第133話 聖女様は教団を導きます

 教皇の顔は真剣そのものだった。

「若い頃、自分は神のご意向を体現しておると思っていたのは過信であった。儂は立身するにつれ、力を持つにつれ……自分が本当に女神様の思し召しに沿っておるのか、どんどん自信が無くなっていった」

 ケイオス七世は脱いだ司教帽ミトンを両手で持って眺めた。


 ゴートランド教団至高の地位の冠である、五角形の豪奢な帽子。


 それをじっと眺める老人の顔は今にも泣きそうになっている。

「儂は、これをかぶるに値する人間なのじゃろうか……儂のやり方は、本当に女神様の思うように教団を導いているのじゃろうか? 凡愚である儂には、もはや何もわからぬ」

 今までの労苦を思い返すように、ケイオス七世は深く、重い息を吐く。

「のう、聖女よ。女神様は何を望んでおられるのじゃろうか? ……我らは、本当に正しい道を進んでおるのじゃろうか?」




 ゴートランド教団でもっとも老成し、最も徳の高い神官であるはずの教皇から縋るような目を向けられ……いつの間にか手すりに腰かけていた聖女は、慈愛のこもった微笑みを浮かべていた。

「ジジイも一応神官なんだなあ……あれだけ聖心力が出せたのか」

「一応は余計じゃ」

「いいじゃないか、一応で。思い悩んで女神ライラに泣きついてるから、神のしもべでいられるんだろ? 自分で自分を偉くしちゃった陰険ジジイヴァルケンはあのとおりだぞ」

「ヤツよりは儂の方が、適性はあるのかのう……」

「アイツが無さ過ぎかもな。ありゃあ借りた権力を自分の力と勘違いするタイプだ。取締官でもやるのがいいところだよ。上に立つ器じゃない」

 ああいうタイプ、市場の管理人でよく見るのだ。弱者をいびるヤツ。

 ココは勢いをつけて床に飛び降りた。

 思いがけず長居してしまった。今日は修道院マルグレードの夕食が牛乳を使った鶏肉のシチューだから、絶対時間までに帰らなくちゃならない。

「ジジイ、おまえ聖典に書いてあることを思い出せるか?」

 聖女に不意を突いた質問をされ、教皇は目をぱちくりさせた。

「うむ? まあ、一字一句まで確実に暗誦せよと言われると自信は無いがの」

「だいたい覚えてりゃ大したものだ。私はこのあいだライラに言われたことが気になって、初めてちゃんと読んでみたんだけどな?」

「待て聖女。おぬし今年で就任九年目に入る筈じゃの? それにシスター・ナタリアが『聖女が聖典の筆写を五冊も仕上げた』と言うておったぞ?」

「おいおいジジイ、私にとっては聖典は売り物だぞ? 私は商売道具を私用に流用しない主義だ」

「おぬし、神官の仕事をなんじゃと思っておる」


 斜め読みしたうろ覚えの聖典を、ココは思い返す。

「草創記。まだ神の子でしかなかった人間が“神の園”を出て行った話だ」

「おお、それはまた最初じゃな。『女神に守られていた“生命の揺りかご”から、独り立ちを志し人間が出て行った』……人間が他の生き物と同列から、知恵を持った無二の存在になった説明の……」

 ココに言われて、頷きながら内容を思い出していた教皇が不意に固まった。

「いや待て聖女。そこ、聖典の一番頭のところなんじゃが!? おぬし、そんな序文さえ頭に入って……」

「そんなことに一々引っかかるな! 必要な時に読めばいいんだ!」

 聖女様は必要になってから調べる逆引き派。


 大事なのはココが覚えているかどうかじゃなくて、そこの記述。

女神ライラは世界全体が変な方向に曲がりそうだったら教えてくれるんだって。創造神として、世界の成長を見守っているんだそうだ。ただ、人間は」

「人間は?」

「好きにしろと」

 ココは軽い様子で肩を竦めた。

独り立ち成人した子供に、過保護にあれこれ口出ししないって事だな。良い方向に行くのも、悪い方へ転がるのも、自分で悩んで自分で決める。それが“神の園”を出ていく時に約束したことなんだろ?」

 ココの言葉を、教皇はしばし口を空けたり閉じたりして反芻していた。

「……そうか。そうであったな……答えは最初から聖典に示されていたのか」

 教皇は再び手に持つ司教帽に目をやった。

「どうすればいいか、女神おやが答えを教えてくれれば人類は何も考えなくても暮らしていける。じゃが、それでは人間はいつまで経っても大人にならぬと……」

「そういうこと。神官が持つ聖心力は、甘やかしだな。人知を尽くしてもどうしようもなくて、女神に泣きついて貸してもらう“奇跡”が聖心力ってわけだ」

「なるほど……基本は、自分のことぐらい自分でやれと。……ははっ、女神様も手厳しいことよ」

「うむ。その辺り、自立した大人な私にとっても頷ける話だな」

 教皇は聖女オコサマ戯言ざれごとを無視して、彼方に見える宵闇に沈みそうな王宮を眺めた。

「……聖職者われらや王族の責任は重いな。日々の暮らしに必死な庶民に代わり、彼らに食わしてもらっておる我々が道を見定めなければならぬ」

「そういうこったな」

 階段に一歩踏み出しかけた聖女が意味ありげに笑って見ている。

「それで、ジジイ……?」

 しばしココと見つめ合った教皇は、ふっと笑うと一度はずした自分の冠を丁寧にかぶり直した。

「コレが欲しくて何十年も醜くあがき、ライバルを何十人と蹴落として掴んだ儂じゃ。重さに気づいて今さら投げ捨てては、それこそかぶる資格が無いわ」

「そうだな。地位にふさわしい自分は、自分で努力して作るものだ」

 ココは自分の胸をビシッと親指で指した。

「私みたいにな!」

「聖女よ。寝言は寝て言え」

「調子が戻ってきたな、ジジイ」



   ◆



 シチューが逃げる! とか叫んで走っていった聖女と別れ、地上へ降りてきた教皇は中庭でふと足を止めた。

 小さなこの中庭には、東方からもたらされた白い小花が咲く木が植えられている。大陸会議と選挙にかまけ、その木が満開に咲き乱れている事に今やっと気が付いた。




 もっとも、教皇が足を止めたのは花に気が付いたからではない。


 そこに人がいたからだ。

 特に枝ぶりが立派な一本の下に、教皇庁執事長を務める老司教が一人立って花を眺めていた。

 時折舞い散る薄紅色の花びらを無心に眺めている様子だが……。

「執事長。おぬしが花を見ているなど珍しいの」

 彼の役職は王宮で言ったら官房長官にあたる。

 いつも忙しく立ち働いているか、しみじみ茶を飲んで身体を休めているかしか見たことが無い。

「おお、これは教皇聖下。なに、先ほど通りかかったら今年も咲いている事に気が付きましてな」

「なんじゃ、おぬしもか。今年はヴァルケンめに振り回されたからな」

「ははは、まさに」

 気恥ずかしそうに笑う司教の横に立ち、教皇も頭上の枝を振り仰いだ。


 多数の花弁がまとまって美しく咲き誇る様子や、いつ舞い落ちるか分からない花びらを待っていると確かに時間を忘れて見入ってしまう。

 二人並んで黙って眺めていると、不意に執事長が語り掛けてきた。

「のう、トニオ……ヴァルケンのおかげで思い出したのだが」

「うむ?」

「我らがゴートランドは、こんなに平和なところじゃったかな?」

「……グランツ? なんじゃ、いきなり」

 思わず執事長を見ると、向こうも花から教皇へ視線を転じていた。

「我らの若い頃……いや、ついこの間まで。教皇庁は誰もが実権を押さえるのに汲々として、常に信徒に見えない所では暗闘を繰り広げていた伏魔殿じゃった」

「それはそうじゃが……そうだな。そうだったな」

 教皇も気が付いた。

 執事長のグランツはかつて、ケイオス七世……トニオとゴートランド大司教の座を争った。負けた彼は一歩引く形で執事長に収まったのだが。


 そうだ。

 あの頃は他の大聖堂とだけではなく、教皇庁内部でも常に熾烈な足の引っ張り合いがあった。

 今の呑気な空気など、一般信徒の来ない教皇庁には無かったのだ。


「今、花を眺めてつらつら考えていたのだが……」

「おう」

「当代の聖女になってから、やたらトラブルが多くて勢力争いではなくなった気がするんじゃ」

「お、おお……確かに」

 執事長の分析に、思わず教皇も頷いた。

 

 ココ・スパイスという娘は、初めは貧民出身という点だけが問題だったのだが。

 預かっているゴートランド大聖堂では、すぐに出自など問題ではなくなった。その行動、そしてそれを引き起こす性格の方がよっぽど大きな問題点であったからだ。

 何をやらかすか分からない。

 この常識のない少女には、当たり前が通じない。

 社会の常識も教会のしきたりも、どころか女神様の威光も通用しない。

 その山猿に“聖女”という肩書のイメージを守らせるため、教皇庁の幹部たちは

どれほど苦労させられたことか……。

 気が付けば、このゴートランドで神官たちが頭を悩ます問題は……聖女一色になっていた。


「あれだけの問題児がいることで、逆に内部はそれだけに振り回されて平和になった。なんとも皮肉な話だと思わんか?」

「そうじゃな。言われてみれば……だからと言って感謝したくはないがな」

「猫を飼うと家族の諍いが収まるとは聞くが……」

「あれが猫なんてかわいいモノじゃったら、よほど我らも楽なんじゃがな……」


 二人の老人は、しばし花の下で時を過ごしていた。



   ◆



 大陸会議の間、スカーレット大聖堂の留守を預かっている司教は急な僧兵団の帰還に目を丸くしていた。

 いや、別に彼らが何の任務で帰って来てもおかしな話ではないのだが……。

「……ゴートランド大聖堂からここまで三日で!? 歩いて一週間はかかる距離だぞ!?」

 半分以下の日程で急いで帰ってきたとか言う僧兵団は、疲労の色は濃いが未だに意気軒昂であった。

「はっ、その通りです! 大司教猊下が大事な手紙だから急いで届けよと言うので、我ら全速で帰ってきた次第!」

「全速って……どうやったら、たった三日で帰って来れるのだ!?」

「ハッハッハ! 司教猊下ともあろう御方が何をおっしゃられるのですか」

 そんなバカなという司教に、ダマラム団長は彼らの秘訣を誇らしげに語った。

「良いですかな? 論理的に考えるのです」

「ああ」

「普通の者が一歩踏み出す時間で二歩歩く。そうすれば同じ時間で倍進めるではありませんか!」

「……はっ?」

 そのおかしな理屈を、こいつらは論理的と言うのか?

「そこへもう一つ! 通常は日中しか移動しませんが、夜も動けばさらに倍の距離を進める! つまり理論を突き詰めれば四倍の速度で移動は可能なのですぞ!」

「いや、おま……」


 それは理屈じゃない。


 屁理屈だ。


 だが、晴れやかな笑顔(いつもだが)の彼らはみじんも疑っていないようだった。

 ダマラムが丸めてあった紙を広げる。

「しかし、急いで届けたはいいものの……この手紙、白紙ですぞ? 手紙を他の紙と間違えたか? もう、大司教ったらウッカリさん」

「って、おいぃぃぃぃぃ! 信書を勝手に開封するなぁぁぁぁあああ!?」

「ハハハ! あまり細かいことを気にすると白髪が増えますぞ?」

「凄い重要なことだぞ!? 細かいことで済ませるなぁっ!?」

 ツッコミどころが多すぎて、彼らがパンツ一丁で帰ってきたことにまで気が回らない司教であった。



   ◆



 ビネージュ王都をはるかに望む丘の上に、その男の姿はあった。


 つい先日までスカーレット大聖堂宣教部長・ネブガルド司教を名乗っていた男は、遠目にも目立つゴートランド大聖堂の尖塔を眺めた。

「やれやれ、予想していたとはいえヴァルケンは何の役にも立たなかったな」

 邪魔なゴートランド教団を引っ掻き回す駒として時間をかけて用意したが、文字通り引っ掻き回しただけで終わってしまった。ヤツが教皇になっていれば、教団は今後の障害にならなかったというのに……。

「……今までの常識が通用しない聖女が厄介だな。先代までのお飾りとは違う……時期を悟った女神がを用意したか? クソッ!」

 女神への呪詛を呟く彼の姿は一瞬陽炎のように薄くなり……濃さが戻った時には、異形の者へと姿形を変えていた。

 本来の悪魔神官の姿に戻った元・ネブガルドは、手をかざして帰還の魔方陣を召喚しながら王都を睨んだ。

「あの構造改革を急ぐ王子も目障りだ。教団も王国も、弛緩した組織が急速に引き締められつつある……魔王様が復活してからでは間に合わないかもしれぬな。行動を早めねば」




 呟きが終わると同時に悪魔が姿を消した後には、どこまでものどかな春の景色が広がっていた。




◆◆◆◆◆


 第三部、これにて完結です。


 途中からギリギリまで粘っても書けなくて、ちょっと文章の出来に不満がある回があります。

 何でやる気が出ないのかと思ったら、どうも気温が高くなるとダメみたいで……後半は空調が無い家では書けなくて、書く内容よりも書く場所に苦労していました。


 自分作としてかなりの長さになってきましたが、ようやく第三部が終わって次が最後の第四部、「聖女様は危険手当をご所望です(復活の魔王編)になります。


 思い起こせば毎年書けない夏に差し掛かってきます。更新頻度がどうなるか分かりませんが……完走まで頑張りたいと思います。 

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