Q&Aのコーナー第二十三回「苦労や困難を乗り越えないと悟りの境地にはなれないでしょうか?」

 Q.


 テレビや本などで見る成功者と呼ばれている人や過去の偉人は、皆さんだいたい壮絶な苦労や貧乏を乗り越えて成功しているような話を聞きます。

 悟りに関しても、やはりそういった方々がされているように思います。

 確かに輝いていて素敵だなと思う人には、過去の大変な経験を乗り越えたことによる人間的な大きさや深みを感じます。自分も悟りたいし、さらに豊かになりたいのですが、このような谷底に落ちる経験が近道または必須なのでしょうか?



 A. 苦労しないと味のある人間になれないなんて、誰が決めたのですか?



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 その昔、若者のカリスマミュージシャンとしてその名がとどろいた尾崎豊の『卒業』という歌がある。

 歌詞を紹介したいところだが、著作権関係がうるさいので、知っている方は思い出して、知らない方はネット検索でもして読んでほしい。



 この歌がバシバシ伝えてくる、尾崎の感じたやるせなさ・行き場の持って行きようのない怒りの正体は何か。

 実は、それを理解すること(腑に落とすこと)こそが、スピリチュアルへの真の入り口である。そういう意味で、尾崎のこの歌は問題提起としてはかなりいいところを突いている。

 尾崎は、『支配からの卒業』と言っている。

 この世界において覚醒する、ということはまさにそうなることである。

 誤解のないように言えば、まったく外界の干渉を受けずにすむように超越する、ということではない。

 この世界の様々な制限の中に生きなければならないが、それがその人に苦をもたらさない、ということである。同じように世のルールに従って生きているように見えても、その人の自由な魂は実のところ、何にも縛られてはいないのだ。

 では、一体『何の支配からの卒業』なのだろうか?



●それは、『価値判断という基準からの卒業』を意味するのである。

 


 確かに質問者の言う通り、世間で有名になるような方は、平均的な人とは違う『何か』を持っているからだ、と思われることは多い。マザーテレサなんかもそうだろう。フツーの人がしていない特殊でものすごい経験をしてきた人だ、と。

 しかし。このものの見方には、ひとつの危険がひそんでいる。この見方は、真理とは何の関係もないただの 「思い込み」 の土台の上に成り立っている。

 ここからは、心をかなりやわらかくしないと、ついていけません。

 どんな思い込みかと言うと——



●Aという人よりも優れたBという人が存在する。

 この世界には、素敵な人としょうもない人が存在する。

 それを分けるのは、努力だったり才能だったり遺伝だったり……する。



 だから皆さん、気をつけて。

 ある人を、徹底的に悪魔呼ばわりし、人間じゃない! 的扱いするべきではない。

 これは、ある程度理解してもらえる。

 でも、次のはちと大変です。



●ある人を余りにも素晴らしいと持ち上げるのも、実は落とし穴である。



 えーっ? って思う人も、いるかもしれません。

 でも、人を徹底的に嫌うのと、人をものすごく自分よりも上に置くのとは、コインの表裏なのだ。同価値なのだ。

 これは、一歩間違えばスピリチュアルの世界でもあり得る。

 人から見て人格者で、話が面白くて、とにかく素晴らしいので人気の出るスピリチュアル指導者はいる。しかし、ちょっとでも方向性がずれると、いつのまにか「他人はいない。他者はすべて自分の反映。あなたは私」だということを忘れてしまい、こう叫んでしまう。


『先生、素晴らしいです! お言葉、ありがたいです!

 先生と呼ばれる人は世に沢山いますが、あなたこそ最高です! 一番いいこと言っていると思います!』



 熱狂的なファン状態ができて、その頂上に先生が君臨する。

 覚醒への道のりの教えは、「人が誰の助けもなくても、自らが神として自立していけるようにすること」。

 つまり、先生など必要のない状態にしてあげるのを目指すこと、である。

 だからスピリチュアルの指導者には、いつかは相手に親離れさせる覚悟をもって、求めてくる人と対応することができるセンスというか、スキルが求められる。

 もちろん、最初は相手もひな鳥のようなものであるから、せっせと世話し、やさしく教えてあげることはいる。

 しかし、いつまでも同じではない。いずれ、独り立ちが必要である。

 そのために一番邪魔になるのが、依存心である。

 ファン心理は、依存心に近い。



 もちろん、ある先生に惚れ込んでいる人がみんなそうだ、と言うわけではない。

 中には、私の目覚めのために現われてくれた方、として一定の適度な尊敬を払う人もいる。幻想上の自分より優れた人に対し、適度な距離感を保てる方もいる。

 しかし、多く目に付くのは、その人の教えべったりで、自分で歩き出そうとしない方である。

 その先生スゲー、の次元で終わっていて、自分の成長に還元されていない。

 これは、その先生にも責任のある場合がある。

 祭り上げられる中で、気分良くなってしまい、流されてしまう場合。

 弁護するわけではないが、スピリチュアル界で自分から意図的に、他者より優れた自分としてカリスマになろう、などという人はほぼいない。 

 自分でなろうとするのではなく、他者からの扱いや反応の中で自然に「ズラさせる」場合がほとんどだろう。

 つまり、依存させなくするのが本来の目的であることを忘れ、無意識に依存させる、という罠があるのだ。

 


 話がズレたので、戻そう。

 むちゃくちゃ優れた人がいる、という前提は、裏を返せば「比較して、劣った人間がいる」という前提を、強化している結果になるのである。

 ですから、こういうことが言えます。



●優劣は存在しない。すべての価値は同一であり、中立。



 この考え方がスタンダードじゃないから、今の世の中になっている。

 質問者の発するような質問が、生まれてくる。

 一定の傾向のものに対して良いと決め、そうでないものはそのままではいけないのだ、良いとされているものを目指す姿勢を見せなければならないのだ、という世界をつくったのである。

 それが、尾崎の言う『大人というやつらがつくってしまった世界』なのだ。

 尾崎は、言い方は適切でないかもしれないがスピリチュアル的資質があった。センスがあった。だから、皆が当たり前とする、良しとする世界に対して『気持悪い』と思った。実際、そのカンは当たっていたわけだ。



 本来、すべての存在はあるがままにある。

 何かをしたとか、しなっかったではない。

 存在そのものが、すでに完全。

 だから、その上で何をするかなんて、趣味の世界。楽しみの世界。

 そこに、何の否定も価値判断もない。

 それが、本当の世界。

 だから、まずは質問者への答えから先に言ってしまおう。



●悟るのに、魅力的な人物になるのに苦労は要らない。

 何かを無理して、乗り越える必要もない。

 何の犠牲も代償もなく、あなたは豊かに、そして魅力的になれる。



 努力しないと、いい人間になれない。

 苦労をしないと、深みのある、魅力のある人間になれない。

 そんなの、ウソです。

 人はみな、神であり、宇宙の創造主である。

 そのあなたが信じることはそのまま、あなたの宇宙の法則と化す。



 それが真実だから、皆が従っているんじゃありません。

 あなたが親や社会から教え込まれたことをそのまま真実だと信じているから、それがあたかも真実のように格上げされてしまっただけです。

 これを言うと、不思議と怒り出す人が出てくる。



「何だと!

 苦労なんて、努力なんていらない、だと!

 それじゃあ、私が今までしてきたことを否定するというのか?

 私が尊敬するあの先生が、どれだけ苦労をしてきたか。

 その先生と、その辺にいるヤツらと価値が同じだ、と言うのか?」



 はい、そう言うんです。

 何か、問題でも?

 努力や苦労がいらない、という話をすると、顔をしかめるのはたいてい年長者である。でもはっきり言いまして、エゴの仕業です。

 努力した人しか幸せになることを許さないなんて、何て心が狭いんでしょう!

 他者から認められるような登竜門をくぐらないと、あなたらしい輝きが放てないなんて、なんてセコい宇宙なんでしょう!

 この、実力主義社会が当たり前だと思うから、私の言うことに腹がたつ。

 怒る人は、きっと何かを守りたいんだよね。

 それが守れないと、自分が損した感じがするからだろうね。

 そしてその「守りたい何か」って、きっとそれほど大したものじゃないと思う。



 結論は述べたが、補足しておかないと誤解を生むことが二つある。

 ひとつ。カルマの問題と陰陽のバランスの問題。

 過去生の問題、つまり引きずってきた魂の課題がある場合。

 とある覚者が壮絶な苦労の末に今のようになられた、という話もこう捉えよう。



 その人物も最初、悟りに到達されていなかったので、カルマ通りの展開になった。

 しかし、悟りを得られて、もうカルマの支配の正体を喝破した。

 つまり、カルマなど本当には存在しない、ということ。

 ないと分かったのだから、もうそれには悩まされないし、支配を受けない。

 だから、正確にはこうだ。



●覚醒からは遠い状態、カルマが本当はないという確信に至らないうちはその架空の真理の適用をうけてしまい、結果として苦労や大変な経験を乗り越えてからすごくなった、という現象として見える。



 ……とまぁ、そういうことだ。

 例えれば、こういうことである。

 本当は来週試験などないのに、あると勘違いすれば必死で勉強をする。

 つまり、試験があるというニセ情報に踊らされるわけだ。

 でも、学校へ行って友達に確認したら、試験なんかない、と聞かされる。

(これが、スピリチュアル的情報を腑に落とせた状態。)

 したらば、なぁんだアホらし! ということになって、必死の勉強をやめる。

 


 覚醒したら、努力も苦労もいらない。

(正確には、心から努力や苦労を「したい」と心が欲する場合は別。要は「望まないなら必要ない」)

 誤解を少なめにする、遠まわしな言い方に変えると——

 努力、とか苦労、とかいう言葉で定義されるものがなくなるのだ。

 つまり、人が苦労だと言うものを苦労だと思わない。

 努力を努力と思わないのだ。



 また、陰陽のバランスの法則もかかわってくる。

 この宇宙は、極端というものをいつまでも放っておかないようになっている。

 振り子が大きく片側にふれたら、必ず反対側にも揺り戻しが起こる。

 つまり、めちゃくちゃ悲惨な、苦痛なことがあったら、その逆に行こうとする。

 逆に陽的な、幸せな時間がかなり続いたら、バランスを取ろうとして逆が起こる。

 今言ったことが一生のうちで波として発生することもあれば、ある過去生では一生貧乏で悲惨、ある過去生ではお金持ちで平穏、というふうに、転生における幾つかの生涯にまたがる場合もある。

 そういったことが理由で、不可抗力として苦労や貧乏を通らされる場合がある。

 この問題に関しても、自分が神だという自覚を取り戻して後は、コントロール可能(ただしゲーム内なので絶対成功するわけではない)である。

 過去記事でも触れたが、反比例のグラフのように——


 

●陰陽の陰の方を、ゼロではなく限りなくゼロに近づけることで、陰陽のバランスを無視しないで済む。


 

 ……という技が使えるから、問題ではなくなる。



 では、ふたつめ。

 それは、喜びの問題。

 努力という言葉を、ここではどういう意味で使っているのか、というと——



●自分が心から楽しんでしたい、というわけではないが、必要だと教えられまた自分もそうするべきだ、と思うからあえて行う行為



 ……というふうに定義している。平たく言えば、別にしたいわけじゃないけどやっとかなきゃね、という行為である。

 世の子どもは、塾に通わされ、何かの習い事をさせられる。学校によっては、クラブは自由参加ではなく、必ず何かひとつに属しなさい、と強制される所もある。

 私の通った中学校などもそれで、どれもイヤなのにどれかマシなのをあえて選ばなければいけない、という苦しみを味わうハメになった。

 そうして、みんな大人の言う通りにコントロールされる。

 実際、コントロールしている大人もまた、コントロールされているのだが……

 そこに、尾崎の言う「壊して回りたくなる世界」「反抗したくなる世界」が生じてしまう。

 


 私が言う「努力なんかいらない」というのは、「心からしたいことを、情熱を持って必死でする」という意味なのだ。

 したくないことを頑張らなくていい。

 心からしたいことを、情熱をもって、必死でやることは、それは喜びだ。

 私は、そういったことに対して努力、という言葉を使いたくはない。

 でも、あえて好きなことを人から言われもしないで情熱をもってやることを『努力』と呼びたいのであれば……そう。努力はあっていい。



 筆者もリストラを含め、発達障害の悩み、数々の真理探究の試行錯誤を経て、今がある。でもそれは、自分がこの書で言っているような情報を知らなかったため。

 知らなかったから、それまでの思い込みが見事に機能したのだ。

 カルマが機能し、悟りの前段階に試練や苦労が来た。

 でも、この情報を今読んだ皆さんは生かせるんですよ。たった今から。

 自分は宇宙の創造主だ、神意識だ、という本当の自分像を取り戻せる。

 すると、カルマが幻想世界において囚われている人だけに吹っかけられるルール (債務)だと分かる。

 神であるあなたの意思が強く決めれば、あなたの確信が反映した現実を生み出していくことになる。

 個人差はあるが、意に染まぬ努力を強いられるシチュエーションが、格段に減る。



 そんなの減るわけないじゃないですか!

 自分の意識の在りようを変えただけで、現実が動きますか?

 いやぁ、実に現実離れした考え! 夢想家ですね。地に足がついていませんね!

 ……そう言う方もいらっしゃるかもしれない。

 そういう方へ、一言。


 

●現状をダメだ、と否定していると、どんなに努力を積んでも水の泡ですよ。



 まずは、知らなかったとはいえ自分が生み出した、すでに出来上がってしまった環境や状況に関しては、もう認めて受け入れるしかない。感謝するしかない。

 その上で、今自分にできること、次に生かせることをするしかない。

 今後は、喜びに生きるぞ! と決めるのだ。

 基本は、自分の魂が本当にしたいことをする。

 状況によって、どうしてもしたくないことをしなければならない場合、少しでも楽しくなる工夫をする。

 トム・ソーヤが親からカベのペンキ塗りを命ぜられた。

 本当はイヤでイヤで仕方なかったが、とっても楽しそうにやってみた。

 そうしたら、友達が何だかうらやましがって、自分にも手伝わせろと言ってきた。

 頭のいいトムは、すぐにはさせなかった。

 ああ、何て楽しいんだ!僕は本当に幸せ者だ~

 それでじらされて、友達の欲求は頂点に…

「トム、どうかお願いだから手伝わせて! 今度、何かあげるから!」

 で、やっとOKを出す。

 トムは人の手を借りることができただけでなく、不相応な報酬すら得た。



●楽しみから、喜びから行うことは——

 うまく回っていく。


 

 尾崎豊が、最後まで疑問視した世界。

 それは、一面的な価値判断が人の優劣を決め付ける世界。

 社会に認められる、一定の努力を積んだ者だけが賞賛される世界。

 それに適応できないものが、はみ出し者・クズ呼ばわりされる世界。

 したくもないことを、世間で決まっているというだけの理由で、すべての人間に押し付けてくる社会。そしてそれを考え直したりする発想すらなく、ロボットのように現状維持に熱心な大人たち。



●努力をするから、あなたは素敵なんじゃない。

 苦しみを克服したから、あなたに魅力があるんじゃない。

 あなたは、あるがままですでに素敵であり、魅力的。

 あえて苦しみや貧乏、病気などを乗り越えた経験などなくても——

 喜びを追求する行為こそが、はるかにそれらに勝るのだ。



 長くなったが、それでは今日のまとめに入ろう。



①魅力ある人物がいる、ということはそうでない人がいる、ということ。

②実は、その優劣という価値判断をこそ、捨てねばならない。

③それがあるから、得をする人と損をする人が出てくる。

④極端に誰かが素晴らしい、と思うことは極端に誰かを嫌う、というのとコインの裏表である。

⑤すべての存在は、その価値は同一であり、中立。

⑥立派な人間になるために苦労や修羅場経験がいる、というのは幻想世界が編み出したウソ。

⑦あなたがそう信じるから、そのような現実を見るだけ。

⑧カルマの問題、陰陽のバランスの法則によって、不可抗力的に試練苦労が来る場合もある。

⑨しかし、宇宙の真実を知りカルマの幻想を喝破すれば、その呪縛はなくなる。

⑩努力はいらない、というのは自分のしたくないことはする必要がない、という意味。

⑪自分のしたいことを情熱をもって、必死に頑張ることを努力と呼ぶなら、それはあってもいい。



 あなたも、私も売れっ子芸能人もアメリカ大統領も——

 皆、私。皆、あなた。

 あの人も素敵だけど、私も素敵。み~んな素敵!

 質問者の方が、どうかそのように腑に落とされることを祈る。

 優劣はないが、役割分担というものはあると思っている。

 それは、大事にしたらよい。

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