突き放す愛


 私は、基本的に他人の機嫌をとらない。

 本書の最初からお読みいただいている方や、私の講演会に参加したことのある方なら分かると思うが、あまり人を慰めない。

 結構、深刻そうな文面で、どうすればいいでしょうかとコメントで訴えてくる人。そういう人に対しても、(場合によるが)私は結構厳しめの言葉を投げかけていることがよくある。



 私には、守る気がない。

 そもそも、守る必要のあるものなんて、ない。

 宇宙のすべては私のものであり、私の味方。

 もっと超越した言い方をすれば、『私でないものは一切ない』のである。

 自分の意を曲げてでも、ここはこうしておかないと自分が損をする、などという現象は世界にない。あるように見えるがそれは幻想であって、人はそういう状況があり得ると信じ切っていて、その信仰(?)がある程度の現実をつくる。

 恐れ、というやつがすべて仕組んでいる。

 私たちが無力で、お金や地位やその他さまざまな手段で自分を脅威から守らないと生きられない、と私たちに信じ込ませることに成功している。

 それは、一切を作り出している究極原因者・宇宙の主人公としてのその人の位置を放棄する態度である。

 


 守るものがあるから、人は好きなようにふるまえない。

 自分の気持ちにウソをついてでも、表面的な現実をうまく運ぼうとする。

 私は、守るべきものがないから、好きなように(心の命ずるままに)動く。

 その結果が、本書での私の言動である。自分を必死で守り、他人にもその生き方を強要しないと気が済まない方々にしてみたら、私などはうっとおしい存在かもしれない。ちょうど、イエス・キリストが十字架にかかったというのは、そういうことだと思う。

 自由に生きられない人が、自由に生きている人を見て、腹が立つのである! それが妬みだという幼稚さを見抜かれたくないので、人はもっともらしい知識と常識で武装する。

 宇宙のすべての価値は中立なので、それがいいとか悪いとかいうわけではない。

 ただ、そんなことして楽しいのかどうか、ということがあるだけである。



 この世界には、ひとつの変な思い込みがある。

 愛、とか優しさ、というものに対する認識である。

 もちろん、みんながみんな、というわけではないが、ある錯覚にとらわれやすくなっている。

 自分がうれしいことをされたり、見た目に分かりやすく(自分に都合の)よいことをしてもらうことが愛。自分を認めてくれて、かばってくれて、慰めてくれて……責めないで、ヨシヨシしてくれる。それが愛であり、優しさ。

 愛に関して、そういう幻想を抱く方がある。

 顕在意識では、厳しい形をとる愛もあると考えてはいるが、ホンネではそう考えない人も多い。だから、自分の感情や気分が嫌う現象は、背後の愛が見抜けずシャットアウトしてしまうことになる。



 見捨てないのが、愛。

 構うことが、愛。

 いい加減に、これが発展と繁栄を生まない考えだということに気付いたらどうか? もちろん、この世界には完全な存在が完全でない、ということをゲームとして楽しみに来ているので、何をしようがどんな信念に沿っていきようが構わないのだけれども。

 見捨てない、構うというと聞こえはいいが、裏にどんな意識が働いているか考えてほしい。

 相手は、宇宙の王である。

 その宇宙の王に対して、過干渉するということは「自分が助けなければ、この人はダメなんだ」と言っているのと同じこと。

 要するに、相手を神と認めない行為になる可能性があるのだ。

 必死に助けようとすることで、逆に相手本来の、宇宙の主人としての主体性を奪う形になる。



 例えばの話。

 あまりおいしくないラーメン屋があったとする。

 もう、つぶれるのも時間の問題である。

 あなたが、そこの店主と知り合いだったとして。

 どうしてあげますか?

 この世界の常識にそった考えでいけば、「友達だから、見捨てられないから、私ができるだけ通ってあげよう」とか。他の知人にも声をかけて、できるだけ行ってあげようとか。

 そういう風に「困っている人を助けてあげる」的な発想が出ないだろうか。 



 ここで、一番愛ある行動(それも、ゲーム世界の幻想であるが)は何か。

 ショボいラーメン屋を、お金を出してあげて救うことではない。



●援助しないこと。

 見捨てて、一日もはやく潰れていただいて、目を覚ましていただくこと。


 

 意外に聞こえると思うが、これこそ弥栄いやさかに貢献する道なのだ。

 少々、分かりづらいかもしれないが。

 そもそも、向いていないのだ。

 本物は、(その使命を帯びた者は) 店が潰れそうなのに向上心もなく悠然となんかしていない。人に助けてもらって命をつなぎとめてもらい、その後も奮起する姿が見られないならば、弥栄の意識とは程遠い。

 喜びの循環、それを通じてのエネルギーの倍掛け増加がないなら、そりゃ発展しない。そんなものは、一日も早く息の根を止めてあげたほうが、その人のためだ。

 また、それを助けようなどというショボい人情でお金や援助を注ぎ込んでも、弥栄でない性質上、エネルギーは全体的に縮小する。

 関わっている人間全員に、ワクワクや喜びに向かうエネルギーがない。

 向いてない、やる気ない、という豊穣のエネルギーのないところ、続けさせるのはあえて言えば罪だ。お互いのためにならない。

 それよりか、早くあきらめさせて、新しい道に目を向けさせてあげるのが愛だ。



 昔、みのもんた司会の番組で、売れてない店を、売れている一流店に学ばせて復活させるのがあった。

 なかなか感動的で、結構な視聴率も取っていたように思う。

 時々、それまでに助けた店のその後を追うコーナーもあった。

 それを見る限り、かなりのケースでまたダメになっていた。

 その時は、よいのだ。他人のエネルギーに乗っかって。

 でも結局、のど元過ぎれば熱さ忘れて、元の木阿弥になる。

 本性が、バレるのだ。付け焼刃のメッキは、すぐにはがれる。

 だから、先ほどの話題で「お金を援助するのではなく、おいしいラーメンの作り方を学ばせる」という意見もあろうかと思うが、それとて五十歩百歩である。

 こちらが、宇宙の王である他人を変えようとしている部分では、共通しているからである。結局、本人問題なのだ。



 私が、人を突き放す場合。

 やみくもに、好き嫌いや気分で、相手が心からイヤでそうしているのではない。

 必ず、ひとつの確信をもって、それをしている。



●私が助けなくても、この人は大丈夫。

 必ず、自身の力で喜びの道を見出すことができる。

 なぜならこの人も神であり、自分の宇宙の王なのだから。


 

 そういう確信と祈りをもって私は、その人との感情ゲームを断ち切る。人間ゲームにサヨナラする。

 構っていると、一見愛があるように見えるが、弥栄の展開にならない。

 これが、私なりの誠意なのだ。助ける、見捨てないというのは見た目に格好いいが、依存のドラマを生むだけである。



 これからも、筆者は思うところをハッキリと述べ続けると思う。

 すべての人に、受け入れてもらうつもりはない。

 波動が合わない人、私をキライな人がいて当然だと思っている。

 それが、この宇宙の陰陽のバランスである。そしてその方々も、神々である。

 完全に分かり合える選択肢しかない神が、分かり合えない! という状況を生み出して「すっげ~!分かり合えてねぇよ~。面白過ぎ! 信じらんねぇ!」

 神意識は私たちの背後で、そんなことを言いながらゲタゲタ笑っているのである。



 私は、この限られたゲーム世界で、波動の合う楽しい仲間と、楽しいゲームを続けようと思う。

 全人類を愛そうなんて、テキトーでよい。困った時に手を差し伸べてはあげても、日頃から好んで付き合う人間は選んでよい。そこに、罪悪感は要らない。

 完全なものが完全でないスリルを味わいにきたと分からないから、皆完全を目指そうとするのだ。 

 重ね重ね言う。

 本当に大切なことは、目に見えて人に優しくしたり、手を差し伸べたりする行為だけにあるのではない。

 たとえ、見た目には他人に厳しい行為であっても、そこに相手に対する信頼があるなら、違った見方が可能なのだ、ということを。

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