D.風を切るJKと水を見る人

 あたしの帰り道には長い長い河川敷がある。これをひとり自転車で突っ切るのがあたしの密かな楽しみのひとつだ。片耳だけのイヤホンも欠かせない。

 風を切る、タイヤがアスファルトを絡め取る、ペダルの角度を足首のスナップが支配する。最高だ。

 クラスのしがらみもテスト勉強も明日の予定だって自転車に乗ったあたしには無意味だ。そんな雑音ノイズは風が全て奪ってくれる。この瞬間のあたしは世界で一番無敵の存在だった。



 そんな河川敷で、あたしは変な人を目にするようになった。『川を見る人』だ。

 5限終わりの日に必ず見かける、川縁に座ってただ水を見ているお姉さん。長い髪が風に揺れる姿を、あたしはいつも目で追ってしまう。


「どうして川なんて見てるんすかね」


 あたしの疑問も風は奪い取っていく。本人のところに届かなければいいけど。



 今日も『川を見る人』はいた。それなりの速度で動く自転車から見下ろすと、ぴくりとも動いていないように思える。近づいて見ると捨てられたマネキンでしたとかありそうだ。そんなわけないか。

 寝てるとかもありえるかもしれない。でもあんな寒そうなところで寝なくてもいいのに。ますますわからないな。



 『川を見る人』は雨の日でもいる。傘もレインコートも持たないままで。そういうときは傘だけでも貸してあげたいと思うんだけど、雨の日のあたしは朝のレインコートの面倒さに、傘を鞄に入れるのを忘れてしまう。次は必ず持っていこう。この決意ももう2桁回目かもしれない。



 その日はよく晴れた日だった。『川を見る人』はいつものところにいて、犬に吠えられていた。リードを握るおじさんに『川を見る人』は何度も「いいんですよ」という風に会釈をしていた。

 あたしは奇妙な苛立ちに支配された。その人をずっと見ていたのはあたしなのに。


「そもそも、動けたんすね」


 そのあとはできるだけ自転車の速度を上げて帰った。



 という一見当たり前な確信は、あたしの中にある『川を見る人』への関心をより強めさせた。

 疑問はいくつかある。年齢があたしより上なのは間違いないとして、16時くらいの時間になぜあんなことをしているのか。普段どんな生活をしているのか。顔はどんな感じだろうか、後ろ姿しか見たことないけど。確かめる術はないにしても、考察の余地はある。



 雨だったその日のあたしは思うように風を感じ取ることができずにいた。水滴が雨具の縁から内側に流れ込んできて気持ち悪いばかりだ。こうもアスファルトが水まみれだと、軽率に速度を出すこともままならない。


「あ」


 あたしの視界にあの人が映った。もう『川を見る人』ではないあの人が。

 その下半身を川に沈めてしまっている、空を仰ぎ、清々しいような痛々しいような笑みを浮かべるあの人が。激しい中央の流れに、今にも吸い込まれてしまいそうなあの人が。瞬間、あたしの思考は停止した。

 急ブレーキめいたタイヤの悲鳴をBGMに、自転車は綺麗に舗装された道路を踏み外した。土手にガードレールなどない、どちらかといえば土手の方がガードレールみたいなものだろう。とにかく、道として整備された領域を逸脱したタイヤはその重量を武器に加速した速度で土手を派手に下った。

 ああ、視界がまっしろだ。状況を理解して勝手に縮こまる心臓と、もつれた手足の動きだけは覚えている。



 全身が痛かった。腕が痛い。脚が痛い。首が痛い。背中が痛い。あちこちが強い衝撃を受けているのがわかった。幸いにもレインコートが外皮の役割を果たしたのか、流血はしていないようだった。


「大丈夫ですか!?」


 白かった視界が次に示したのは何度も遠目から見た後ろ姿に隠されていた顔だった。余程派手にあたしは自転車から投げ出されたらしく、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「雨の日に川遊びはオススメできないっす」


 このときあたしは「あなたを見てました」と言いたかったんだと思う。まだ頭がぐるぐるしていて質問に正確に答えられるような思考はなかった。なお聞かれた側はものすごく恥ずかしそうだった。


「見てたんですか......ごめんなさい」


 謝る理由がわからなかった。偶然視界に入ってびっくりして事故ったから責任取れって迫るような人間じゃないんだけどな。


「水流が激しくて危ないっす」

「......」


 お姉さんはびっくりしたような、残念なような、悲しいような顔をしていた。だめだ、いろいろ聞きたいことがあったのに、頭がうまくはたらかない。


「心配しないで大丈夫です。ちょっと転んだだけっす──」

「わ、まだ無理ですよ!」


 立ち上がろうとしたあたしの身体は案外あっさりと倒れた。小さな擦り傷に打撃が上書きされて痛い。


「あれ、あはは、結構やばいのかなこれ」

「雨宿りできるところまで運びますよ、掴まって」


 お姉さんの手は、自転車から想像していたのよりずっと細く白く弱々しかった。8割くらい自分の力で立ち上がる。


「てか、お姉さんもずぶ濡れっすね」

「......そうですね」

「拭くものとかないんすか?」

「ごめんなさい、もう......必要ないと思ったから」


 やっぱ死のうとしてたのかなあとか、勝手に思って勝手に霧散した。今は考察の時間じゃない。この人と対話できているんだから。


「お互い馬鹿っすね」

「え?」

「あたしは風、お姉さんは水。変なもん気に入っちゃって」

「そうかもね」


 凄く力の入ってない笑顔でお姉さんは笑った。ちょっとかわいいな。いや、もっと本当はかわいかったんだと思う。


「あたしが言うのも変すけど、ご飯とかちゃんと食べてますか?」

「うん......」

「お姉さん、嘘下手っすね」


 芸術的な挙動で綺麗な黒目が泳いだのであたしはちょっと吹き出してしまった。


「うん......作ったりする気力も、買ってレジに持っていく気力も、あんまりなくて」

「じゃあ、これあげるっす」


 あたしは痛む手を動かして鞄に突っ込まれてた今日が消費期限のおにぎりを取り出した。おかかだ。


「ふえ?」

「安かったんで買っちゃったんすけど、あたしおかか苦手なんすよ」


 実際はすぐ満腹になっちゃっただけでおかかは苦手でも嫌いでもない。しかし安かったので買い過ぎたのは本当。嘘はこうやってつくものだ。

 お姉さんはおにぎりを少し震える手で受け取ると、なんだか愛おしそうに眺めていた。


「お姉さんのこと、ほぼ毎日見てたっす。あたしいつもここ通って帰るんで」

「じゃあ、ストーカー......さん?」

「ばっ、ちが、違うっすよ! 水が好きなのかなって思ってただけっす」


 お姉さんはおにぎりの向こう側の川を見ていた。


「好き......なのかもね。都会の喧騒とか、嫌な記憶とか、痛みとか。全部綺麗になかったことにしてくれるみたいな気がするの」

「!」


 やっぱりあたしの風と同じものなんだ。お姉さんの抱えた雑音ノイズは、あたしなんかのとじゃ比べ物にならないほど大きそうだけど、それでもあたしたちは一緒なのかもしれないって思った。


「ふふ、さっきは自分のことをなかったことにしちゃいそうだったけどね」

「それは笑えないっす......」


 お姉さんの笑みは東雲時みたいな淡さと弱さがあって、あたしには今にも消えてしまいそうな小さな火にも見えた。



 雨が止んで痛みもだいぶ治ると、辺りはだいぶ暗くなってしまっていた。にもかかわらずお姉さんはずっとあたしのそばで、暗いような明るいような変なテンションで会話を続けてくれた。


「じゃあ、これでお別れだね。ありがと、ちょっとだけ久々に楽しかった気がするの」

「それはよかったっす」


 あたしがいなくなったらまた川に沈んじゃわないかという思考にこのときのあたしは囚われていた。


「じゃあね、ばいばい」


 お姉さんが手を振る。あたしはペダルに左足をかける。芯が痛む腕に力を込めて振り返った。


「それじゃだめっす。今日は『またね』でお別れっす」

「......ふふ、君ってほんと変だね。本当に女子高生?」

「うるさいっす。いいっすか、今度はおかか以外のおにぎりとか、あったかいみそ汁とか用意してくるっすから!」


 夜の闇はお姉さんの顔をきちんと見せてはくれなかったけど。


「わかった。待ってるね」


 私が一番聞きたかった音を、風が届けてくれた。

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