第4話:秘薬

 怪物たちによって破壊された荷馬車から、包帯などの治癒道具を引っ張り出し、懸命に怪我人たちの治療をおこなうナナ=ビュランたちであった。


「頑張るッス! あんたが思っているほど怪我はひどくないッス! ナナ! 何を泣いているッスか! 泣いている暇があるなら、アンドレィさんの手を力強く握ってやるッス!!」


 シャトゥ=ツナーは一刻を争う事態なのに、涙を流して、手が止まってしまっているナナ=ビュランを一喝するのであった。シャトゥ=ツナーが治療をしているアンドレィという女性は鎧ごと腹を掻っ捌かれて、裂けた腹から腸が飛び出していたのである。


 シャトゥ=ツナーは飛び出した腸を水筒の水で洗った後、無理やり腹の中に押し込み、針と糸でその裂けた腹を縫い合わせる作業をしていたのである。アンドレィは血を失いすぎたせいか、顔色が青ざめており、唇は紫色に変色しつつあったのだ。


 ナナ=ビュランは流れる涙を右腕で拭い取り、無理やり堰き止める。そして、アンドレィの右手を両手でしっかりと優しく包み込み


「アンドレィさん、頑張って! シャトゥは臆病者で剣士としては2流だけど、怪我人の治療だけは1流よっ! きっと助かるから、気を確かに持って!」


 ナナ=ビュランは自分に言い聞かせるように、アンドレィに声をかけ続けた。それは祈りにも似たかけ声であった。アンドレィの顔からはどんどん生気が抜け落ちていく。彼女の眼はうつろで、空を見続けていた。


(死なないでっ! あたしのためにこれ以上、誰かが死ぬのは嫌なのっ!)


 ナナ=ビュランは必死に祈った。彼女の両手を握りしめ、神に彼女を助けてほしいと願った。零れ落ちそうになる涙を必死に堪えて、彼女に声をかけ続けたのである。


「ふむっ……。あまり状態が良くないな……。キミ、これを飲みたまえ」


 そう言うのは、マスク・ド・タイラーであった。彼は黒いパンツの中をもぞもぞとしだし、そのパンツの中から、一本のガラスの小瓶を取り出したのである。そして、その小瓶の蓋をキュポンッという軽快な音を立てて外し、その中身である紫色の液体を彼女に飲ませようとする。


 だが、彼女はすでにその小瓶の中の液体を飲むほどの力は無かったのであった。マスク・ド・タイラーが、小瓶の口を彼女の口に押し当てるが、彼女はだらだらとこぼしてしまう。


「くっ……。すでにここまで衰弱しているとは……。しょうがない。女性に同意なく、唇を奪うのは、自分の流儀に反するが、そんなことは言ってられないなっ!」


 マスク・ド・タイラーはそう言うなり、小瓶の中身を自分の口に流し込む。そして、自分と彼女の唇を合わせて、強引に紫色の液体を口移しするのであった。アンドレィは死の間際にあるというのに、キスをされたことに喜びを感じていた。彼女は死ぬときは愛する男性に優しくキスをされながら死にたいという願望を持っていたのである。


 アンドレィは今までの死への恐怖による震えが嘘のように吹き飛ぶ。紫の液体が口の中から喉へ、喉から胃へ流し込まれる感触を覚えると同時に、失っていた身体の熱が胃から噴き出すような錯覚に陥るのであった。


 マスク・ド・タイラーが彼女の口の中に紫色の液体を全て流し込んだあと、唇をそっと離す。先ほどまで紫色であった彼女の唇には朱が走り始め、青白くなっていた頬が紅潮しはじめたのである。


 アンドレィの身体に熱が戻ってくる感触は、彼女の右手を両手で握っていたナナ=ビュランにも伝わっていたのである。ナナ=ビュランは段々と熱を取り戻していくアンドレィの右手に驚きと共に、堰き止めていた涙が一斉に溢れてしまうのであった。


 彼女は助かる。そんな確信がナナ=ビュランの心を埋め尽くす。マスク・ド・タイラーが、アンドレィに何を飲ませたのかはわからないが、きっと、彼女は一命を取り留めるだろうと何故かそう思えてしかたなかったのであった。


 マスク・ド・タイラーは再び、黒いパンツの中に右手をつっこみ、もぞもぞと何かを探り始めるのであった。そして、またもやガラスの小瓶を取り出し、その中身を今度は塞ぎ終わったばかりのアンドレィの腹にかけるのであった。


 するとだ。腹からダラダラと流れ出ていた血はすぐに止まったのである。この現象には傷の縫合を行っていたシャトゥ=ツナーも驚いてしまう。


「いったい、その小瓶の中身は何なんッスか!? 出血を止めるような薬液なんて聞いたことないッスよ!?」


「ああ、これは生きた虎の精巣から絞り出した精液と、とある薬を混ぜ合わせた逸品だ……。どうだ? シャトゥくんもひとつ飲んでみるか? 見たところ、身体のそこら中に擦り傷や打ち身があるようだからなっ!」


 精巣から絞り出した精液と言われて、シャトゥ=ツナーは自分の金玉がキュッと縮み上がりそうな気分になる。マスク・ド・タイラーの言う通り、先ほど、自分が乗っていた荷馬車が横転した時に、身体のあちこちを打ち付けてしまい、身体のそこかしこがひりひりとする。しかし、精液という言葉を聞いて、それを飲みたいか? と問われれば、男であれば、誰しもが嫌がるであろう。


 むろん、虎や熊の肝臓や精巣は貴族連中には滋養強壮と精力旺盛のための薬となるので、高値で取引されている。だが、食べるのは調理された精巣であり、精液そのものではない。精巣を食べることを連想するだけで、ゾワゾワッとした感覚が下半身から疼きだしそうだが、悪食の貴族でも精液はさすがに飲まない。


 シャトゥ=ツナーはマスク・ド・タイラーの提案を丁重にお断りすることになる。だが、ここで興味を持ってしまった人物がいた。


「セーソーとかセーエキとかよくわからないけど、怪我に効くのよね? あたし、荷馬車が横転した時に、背中を思いっ切り打ち付けて、ビキッって、さっきから痛むのよね……」


「ほう……。それはいかんな。背中の痛みは闘いで戦況を左右するほどに影響する。さあ、これを飲むと良い!」


 マスク・ド・タイラーはシャトゥ=ツナーに渡す予定であったガラスの小瓶をナナ=ビュランに手渡すのであった。ナナ=ビュランは手渡された小瓶の蓋をキュポンッという音を立てて開ける。そして、小瓶の口をクンクンと匂う。


「なんか、栗の花みたいな匂いがするんだけど、これ、飲んでも大丈夫なの?」


「ハーハハッ! 匂いはいかがわしいかもしれんが、効力は抜群だっ! さあ、グイっと一本、飲んでくれたまえっ!」

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