第3部 聖女様は役職手当をご所望です(荒れる教皇選挙編)

第92話 聖女ココ・スパイスという人

 底も見えない真っ暗な穴へ向けて、汚濁した水がゴウゴウと音を立てて流れ込んでいる。

 その汚水の奔流にぎりぎり浸からない谷壁に。

 苔とぬるぬるしたスライム状の何かがびっしりと埋め尽くした岩肌に。

 救われるべき小さき者が、かろうじて身を張り付かせて停まっていた。


 その姿を見つけた時。

 少女は手を差し伸べることに、いささかのためらいもなかった。

 



「んん……!」

 まだあどけなさを顔に残す修道女姿の少女は地面へ腹ばいになって、闇に飲まれそうなソレを何とか助け出そうと苦心していた。

 法衣が汚れるのもいとわずに身を乗り出し、必死に手を伸ばす。一刻を争う時に、服なんか気にしている余裕はない。

「なんとか……間に合って……!」


 あんな場所では少しの振れでたちまち滑り、渦巻く濁流へ飲み込まれてしまう。

 地下へと押し流されるのはあっという間だ。今見失えば、もう二度と彼は日の光を見ることは無い。

 助けられる者は、この場にいあわせた自分をおいて他には……いない。


 そう考えて使命感に突き動かされる少女・ココは、迷える子羊に向かって懸命に手を出していた。

「ココ様、無理です! 危ないですよ!」

 お付きのシスター・ナタリアが後ろでうろたえて叫ぶが、だからと言ってココは止めるわけにはいかない。今自分が助けなければ、彼はこのまま救われることなくこの世から消え去ってしまう。

「あと……あと、ちょっと……」

 ココが手をかけている出っ張りも長年日陰になっていたせいか、気味の悪い苔が繁茂してヌルヌル滑る。

 慎重に体重をかけないと、ちょっとの油断が命取りになりかねない。

 素手で苔を掴んだ感触が気持ち悪いけど、我慢して握る掌に力をこめる。手を滑らせればココも頭から真っ逆さまだ。

「もう少し……待ってて下さいね……今、今助けますから……」

「危な過ぎます! もう諦めてください! それよりも、聖女の貴方にもしもの事があったら……!?」

 ココを止められないナタリアが涙声で叫んだ。



   ◆



 聖女。


 法衣こそ一般の修道女と同じ物を着ているが、ココはただの修道女ではない。

 女神の神託により聖なる力を分け与えられた、地上における神の代理人“聖女”なのだ。

 人の身で唯一女神と対話をすることができ、女神より預けられた莫大な聖魔法・聖心力を駆使して魔を討つことができる。聖女を擁するゴートランド教団にとって、いや人類にとって何物にも代えることのできない大事な存在、聖女。

 側付きの修道女がその身の方を心配するのも当然と言えば当然だった。




 しかし。

 そんな優先順位はココが自分で決めた物ではない。



   ◆



「諦められません!」

 ナタリアの諫める言葉に、ココも叫び返した。

「あそこで……あそこで彼がぎりぎり踏みとどまれたのは、きっと神の御助力なのです! そしてそこに私が通りかかり、たまたま見つけたのも神の思し召し! ならば私には見捨ててしまうという選択肢はあり得ません!」

「そんなことをおっしゃられても……!?」

 シスターの心配と裏腹に、ココは……当代の聖女は自らに課された使命を全うするため、さらに身を乗り出した。後ろで金切り声がするが、気にしている余裕などない。


 あと二十センチ。

 ぷるぷる震える手を伸ばす。


 あと十センチ。

 身をよじってさらに身体を前に押し出す。

 シスター・ナタリアの悲鳴がさらに甲高くなった。


 あと五センチ。

 すこしでもリーチを伸ばそうと肩をひねる。


 あと二センチ。

 もう、ちょっとで手が届く。


 慎重に、かつ急いで。ココはそうっと細い指先を伸ばし、下からすくい上げるように彼に触れた。

 救助対象者はたちまち転げ落ちたが、さいわいココの指先にぎりぎりで乗っかった。ぱっと拳を握る……掌の上に、確かに固い感触がある。


 救うことができた。


 ココがほっとして溜めていた息を吐くのと同時に、甲高い靴音が響いて何人かが駆けつけて来るのが聞こえた。




「何事か!?」

「今の悲鳴はなんじゃ!?」

 特徴的な老人と青年の叫び。どちらもココには聞き覚えのある知己の声だ。

「あぁ、教皇聖下!」

 シスター・ナタリアのホッとしたような、うろたえたような叫びの後に男たちが驚くどよめきが聞こえ……すぐにちょっと小柄なココの身体が、帯を掴んで引き上げられた。

 若い司祭に捨て猫のようにつまみ上げられたココが、まともな地面に着地する。それを見届けて安心した修道女ナタリアが、腰が抜けたように石畳に座り込んだ。

 その姿を見ると、(ちょっと心配かけて悪かったかな)という気がしないでもないココだった……ちょっとだけだけど。


 法衣とあごひげは立派な教皇ジジイが、しかめっつらで交互にココとナタリアの顔を見る。

「いったい路上で何事じゃ!?」

 ここは教皇庁の建物群の間を走る路地の一つ。狭い道だけど大聖堂へ行くには近道なので、教団関係者はよく通る道だ。

 そんな所で修道女の一人が路肩の排水溝に上半身から落ちていたのだから、いきなり見れば何事だと思うだろう。しかも拾い上げてみれば……教団でも教皇と並ぶ最重要人物なのだから、余計に驚くのは当たり前だ。


 本来状況を説明すべきお付きナタリアが口をパクパクさせているけど、安堵で腰が抜けたついでに声が出てこない。心労でとてもしゃべれる様子ではないみたいだ。

 なので救出作戦で薄汚れた姿になっているココが、お付きに代わって説明してやった。

「私とナッツがここを通りかかったらな。排水溝が下水に流れ込むギリギリのところに“銀貨様”が危ないところで踏みとどまって、助けを待っておられたのだ」

 ココも無事に救出作戦を終えてホッとしたせいか、聖女ココの口調から地の言葉に戻っている。本来のココのしゃべり方は、こっちだ。

「そこで! 神の僕たる聖女の私が“銀貨様”を危地から救い出さんと」

「わかった。だいたい理解した」

 教皇は得意げな“聖女”の説明を途中で遮った。




 渋面の教皇が聖女付きの修道女をじろりと睨む。

「シスター・ナタリア。君が付いておりながら何をやっておるのかね」

 ナタリアはもう六年もココの世話係兼教育係として付いている若い修道女だ。

 貴族の家柄で品のある美貌の持ち主だが……なぜかいつも疲れた顔をしている。なぜか。

「す、すみません……私が何が起こったのか理解した時には、もうココ様が排水溝に上半身を突っ込んでおられまして……」

 しょげかえる修道女に、教皇みずからクドクドお説教。

「聖女が何をしでかすか判らんのは、お付きのおぬしが最も判っておるであろうが! もっと危機感を持って見張りなさい!」

「はいっ、すみません!」

「どこで何をやらかすかわからんのがこの“聖女”じゃぞと、口を酸っぱくして言っておるじゃろうが!」

「はいっ!」

 聖女様、身内に評判悪い。

 これでも外ヅラは良いつもりなんだけどな、とココは思った。


 教皇の説教は延々続く。

「特に落とし物には気を付けないといかん! こやつめは本能的に手が出るからの、道に落ちておったらカビたパンでも口に入れかねん!」

「はいっ!」

「まして金目のものなら絶対ポケットに入れるぞ! 聖女がネコババで捕まった姿なぞ、絶対に信徒に見せるわけにはいかんのだぞ⁉ 判っておるのか⁉」

「はいっ!」

 ほとんど赤子か犬に対する注意事項になっている。教皇に並ぶ教団最高権威のはずなのに、なんともエラい言われようである。


 そんな二人の様子を見て、散々な言われ方をしている“聖女”はけろっとした顔でポリポリ頭を掻いた。

「あんまり褒められると照れちゃうな」

「コレじゃ! とてもじゃないが本人の改心が期待できない分、周りが気を付けるしかないのじゃ!」

「はいっ! そうですねっ! ごめんなさい!」

 キレる教皇ジジイとぺこぺこ謝るシスターナタリアを見ながら、話題の中心ココは他人事みたいな様子でぼやいた。

「冗談が通じないジジイだなぁ」

「おぬしが言うと冗談に聞こえんのじゃ!」

 人間、普段からの信用の積み重ねが大事だ。




 ジジイ呼ばわりされている教皇は、かしこまるシスター・ナタリアに向かってココを縛る手真似をして見せた。 

「大聖堂に顔を出さない分には信徒に見られる心配もない。外に用事の無い時は、教皇庁の中なら紐をつないで歩いても構わぬと言ったであろう。でないと今の一件みたいに急にどこへ飛び出すかわからんぞ」

 犬か幼児扱いの聖女はただいま十四歳。普通は成人前と呼ばれる年齢である。見た目はいまだ少女だが。

「私もまさか、教皇庁の中にお金が落ちてるとは思わなかったんです!」

 聖女の行動について画期的な言い訳を言うと、修道女は涙ながらに教皇へ訴えた。

「それにココ様に紐をつないでも無駄です! お金に釣られたココ様ですよ⁉ いきなり引っ張られたら私の方が引きずられます!」

 シスター・ナタリアの言い分に、教皇ジジイ秘書ウォーレス聖女ココが同時に首を傾げる。

 ココが代表して、三人が一斉に考えたことを口に出した。

「……ナッツナタリアの方が重いのに?」




 酷い辱めを受けて号泣する修道女ナタリア(お年頃の二十歳)を置いておいて、教皇付きの司祭がホクホク顔の聖女を見た。

「しかし……なんでこんなところに硬貨が落ちていたんでしょうね?」

「誰かが落としたんだろう。何かおかしいか、ウォーレス?」

 なぜ理由が必要なのかと言いたそうな顔の聖女に、青年は周囲を指し示す。

「落とすにしても、大聖堂まで行かないと売店なんかありませんよ? 財布なんか開けるような場所じゃないはずなのに」

「そうかぁ?」

 聖女が握っていた手を開いた。小さい掌には、一枚の鈍い光沢を放つ金属板が載っている。


 表面には女神の全身像と神の加護を願う聖句。

 裏面には教皇庁のシンボルマーク。


 教会関係者なら見慣れた……というか商売道具の硬貨型の護符メダイ


 ちなみにぶっちゃけた事を言えば、メダイは彼らのゴートランド教団においては一番安価な聖具だったりする。量産品なら一発鋳造で何十枚も同時に作成でき、加工もバリ取りぐらいで済むからだ。

 王侯貴族が代々受け継ぐ黄金製で宝石満載とか言う一品物ならいざ知らず、聖女が握っている最下級の品なら大聖堂の売店で銅貨三枚で売っている。

「……」

 自分がマジ命がけでお救い申し上げた“銀貨様(本物なら銅貨四十八枚相当)”の正体を確認した聖女ココは、心行くまでそれを眺めると……石畳に叩きつけた。

「紛らわしい物を落としてるんじゃない!」

「ココ様!? それ聖具!」

 慌てて止める修道女に、青筋を立てた聖女が怒鳴り返した。

「私が欲しかったのは銀貨だ! こんなメダイ一枚じゃないやい!」

「聖女がそんな事を言わないで下さい!? 女神様のご加護がこもった大事な護符ですよ!?」」

「そんなに大事な代物なら聖職者が落としたままにするな! 文句は間違うような物を落としたアホに言え!」

 教皇庁の狭い路地に、少女の怒声が響き渡った。


 ココ・スパイス。十四歳。

 職業、ゴートランド教 第四十三代聖女。

 マジもんで商売として聖女をやっている守銭奴である。



   ◆



 怒りを発散したココは、少し落ち着くと投げ捨てたミダイを拾って埃を払った。

 手荒に投げた直後に丁寧に拾う上司? を見て、ナタリアが不思議そうに尋ねた。

「どうするんですか? ココ様」

「うん、カッとなって投げ捨てたけど……よく考えればこんなクズ鉄でも欲しがるヤツはいるかもしれん。一応拾っとこ」

「聖女がなんてことを言うのですか……」

 思わず額に手を当てたナタリアが漏らした一言に、ココは指を鳴らして彼女のグッドアイデアを賞賛した。

「ナッツ、それいけるな! 聖女御手回り品のミダイとか言えば、ロリコンの金持ちが金袋を積んで欲しがるかもしれないぞ!」

「なんでそんな話になるんですか⁉ もうやだあ……」

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