Q&Aのコーナー第二十六回「人を正しく導きたい、と思うのはおせっかいですか?」

 Q. 


 私はこれまで、人生や仕事での先輩から、たくさんの事に気付かせてもらいました。もらってばかりの人生だったので、今度は昔の私のような人や気づけてない人に返していきたいと考えています。でもそれは、余計なお世話なのでしょうか?

 皆が完璧ならば、自分が他人の心を正していこうとするのも意味がないように思えて、どうすれば良いか分からなくなってしまいました。

 筆者さんの記事を読んできて分かったつもりでしたが、またこんがらがってます。

 どうかお答えお願いいたします。



 A.助けようとするよりも、信じて干渉を減らす方がよいようです。



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 国民的少女マンガに、『ガラスの仮面』というのがある。

 少女マンガというジャンルを通り越して、マンガ界のキング・オブ・キングスである。もし、このマンガ(アニメやドラマもあるが)を知らない方がいたら、是非触れてみてください。ハマること、請け合いです。

(コミックス全部読むのは相当大変だが……)



 このマンガに、『月影先生』という人物が登場する。

 往年の大女優であるが、ひどいケガがもとで芸能界からは距離を置く生活を送っていた。しかしある日、このマンガの主人公である北島マヤという、類い稀な才能を秘めた少女に出会う。

 月影先生は自分の後継者としてマヤをスカウトし、自ら師匠となって厳しく指導に当たる。どれほど厳しいかというと、体罰まがいの指導は出るわ、ビンタは日常茶飯事だわで、マンガ読んでる方も、思わず力が入る。

 連載が始まった時期のことを考えれば、スポ根マンガ的要素があってもおかしくない時代ではある。確かに、月影先生の指導は厳しいし、やりすぎじゃ? と思える場面もある。



 しかし。このマンガを、全編を通して落ち着いてよく読んでみると、ひとつのことが分かる。月影先生、要所要所では確かにマヤに対して過剰干渉しているように見えるが、全編トータルでみると「あまり構っていない」のが分かる。



 マヤがまだ演劇の道に入って初期は、徹底的とも言えるスパルタ指導があった。

 才能があるとはいえ、それを引き出すための基本は叩き込む必要があるからだ。

 しかし、コミックス18巻以降になると、月影先生はマヤにほとんど稽古らしい稽古をつけない。

 マヤが陰謀により芸能界からは村八分状態になり、人気女優の座から転落しても、何も手助けしていない。ただもう、見守っている、という表現がぴったりだ。

 それは、単なる放任ではない。

 この子は、大丈夫。自分の力で栄光をつかめる——。

 その信頼感があるから、心配でも干渉しない勇気を持てるのだ。



 私は、思う。

 心配して、人を助けるよりも、人を信じてあえて干渉しないことのほうが難しい。

 


 実際にそのように育てられたマヤは、自分の力で立ち、与えられた人生から必要な物事を学び取っていく。そして、誰もがその実力を認める大女優になっていく。



 さて、質問者の質問に、話を移そう。

 質問者のような人は、実際世に多い。

 私も過去に、知的障がい者の授産施設(作業所)で勤務していたことがある。

 その時の意気込みというのはこうだった。



 障がいをもつ人たちのために、頑張りたい。

 支えになってあげたい。

 私にできることが、何かあるはずだ。



 当時の私は、自分で言うのもヘンだが「高い志しをもっている」と自分で思っていた。実際、「何でそれがいけないんですか? 偉いじゃないですか」としか思わない方も多いだろう。

 長いこと、人類が気付いてこなかった衝撃の真実がある。

 


●あなたが人を助けたい、と思う時

 あなたのその願望を満たすために

 あなたに助けられなくちゃいけないような人が、創造される



 つまり、『需要と供給』の関係である。

 あなたが、誰かを助けたい、支えになりたい、と思う時。

 あなたは本来神意識であり、自分の開いた宇宙の王であるので——

 宇宙は、そのあなたのニーズ(需要)に応えるべく、動く。

 かくして、あなたに助けられるべく、ふさわしい人が創造・配置される(供給)。そこであなたは、「ああ、私が役立てる場所はここだ!」ということで、存分に腕が振るえる。



 普通、常識では逆である。

 この世界に生まれてきてみたら、世間には恵まれない人、かわいそうな人が大勢いる。私が、乗り出して何とか解決しないと! って思う。 

 身も蓋も無い言い方をすれば、『ひとり相撲をとっている』ということだ。

 皆、自分で問題を生み出し、それを自分で解決している。

 まぁ、この世界が三次元ゲームであることを考えれば、別に滑稽なことではない。



 質問者の問いに対し、ストレートに答えれば、まさに『余計なおせっかい』である。しかし、だからといって。すべて自分が生み出しているからと言って——

 今この瞬間から、目の前の現実をまったく無視することはできない。

 いくら目をこすっても、障がい者はいるし、貧困はあるし、災害はある。

 福祉の庇護を必要とする、老人や子どもたちもいるのだ。

 この書で言ってきたように、私たちはこの物理次元にゲームをしに来ている。

 だから、そういうゲーム設定なんだ、と思えばよい。

 その中で、一体私自身がどのように喜びの世界に変えていくか、というゲーム。

 現実を幻想として無視するのは、いくらなんでも賢いやり方ではない。

 ここに、必勝法がある。



●すべての人 (存在) は、本来神であることを忘れない。

 よって、自分がなんとかしないとダメな命などない。

 それを信じて、他者への干渉は最小限にする。

 それよりも、自分自身が喜べ、豊かな意識になれることを目指すこと。



 私は、人助けをすること(おせっかいを焼くこと)自体が悪い、と言っているわけではない。それはむしろ、必要でさえある。

 でも、その際に是非とも確認していただきたいことがある。

 助けなきゃ、という思いの背後に、「相手はダメだ。弱い」という意識がないか?

 それがゆえの健全でない「必死さ、しゃかりきさ」はないか?

 今の相手はダメだから、私が何とかする、というホンネがないか?

「私がいないとこの人はダメ」 的な発想はないか?



 つまり、相手をマイナスの存在、助けがないとダメな存在ではなく、存在そのものがまず完全である、という自覚をもった上で、助けろということ。

 表面上は同じ行動でも、相手が救われるべき存在だと認識して助けるのと、本来は救うも何ももともと完全なのだが、愛を交換し合うという豊かさのゲームのために、今一時的に助けるような現象になっているだけだ、と思って助けるのとでは、天地の差がある。



 これも、過去記事で言ったことであるが。

 人助けが基本になっている職業の人は、以後自分の仕事がなくなる覚悟でやってください——ということを述べた。

 例えば、警察。

 あれは、はっきり言って犯罪を世からなくすためにやっていない。

 実は、悪をつかまえ懲らしめる、という意識が、需要と供給の法則を発動させている。警察は、自分が捕まえるべき犯罪者を、無意識にではあるが生み出しているのだ。だって、本当に犯罪者がいなくなったら、メシが食えなくなるからである。

 自分たちの存在意義が、消滅するからである。

 障がい者福祉もそう。

 職員が 「障がい者のために!」と頑張れば頑張るほど、そういう人を生み出す。

 文字通り、「障がい者」という架空の存在のためになっているのだ。

 決してそれは、ひとりの完全無欠な命のため、ではない。

 同じ理屈で、医者は無意識に患者を生み出している。

 歯医者さんなんて、虫歯になる人がいなくなったらめっちゃ困ることだろう。

 ホンネで全人類が虫歯にならないように、などと願う歯科医は何人いるだろうか?



 ヒーラーという職業もそう。

 この書の読者にはヒーラーさんもいるだろうから、慎重に言わねばならないが——

 やはり、自分の職業が未来いらなくなる、という意識で、癒していただきたい。

 あけっぴろげに言えば、自分の食い扶持になる依頼者さんを無意識に生み出すような生き方は、できればしていただきたくない。

 そうではなくて、このような意識を持っていただきたいのだ。



●今は時代の要請で、一時的に病を癒してはいるけれど、病の正体なんて所詮は自分や世界への不信、疑い、恐怖でしかない。だから、人類覚醒の時代に突入すれば、私のような仕事は激減するだろう。でも、それこそが本望だ。ああ、そんな時代が早く来るといいなぁ!



 この私も、この書を書いている動機は、いつか皆さんがこのような内容を自分のものとされて、私や私の記事を頼らなくてもいいようにするためである。

 今、時代の橋渡しとして一時的に皆さんのお役に立つ形をとっているのである。

 でも、筆者のように本を書いたり、人によっては講演会やセミナーをして回ったりして世間に広めようとする覚者の方も多い。

 じゃあ、それはいわゆる 「おせっかい」には当たらないのか?

 そう疑問をもつ人もいるかもしれない。



 おせっかいか、それとも本当に必要なのかを見極めるコツ。



 ●そこに、心からの喜びがあるかどうか。



 例えば、こんな世の中を何とかしなきゃ!という義務感や、しないとまずい、という恐怖感が動機となっているなら、十中八九「おせっかい」である。

 でも、魂が切にそうしたいと求めている、そして自分がその助ける行為をすることに喜びを感じていて、こうしたらどうかな? ああしたら楽しいかな? というワクワク感をもっているなら、それはあなたの魂の『使命』であり、『天職』である。

 その、宇宙の天命にそった生き方は、必ずやあなたを幸せにするだろう。



 では、ここで今日のまとめに入ろう。



①人を助けたい、と思う時。ふたつのケースを疑ってみるべきである。

②喜びが動機のケース。それは天職であり、覚醒者が講演や著作を通じて真理を広めるような例。

③恐れや義務感が動機のケース。何とかせねば、私が助けないと相手はダメなまま、と感じている。

④後者の場合、需要と供給の法則が働く。

⑤人助けをしたいあなたの意識が、助けられるべき人や状況を生み出す。

⑥前者の場合。最終的に人助けがいらなくなる状況を認めている心だと、逆に問題はちゃんと減っていく

⑦映画である外界の現象の対処よりも、自分の意識の問題に取り組むほうが早い。



 質問者の方に考えていただきたいのは、助けたいと思うその心は喜びからきているのか? それとも、義務感や恐れから来ているのか? ということ。

 助ける、というのは三次元における一時的な現象に過ぎず、本来は完全である神的存在が、自分に欠けがある、という架空のゲームをしにきている、ということをまず認識する。

 その上で、私にはどうもこれが向いているようだし、実際に楽しいから、させていただく。でも、いつか世界のステージがレベルアップした時、私は迷わず今の仕事を捨てられる。

 逆に、その時どんな展開が自分に待っているのか、楽しみですらある……そんなあなたでいてほしい。

 みんな完璧なのだから、何もする必要がない。確かにそうです。

 ゲームなんてのもそうですよね。やる必要なんて、どこにもありゃしない。

 でもわざわざ、人はしますよね? ゲーム。どうしてですか?



 楽しいから、です。

 ですから、楽しければどんどん何かしてください。

 楽しいことがないなら、別に何かしないといけないことはないです。

 だって、ゲームですから!

 安心して、どうとでもなってください。



 あなたの望んでいることが、本当にあなたの天職か? 使命か? を判断する基準。



①他の誰も否定しない(それを止めない)としたら、それをするだろうか?

②他の誰も、あなたのすることを評価しない(褒めない)としても、あなたはそれをするだろうか?



 このふたつをクリアしていたら、迷わずおやりなさい。

 私も、誰もこの書を評価してくれなくても、書き続けるだろう。

 本になるならない、私がさらに表舞台に出る出ないも一切関係ない。

 私は、単に書きたいのである。そしてそれが、楽しいのである——。

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