標語があった。

 だから、下手に「意識高い系」の知識を仕入れてしまい、理想の自分像と今を比較して「こうあるべきだ、今の自分はそれにほど遠いから頑張らねば」などと自分の尻を叩いてまで背伸びすることはない。

 依存症の問題に対しては、現実的対処に限っては単純だ。以下のようにすること。



●抜けたくても抜けられないなら、無理するな。

 心底うんざりしたら、死んでもイヤだと思うようになったら、こっちのもの。

 誰から言われなくても、その時には自分の力で克服する。

 たとえ依存症のゆえに人生終わってしまっても、それほど問題ない。

 あなたの、その存在としての意識が消えることはない。

 冷たい話だと思われるだろうが、また新しいゲームができるから。

 そんなに悲観することはない。



「神意識」が腑に落とせた人と、そうでない人との違いは?

 サーカスで綱渡りをする芸人に例えてみよう。

 前者は、綱渡りの綱のはるか下に、落下時に受け止めてくれるネットがあると分かっている。また、自分の腰には命綱がついている、と自覚している。だから、落ち着いて綱渡りに挑むことができる。

 しかし後者は、下にセーフティネットがあることを知らない。また、腰に命綱がついていることも把握していない。だから、まさに恐る恐るの、命がけ。

 一歩踏み外したら、人生終わりだ、と本気で思っている。



 今、何らかの依存症に苦しんでいる方へ。

 大丈夫。

 あなたには、落ちてもセーフティネットがある。命綱がある。

 恐れを、少しだけでも手放して。

 心が自然に赴くままに。罪悪感を持たないで。

 ゆっくり、ゆっくりまいりましょう。 

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