第84話 奇跡の瞬間

 リッグルの尾羽の付け根には油を分泌するせんがあって、その油を羽繕いによって羽全体に塗りこめている。


 だから炎の玉を受けたラシェの体は、瞬時に燃え上がった。


「ラシェ!?」


 ラシェが甲高い鳴き声を上げて、火を消そうと地面に体をこすりつける。だが火はすぐに消えない。

 とっさに近寄ろうとしたレナリアは、ポール先生に止められた。


「レナリアさん、ダメだ!」

「でもラシェが」

「大丈夫だから。……マーカス!」


 レナリアの腕をつかんだポール先生は、頭だけ振り返ってマーカスを見る。


 マーカスは既に繊細な造りの魔法杖を手にしていた。


「アクアヴェーテ、水のヴェールを」


 マーカスはアクアヴェーテと名づけたウンディーネに、声をかける。

 霧状になった水のヴェールが、火に包まれたラシェだけではなく、レナリアとポール先生にも降り注ぐ。


(フィル! お願い、力を貸して!)


「分かった。水の魔素を集める」


 フィルが空気中に含まれる水の魔素を集める。

 レナリアは無我夢中で水の魔法を放った。


 指の先から魔力がほとばしる。


 マーカスの放った水のヴェールが、レナリアの魔力と混ざり、ゆらゆらと揺れて水底のような濃淡を作り出す。


 青いオーロラのように色を変えながら揺らめくヴェールが、燃えるリッグルを優しく包む。


 しばらくすると、しっとりと濡れたラシェの体からは白くくすぶる煙が立ち上るものの、燃え盛る炎はしずまっていった。


 だがラシェは起き上がらずに、横たわったまま浅い息を吐くだけだ。白かった羽は全て燃えつき、じくだけが白く焼け残っている。


「ひどい……」


 急いで近寄ったレナリアは制服が汚れるのにも構わずにひざまずき、ラシェの首に手を当てる。そして回復魔法を使おうとした。


「レナリア! 君が聖女だってバレちゃうよ!」


 慌てて止めるフィルにレナリアは一瞬ためらうが、タンザナイトの瞳は決意をこめて煌めいた。


(でも、このままじゃラシェが……。ラシェが助かるのなら、私は……)


 そこへマーカスが鋭い声で司教に命令をした。


「司教、このリッグルに治癒を」

「い、いや、でもリッグルなどに回復魔法は……」


 おろおろと視線を巡らせるだけで動こうとしない司教に、マーカスは苛立たし気に眉間の皺を深くする。


「ではロイド・クラフト。君がダニエル・マクロイに命じてこのリッグルを攻撃したのは明らかだ。学園内において無許可で魔法を使うのが禁止されているのは知っているはずだろう。それこそ、退学を勧告されるほどの違犯になる。それに対する処分は後で通達するが、君でもアンジェ・パーカーでもいいが、責任をもってこのリッグルを回復させたまえ」


 退学と言われて、ダニエルの顔色が悪くなる。すがるようにロイドを振り返った。


 ロイドは、微笑みを張りつけながら大仰に手を広げる。


「心外ですね、マーカス先生。誤解ですよ。僕は別に、リッグルを攻撃しろなどとは言っていません。吸血虫を発見したので、急いで排除しただけです。ただちょっと慌てていたので、魔力が多すぎたようですね。申し訳ありません。でもそのリッグルが吸血虫にやられてしまっているのなら、回復させても無駄なんじゃないですか」


 吸血虫というのは蠅を少し大きくしたような大きさの虫で、動物の血を好んで吸う。その際に痛覚を麻痺させるための毒素を注入するのだが、リッグルはこの毒素に過剰反応してしまい、死に至ることが多い。


 だから牧場には吸血虫を侵入させないために結界が張られているはずで、ロイドの主張はおかしい。

 だが小さな吸血虫が実際にいたかどうかを、この場で確かめるすべはない。


 そしてロイドにもアンジェにも、自分たちのものにならない白いリッグルを治癒するつもりはない。


「ラシェ。待ってて。私が……」


 レナリアは優しくラシェの首を撫でた。


 ここにはポール先生やロイドだけではなく、司教もいる。レナリアが聖魔法を使えば、すぐに聖女として祭り上げられてしまうだろう。


 それでも目の前で苦しんでいるラシェを見捨てることなどできない。

 レナリアは覚悟を決めて、ぐっと息を詰めた。


「レナリア! 霧だよ、霧。それでめくらましをしよう。あの泉の時みたいに」


 フィルが慌てて濡れた地面を指す。

 そこにはマーカスとレナリアの水魔法によって、水たまりができていた。


(霧が発生するほど水がないわ。でも私が水を足せば……)


 レナリアはそっと水たまりに指をひたす。


(フィル。水の魔素を集めてくれる? チャムはこの水を蒸発させて)


「了解!」

「うん。わかったー」


 やる気に満ちたチャムが水に熱を加えると、そこからもくもくと蒸気が発生する。辺りが見えなくなるように、レナリアはどんどん水魔法で水を増やしていく。


(フィル、私の姿が隠れるように、霧を霧散させないようにしてね)


「うん。あ、そうだ、どうせならさ……」


 フィルは何事か思いついたように羽を震わせると、霧の中に一層濃い霧を作る。

 そしてそれを人のような姿にした。


「女神よ、このリッグルに癒しを」


 レナリアの詠唱と共に、光の輪がリッグルを包む。


 光は霧に当たって乱反射を起こし、横たわるリッグルとひざまずくレナリア、そしてフィルが霧で作った人影に煌めく色とりどりの光を与えた。


 それはまさしく奇跡の瞬間であった。


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