実践してみてわかることは多い



 彼が居なくなってから数日が経った頃になって、彼に教えてもらったことを実践してみることにした。


 愛想よく笑い、猫なで声――かどうかは自分ではよくわからないが――のような聞こえのいい高い声を意識して、独居老人のところに通うようにした。


 最初はインターホンに出てもらうことすら難しかった。


 何度も通う内になんとか玄関口に入ることを許されるようになり、契約内容の説明をすることができるようになるまでには、更に時間を要した。


 ただ、彼が言ったとおりに、少なくとも自分にとっては以前までターゲットにしていた青年から初老の世代と比べればとっつきやすい感触はあったように思う。


 だからこそ続けられたとも言えた。


 契約の説明をするときは、この契約をすることで起こり得る利点のみを徹底して話すようにした。


 明るい未来を想像できるような、聞こえの良い言葉を並べるようにした。


 ――心が痛まなかったかと言えば、決してそんなことはなかったけれど。


 そうやって続ける内に、一件の契約をとることに成功した。


 ――正直、かなり嬉しかった。


 なにせ初めて取れた契約だ。嬉しくないわけがない。

 契約書に印鑑を押してもらう瞬間は、思わずガッツポーズをしそうになったくらいだった。


 ……やると間違いなく不興を買うから必死に抑えたが。


 契約が取れたことを報告したら、上司もようやく一言褒めてくれた。

 次も頑張れと声もかけてくれた。

 おかげで、会社での居心地も少し良くなったように感じられた。


 ただ、契約時に笑いあった相手の表情を思い出すと――少し靄がかかったような、筆舌に尽くしがたい気持ちが湧き上がるのが、少し気にかかったけれど。


 その後も、同じやり方で契約をいくつも取っていった。


 おかげで社内の評価も上がっていった。上司からお叱りを受けることも少なくなった。


 社内でも過ごしやすくなったし、給料も上がった。


 充実感もあった。


 ――一方で、喉に小骨が刺さっているかのような違和感も積み重なっていった。


 その原因が罪悪感であったことに気付いたのは、以前契約した相手からクレームが入ったときだった。


 クレームの内容は、結局のところ、契約したときに聞いた話と全然違うじゃないかと、そういう内容だった。


 そう言われるのはわかっていた。


 ――しかし、それは相手が勝手に勘違いしていたことだ。騙していたわけじゃない。


 そう思ったものの、相手が期待している状態にならないことを、自分は知っていた。


 それを言わずにいたことがずっと気になっていたのだと、そのときになってようやく気付いたのだった。


 しかし、現状の自分ではどうすることもできなかった。


 ノルマを果たすことで精一杯の自分では、何も出来なかった。


 相手が勘違いしているだけなんだから自分は悪くない、と思いこもうとした。だけど、無理だった。


 ――だから、どうすればいいかを考えた。


 最初は仕事をやめようかと思ったが、その考えはすぐに却下した。


 給与は増えてきたが余裕があるわけじゃあなかったからだ。

 貯金だって心もとない。

 次もマトモな職場であるかは疑わしい。


 懸念点は数え上げればキリがなかった。


 現状のやり方を突然変えても、状況はよくならない。


 ならば、その罪悪感を減らすにはどうすればいいのかを考えた。


 そうして、今まではただひたすらに契約を取ることだけを考えて、相手のことを考えていなかったといいうことに思い至った。


 ……でも、完璧に相手の要望に沿う商品など存在しないよなぁ。


 だったら、少しでも相手の要望に近い形で商品を紹介しようと考えることにした。


 そうすれば、自分は努力したから悪くないと、そう思えるのではないかと。


 そう思ってから、活動の仕方を変えた。


 まずは自分の扱う商品についての知識を深めることにした。

 今までは漫然と紹介するだけだった内容を、噛み砕いて完全に理解できるように読み込んだ。


 次は、相手に取り入るためだけの会話をやめた。

 その会話の中から相手の状況を慮り、自分の知っている商品をどう組み合わせれば相手の要望に近いものが提供できるかを考えるようにした。


 ――そうやって続けている内に、契約の数が増えるようになった。


 そして、やっている仕事が以前よりも楽しいと感じられるようになり、社内での居場所を確保できるようになったと考えられるようにもなった頃には、入社してから数年が経っていた。


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