第30話 聖女様は新入りに教育的指導をします
上品な家庭で“女の子であれ”と育てられた場合、蛇やカエル、虫などといった生物を好きな少女はほとんどいないだろう。触るどころか見るのも嫌だという者も多い。
「ギィヤァァァァアアアアアアアッ!」
だからフルメンバーで歓迎会を開いてくれた彼らを見て、テレジアが淑女らしからぬ叫び声をあげるのも無理ない話ではないだろうか。
「な、な、なぁぁぁ……ヒッ!?」
自室の床を動き回る両生類に恐れおののいていたテレジアは、つい今まで自分が寝ていたベッドに何匹も蛇が蠢いているのを見て喉が凍り付く。そして灯りを目がけて虫が飛んでくるのを見て、完全にパニックになって絶叫した。
「ヒィィィイイイイイイッ!?」
修道院どころか大聖堂にまで響き渡るような悲鳴を上げてテレジアはやみくもに逃げ回り、扉にぶつかって初めて外へ逃げることを思いついた。
急いでドアノブを握る。
が、開かない。
「なんで!?」
いくらガチャガチャ廻しても、鍵がかかったような扉はピクリとも動かない。
「誰か! 誰かいないの!? 開けて! ここを開けてよ!?」
テレジアがいかに扉を叩こうと、出せるだけの声で叫ぼうと誰も駆けつけて来ない。両隣の部屋にだって他の修道女が住んでいるはずなのに、起き出す物音一つ聞こえない。
まったく外から反応がないことに絶望したテレジアは、反対側に窓があることを思い出した。
自宅のサンルームより狭い部屋をこけつまろびつ時間をかけて横断したテレジアは、急いで窓を開いて叫ぼうとした。
が、開かない。
鎧戸は閉めておらず、掛け金を外したらそれ以外に錠などないのに……なぜか窓はピクリともしない。
「ちょっと、嘘でしょ……こんな馬鹿な事ないわよっ!?」
力いっぱい窓を叩いても、開くどころか一切揺れない。恐怖のあまり椅子を振りかぶって窓に叩きつけたけど、窓は壊れるどころか音さえしなかった。
パニック中のテレジアでも、さすがにこの空間が異常な事には気が付いた。だけど、それが判ったからなんだというのか……。
「なにこれ……夢? これは夢なの……?」
気絶寸前のテレジアは壁に背中を預け、ずるずると床に崩れ落ちた。
苦手な虫や蛇が自分の部屋を我が物顔に動き回り、扉も窓も壁の一部かのように動かない。叫んでも叩いても他の人間が起きてくる気配もない。この閉ざされた部屋に、テレジア一人が隔離されている。
あまりに常軌を逸した状況に、自分が悪夢を見ているのだとしか思えない。
でも。
耳障りな音とともに、男も女もみんな大嫌いな黒い甲虫が飛んできた。そしてテレジアの顔に着地した。
「ヒギャアアアアアアアッ!」
夢だとしても、我慢できるわけがない。
テレジアは雄叫びを上げて失神し、体の上を何かが這いまわる感触で目を覚まし、狂ったように悲鳴を上げて逃げ回って失神して……それを何度も繰り返した。何度になったのか、それを考える事さえしたくない。
ハッと正気に戻った時。
テレジアは床に倒れて朝を迎えていた。
◆
朝日の中で目を覚ましたテレジアは、様相を一変している部屋を茫然と見回した。
質素な飾り気のない室内は朝の光に満たされ、物音一つしない。余計なものは何一つなく、蛇やカエルなど一匹もいない。
「……む、虫は!? 蛇……カエル!」
昨日の夜中の凄惨な光景が脳裏をよぎり、テレジアは血の気の失せた顔で見回すけど……部屋の中にはあの悪夢は欠片も見えず、ここにはテレジアしかいなかった。
「どういうことなの……」
よろよろ立ち上がって棚の中やベッドの下も覗いてみるけど、狂乱の一夜の痕跡など全く見当たらない。
何度見てもどこにもおかしいものはない。扉も窓も普通に開く。異常事態は……テレジアの記憶の中にしかなかった。
「あれが、夢だった……!?」
思わず漏れた声。テレジアは自分自身が信じられなかった。
ナタリアがココの部屋に来てみると、今日は珍しくすでに起きていた。
「おはようございます、ココ様。今日はお早いですね」
「うん。みんなが起きる前までに、少し掃除をしてたんでな」
ナタリアが見まわしたところ、特にココの部屋の中で変わった様子はない。
「どこをですか? 言って下さればやりましたのに」
「アレを片付けるのは、ナッツにはちょーっと難しいかな」
「はい?」
「ナッツじゃあいつらを掴めないだろうしな」
それ以前にナタリアでは、聖心力で“隔離”した部屋を開けられない。
「……念のために聞きますけど、昨夜何か……やらかしたんじゃないでしょうね?」
「え? 何を?」
妙に愛想よくキョトンとした笑みを浮かべるココを見て、ナタリアは深く聞かない方が良い案件だということを肌で感じ取った。
◆
テレジアは何が何だかわからない。
昨晩のアレは、間違いなく現実だと信じている。
だけど朝起きた時には何も無く、すべては元通りになっていた。極めつけはあれだけ騒いだのに、誰に聞いても周囲の部屋には全く騒ぎが聞こえていなかったことだ。
「アレが全部夢……? そんな馬鹿な!」
自分がこれだけ疲れていて、床に寝ていたのが証拠ではないか。
だけどそれだけでは何も証明できないのは、さすがのテレジアでもわかる。そしてそれ以上に、なぜ朝には全てが無かったことになっていたのかが判らない。
恐怖と言いようのない気持ち悪さの残滓を抱えたまま、テレジアは朝食の席についていた。
食事中の私語は禁止と聞いていたので、黙って食べる。もっともテレジアの頭の中は昨晩の不可思議な悪夢の事でいっぱいだ。私語どころじゃない。
ただ、食べている途中でおかしなことに気が付いた。
メインディッシュのポトフに嫌いなレバーソーセージが入っていて、残すに残せず嫌だなと思って食べるのに苦労していたのだけど……。
(私の分、やけに多くない?)
具の量自体が多い気がするのだけど、中でもやたらとソーセージの割合が高い。すくって口に入れると三個に二個はレバソの気がする。横目で両隣の皿を見ると、ソーセージがどうとか言う以前に具の量がこんなに多くないような……っていうか、もしかしてこの皿、ポトフじゃなくてスープだった……?
そして昼。
「ちょっと、どういうことですの!?」
席に着き始めた修道女の間で、テレジアの叫びが響き渡った。
皆がなんだなんだと首を伸ばす中、
「どうしました、シスター・テレジア」
「どうしたもこうしたも!」
テレジアの席に置かれたサラダの皿。両隣の席の倍ぐらい盛ってあるそれは、
ほぼセロリ。
「なんですの、これは!? どう考えてもおかしいでしょう!?」
周囲の席からも「おー……」と妙な感嘆の声が上がっている。
「誰ですの、こんな盛り方をしたのは!?」
テレジアが額に青筋を浮かべて問い詰めるが、
「あれ? あの辺りのサラダは誰が配ったっけ?」
「さー? 私じゃないわよ?」
料理人や下働きの少女たちは首を傾げるばかり。
皿を見たシスター・ベロニカは特に何か感じた様子もなく、視線を自分の手元に戻した。
「配膳の際に多少の偏りが出るのは良くあることです。それもまた女神様の思し召し。気にするほどのことではありません」
「しかし明らかに量が違い過ぎるでしょう!? それに、セロリしか入ってないって……」
食い下がるテレジアに、院長は鋭い視線を投げかけた。
「配膳されていないというならまだしも、他の者より多いぐらいではないですか。恵まれた話です。これでさらに中身をえり好みしては、罰が当たりますよ?」
「でも私、これ苦手なのに……!」
「ならば」
「好き嫌いを克服する良いきっかけです。女神様に名誉を挽回する機会を与えられたことを喜びなさい」
有無を言わせぬ圧迫のオーラを醸し出す院長の横で、聖女ヅラしたココも慈愛に満ちた微笑みでうんうんと頷いていた。
あのアホウな新入りが克己心を育てる手助けができて、ココも嬉しい。聖女の仕事でもないのに(こっそり)配膳を手伝って、自分の分まで具材を提供した甲斐があるというものだ。
(私が苦手な物を克服する機会まで譲ってやったんだ。ありがたくかみしめろ)
最近ナタリアがココの好き嫌い改善に熱心なので、あのアホウが入ってきてちょうど良かった。
明日も何か使えるものを出すつもりなのか、後で厨房の黒板を確認しとかないと。
ココは心のメモにやるべきことを書き留めながら、食前の祈りの為に手を合わせた。
◆
テレジアは礼拝の間、悄然と椅子に座り込んでいた。
周囲から(あの新入り、前評判のわりに意外と大人しい)などと囁かれていたけれど……そんなこと耳にも入っていないし、入っていたところで今はそれどころじゃない。
(おかしい……
何が、と言うのが言えないけれど、どう考えてもおかしい。
出鼻をくじかれるどころか、焦りと怯えで自分らしく振舞えていない自覚はある。
だけど、何を相手にしているのかが判らないのでどうにもならない。
でも、そんなことは今どうでもいい。問題は……。
礼拝が終わって修道院長と聖女が退席すると、一日の中の僅かな自由時間。修道女たちの間にホッとした空気が流れ始める中、一人テレジアは顔色が青くなった。
(もうすぐ就寝時間だわ……!)
昨夜の悪夢を思うと、消灯へのカウントダウンを告げる自由時間の開始は素直に喜べない。
テレジアはギクシャクした動きで礼拝堂を出て行った。
柱の陰から見ていたココは、新入りのビビっている様子にタチの悪い笑みを浮かべた。
「二日ぐらい止めといてやるか……油断したところへ倍量突っ込もう」
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