世間の常識にご用心!
これは、ある教会の牧師の体験談。
牧師夫妻に、可愛い赤ちゃんが産まれた。
近所の人々は、口々に 『あらまぁ、かわいい赤ちゃんだこと!』と言って、可愛がった。でも、散々にほめた後で、こういうことを言うのである。
『でも、可愛いのは今のうちだけよ。これが2,3歳になってごらんなさいな! 最初の反抗期で、大変ですわよ!』
でも、この牧師には、ひとつ自分で決めていることがあった。
世間がどうでも、うちの子には関係がない。
反抗期にはならない——。
それは、無理くりに「ならない、ならない……」と脅迫的に自分を暗示にかけるようなものではない。言わば、サラッと「ならないものだ」と、自分で決めて、宇宙に宣言したのである。
さて。
実際に、その子は2歳になっても3歳になっても、特に親を困らせるようなことはなかった。
それから数年後。
今度は、また周囲の人々がこういうことを言い出す。
『お子さんが思春期になってごらんなさいな。もう、親の言うことを聞かなかったりして大変よ?』
どうも、世間はよっぽど『子どもに反抗させたい』らしい。
科学的なことで、あるいは心理学的なことで「反抗期なるものがある」と主張したい人はいるかもしれない。
でも、ゴメンなさい。そんなものは本来、宇宙にはないのです。
世間が、もっといえば『あなたが創造した』のです。
で、実際にこの牧師さんの子ども、中学生になっても高校生になっても、この牧師さんいわく——
●その時分を振り返って困らされたことや、盾突かれた記憶がまったくない
……のだそうだ。そして現在、4人の子どもさんたちは上が二十歳、一番下が小学校高学年だが皆さん、同じように反抗期もなく、一家幸せに暮らしている。
さて、新時代のスタンダード。
●あなたの外側に「法則」というものがあって、従わねばならないのではない。
あなたがその「法則」を作り出しているのだ。
先ほどの例で言うと——
反抗期がある、ということを多くの人は世間から情報として習い覚えていて、「そういうものなのだ」と無防備に受け入れる。
だから、それがその人にとっての真実となる。
だから先ほどの牧師さんは、他人なんて関係ない自分の「法則」を作り出した。
うちの子に反抗期なんて関係ない、という。
だから、世間には逆らえない物理的法則があって、それはどうにもならないんだ、というのは単なる思い込みである。
「ケンカするほど仲が良い」と、世間では言われることがある。
これなども、ウソ。
真理でも法則でもないものが、人々の思い込みによってあたかも本当であるかのように「昇格」してしまったもの。
はっきり言おう。
●本当に仲が良いと、ケンカしない。
それとも、こんな当たり前のことも分からないのだろうか?
要は、皆さんなかなか人と仲良くできないので、そんな自分を弁護し、慰めるために作り出した屁理屈である。
厄年、という考え方がある。
平安時代にはすでに存在した考え方らしいが、正確な起源は分からない。
また、科学的根拠もない。でも、これは現代人の心にも根強く残ってる。
「ああ、今年は厄年だからなぁ……」
そんな言葉が、会話の端々でもよく出くる。
なぜそんな非科学的なことが信じ続けられてきたのか? そのわけは簡単だ。
実際にたくさんの人に「厄年に良くないことが起った」からだ。
そういう多くの実績(?)が、この迷信を支え続けているのだ。
現実と違うならば、これほど長くは語り継がれない。
皆が「厄年は本当に厄年だ!」という体験をしてきたから、生き残っている。
ここで、新時代の真理から厄年の不思議を暴いてみよう。
世の常識では——
①厄年という考え方があって、実際に多くの人において厄年に悪いことが起きている
②だから、やっぱりこの概念はバカにできないものなのだ、と信じる
そういう流れだろう。
しかし、今日のメッセージが明らかにするのは、事実はこの逆だということ。
実際には、次のような流れになっている。
①周囲からの情報を素直に受け取ることにより、厄年という考え方を心に受け入れてしまう
②心で受け入れたので、その通りのことが実現する(信念が働いた)
現実がこうだから私たちはこう信じる、という常識は、事実を的確にとらえてはいない。
そうではなくて、私たちが心で受け入れ認めたこと、いつも思い巡らせていることが力をもって現実になる、というほうがよっぽど現実をとらえた考え方だ、と言える。
はっきり言いまして、厄年などというものはない。それはそう信じた人だけが、そういう考え方を受け入れた人だけが、その通りの現実を体験するにすぎない。
厄年は、万民に適用される真理ではない。
他に例を挙げれば、4は日本では不吉な数字だが、海外では文化が違うので、4を何も気にしない。
一方、キリスト教文化圏では6や13が不吉としているが、東洋人はまったく気にしない。
「13日の金曜日」 「オーメン」 という映画が有名になって、最近ではやっと6や13が不吉という考え方がポピュラーになりつつあるわけだが……
世の中で「これって、こういうものよね」と言われているほとんどのことは——
「その人がそう思うからそうなるだけのこと」に過ぎない。
だから、そういう情報に過度に振り回されるのではなく、「自分はどうであることを望むのか」ということのほうを大事にしていくべきではないか。心に恐れを抱けばそれを現実に見せられることになり、幸福や希望を心に抱き続ければ、それが現実になるのだ。
そういう考え方からいうと、一番迷惑な存在はテレビである。
あるいは、健康に関する話題やニュース。
●~をすれば頭が良くなる! ~を飲めば~に効く!
権威のある筋からそう言われれば、「そうかなぁ」と思う。もし、それが本当に効いたとすれば、あなたが心で素直に受け入れたからだ。ただのビタミン剤でも、嘘をつかれて「これは特別な特効薬です」と言われれば、本当に良くなってしまう、というのもそういうことだ。
昔、『たけしの本当は怖い家庭の医学』 なんていう番組があったが——
知らなくて済んでいたことも、「こういう怖いこともあるんだ! もしかして、私も……」などと、人に思わせる。
不安をあおることで、それを受け入れ自分の宇宙の真理としてしまう人が増える。
でも、ひとつ補足しておかなければならない。
信念が現実をつくると言っても、何でもかんでも思い通りにはならない。
例えば、「山よ動け!」とやっても、どうですか?
山はシーンと静まり返ったままのはず。
見方を変えてみよう。
●あなた、山を動かせたからといって楽しいですか?
魂の底からの喜びがありますか?
それをすることで、誰かの役に立つでしょうか?
誰かに愛を配ることができる行為でしょうか?
山よ動け、というのは恐らく、本当にくだらない理由のはずである。
私たちはもともと、生身の人間ではなく、人間というゲームキャラを動かしている別次元の超意識である。
その存在は絶対であり、完全であり、時間という概念もないし場所という概念もない。失敗とか成功とか喜怒哀楽とか、冒険とかロマンスとか、ない。
ただ、完全として『在る』のである。
それでは退屈だから、完全な存在はあえて自分を限定した。
限られたことしかできないように設定し、そこで成功するか失敗するか。ゲームを始めた。
それが、この三次元に見える世界。私たちがいる宇宙だ。
願って一瞬で思い通りになるのなら、この世界に生まれる必要がないのである。
こんなところ来なくてよろしい、というものだ。
ワクワクして、失敗を乗り越えて、様々なプロセスを経て、「やった~!」という感情、つまり喜びを味わいたいがために、この世界を開いた。
だから、いくら人間意識としてのあなたが山よ動け~重力よなくなれ~と願ったところで、そんなことがまかり通るゲームは面白くないので、プレイヤーである超意識に拒否られるだけである。
そもそも、決まりごとだらけの宇宙で「どこまでできるか?」というゲームをしにきたので、その前提(ルール)を過度に壊すような願いは、いくら願ってもびくとも動かないのである。
なぜなら、あなたがゆるしても、「本当のあなた」がゆるさないから。
ゲーマーが、「無敵モード」でずっとゲームを楽しめると思いますか?
一定の制限があって、困難だから面白い。
だから、ゲームキャラとしてのあなたが、怖いのいやだ、無敵がいい、と思おうが関係ない。本当のあなたは、実はあなたの顕在意識が嫌がっているある状況を「楽しんで、観じている」のである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます