第54話 憎悪の炎 2

 そして最悪のタイミングでドアがノックされた。


「お爺ちゃん。入ってもいい?」


 控えめなノックと共に入ってきたのはマーシャだった。


 既に夜も遅くなっているが、銀色の瞳は爛々としている。


 とても眠ってはいられないと考えている表情だった。


「うむ。マーシャ。入ってくるといい」


「うん。こんばんは、イーグル」


「こんばんは、マーシャちゃん」


 銀色の瞳で見上げられて挨拶をされると、後ろめたい気持ちになるイーグルだった。


 自分の失態でトリスを攫われてしまった。


 それをこの少女にどう説明しようかと悩んでいる。


 どう言えばこの少女を傷つけずに済むだろう。


 そればかりを考えていた。


 しかしマーシャはそんなイーグルの気遣いの全てを無視した。


「お爺ちゃん。トリスに何があった?」


 この時間になってもトリスが戻ってこない。


 携帯端末に連絡も取れない。


 何かがあったことは確実だった。


 どうしてトリスが戻ってこないのかということは問い詰めない。


 ただ、何があったのかを知りたがっている。


「………………」


 この小さな少女の覚悟を見くびっていた。


 とっくに承知していたのだ。


 そして現実から目を逸らすこともしない。


「トリスは攫われた」


 クラウスはマーシャに隠し事をしたりはしなかった。


 事実を正直に告げる。


 そうすることでマーシャの反応を確かめたかったのだ。


「誰に?」


「現時点では不明じゃな。しかし身代金の要求もないから目的は金ではなくトリス自身ということになる」


「私もそう思う。そんなことをしそうな奴らの心当たりはある?」


「現時点ではなんとも言えんよ。亜人の遺体回収命令を受けていたレヴィアースがここにいたなら、何らかの情報は掴めるかもしれんが、儂はジークスの内乱のことはそれほど詳しく調べてはいないからな」


「……そう。取り戻してくれるつもりはある?」


「もちろんじゃ」


「ありがとう」


 クラウスにとってトリスはかけがえのない孫のような存在だ。


 マーシャも同様に大切な存在だ。


 だからこそ、二人の為に見捨てるという選択肢はあり得ない。


「詳しい話を訊いていいかな?」


「もちろん。イーグル」


「……はい」


「頼むぞ」


「……はい」


 この件について説明すると、イーグルの手落ちでトリスが攫われてしまったことも知られてしまうが、主であるクラウスの命令には逆らえない。


 やむなく説明をするのだが、マーシャは意外なことに怒らなかった。


「……予想以上に大がかりだな」


 そして冷静な意見を出してくる。


 クラウスもイーグルも同意見だったが、この年頃の少女が家族同然の存在を攫われて冷静なままというのは異様な反応だった。


 泣き出すでもなく、怒り出すでもなく、ひたすら冷静に、冷徹に考えている。


 それこそがトリスを取り戻す為に必要なことだと分かっているからだ。


「もしも亜人の生き残りを狙っているのだとしたら、お主達の素性が知られているということじゃ。しばらくはマーシャも警戒しておいた方がいいと思う」


「それは分かっているけど、素性を知られた訳じゃないと思う」


「どうしてそう思う?」


 マーシャの意見にクラウス達が首を傾げる。


 どうしてそう考えるのか、その根拠が分からない。


「お爺ちゃんはレヴィアースの動向もマメにチェックしていると思うけど」


「ああ。何かあれば力になってやりたいからのう」


「うん。でもレヴィアースの方に異常は無い筈だ。あったらとっくに情報が入ってきている」


「うむ。今のところ、レヴィアースに異常は無いな」


「だったら私達の素性が知られた訳ではないと思う。私達の素性を辿るには、その始まりであるレヴィアースから辿るのが一番だからだ。だけどレヴィアースの方はいつも通りの日常を過ごしているとなると、この可能性は低いと思う」


「なるほどのう……」


 確かにその通りだった。


 しかしこの状況でそれほどの冷静な分析が出来るマーシャのことが末恐ろしくもあった。


「この件、レヴィアースにも知らせるべきか?」


「ううん。レヴィアースには何も言わない方がいい。下手をすると任務違反の件がバレて軍法会議になりかねない」


「しかしそれを覚悟してでも助けてくれると思うが? トリスは宇宙に連れ去られたからな。あの男の力があれば確実に取り戻せると思うぞ」


「駄目だよ。レヴィアースは巻き込めない。私達を助けたことで危うい立場に置かれているんだ。今はバレていなくても、この件がきっかけで何か尻尾を掴まれるかもしれない。そんなリスクは冒せない」


「分かった。ではレヴィアースには何も知らせないとしよう」


「うん。それよりも宇宙に連れ去られたのなら、追跡はどうなっている?」


「その件で急いでPMCの方に準備をさせているところじゃ。イーグルが発信機を張り付かせてくれたからな。バッテリーが切れる前に追いつければ御の字じゃが、それが出来なくても向かった方向が分かれば見つけられる可能性は高い」


「そうか。流石はイーグルだな」


 マーシャがイーグルに対して笑いかける。


 この状況でも彼の機転を褒めてくれる。


 詰りたい気持ちもある筈なのに、気丈な少女だと思った。


 そんなイーグルの内心を見抜いたのか、マーシャは苦笑してイーグルの大きな手を握った。


「大丈夫だ。恨んだりしていない。いつも守ってくれてありがとうって思ってるよ。今回はたまたま相手が上手だっただけだ。私達は自分の価値を見誤っていた。これが一番の原因だろうな。今更血眼になって探して殺す相手はいないと思っていたんだ。その認識は間違っていないと思うけど。でもその身体を研究したいという人間なら、居てもおかしくない。レヴィアースがあの時命令されていたのは遺体の回収だった。その遺体がどうなったのかは考えたくないけど、死体よりも生きた身体から取れるデータの方が多いし、価値も高い。その価値を認識していなかった私達が甘かったんだ」


「………………」


「………………」


 確かにその通りなのだろうが、こんな幼い少女がそこまで冷静に考えてしまうことが哀しかった。


 もっと子供らしく、無邪気で居て欲しいという大人の願いは勝手なものなのだろうか。


 しかしマーシャは強気に笑うだけだった。


「子供らしい子供でいたいとは思っている。だけど今は無理にでも大人の認識で動かないと、トリスを取り戻せない。私は間違っているかな?」


「いや。間違ってはいないな」


「ええ。マーシャちゃんが正しいですね」


 正しいからといって、それが望ましい態度という訳ではないのだが、この際、取り乱されるよりはありがたい。


「じゃあ話がまとまったところで、お爺ちゃんにお願いがある」


「なんじゃ?」


「救出部隊に同行させて欲しい」


「それは……」


 マーシャの願いならば何でも聞き入れてやりたかったが、それだけは即答しかねるものだった。


「別に感情の問題だけで言ってる訳じゃない。相手の狙いが生きている亜人の身体なら、私は立派な餌になれると思うんだ。危険は承知の上だけど、トリスを救い出すには、相手をある程度釣り出す必要があるかもしれないだろう? 相手の船ごと攻撃すれば楽かもしれないけど、トリスを巻き込む恐れがある以上、突入が前提になると思うけど、私の推測は間違っているかな?」


「……困ったことに、間違ってはいないな」


 本職であるイーグルの方が頭を抱えてしまう。


 確かに突入作戦を検討していたが、そこに持ち込むまでの手順をどうすればいいのか、頭を悩ませていたところだった。


 しかしマーシャという餌が使えるのなら、話は変わってくる。


 もう一人の亜人が手に入るならば、相手は無茶を承知でこちらに関わってくる筈だ。


「しかし危険すぎるじゃろう」


 心配性のクラウスが止めようとする。


 トリスのことは絶対に取り戻すが、その為にマーシャを危険に晒すのは気が進まない。


 それも当然だった。


 子供を守るのはいつだって大人の役割なのだから。


 子供に無茶はしてもらいたくない。


 いつまでも守らせてはくれないのは分かっている。


 だからこそ、守らせてくれる間は、全力で守らせて欲しいと願うのだ。


 それはイーグルも同じだった。


「危険なのは分かっている。だけどトリスが心配なんだ」


「それは儂も同じじゃよ」


「そうじゃない」


「マーシャ?」


「そうじゃない。お爺ちゃん達が心配している理由とは、まったく別の心配だ」


「どういうことだ?」


 イーグルの方がマーシャに問いかける。


 身の安全以上の心配があるのだと分かったからだ。


 そのことを踏まえて救出作戦に臨まなければ、取り返しの付かないことになる。


 そんな気がしたのだ。


「私が心配しているのは、トリスの精神面だ」


「精神面?」


「ああ。トリスは危うい。今はこの生活に馴染んでくれているけど、それは決してトリスの本心じゃないんだ。本心だと思い込もうとしているけど、あいつはこの現状を本心から受け入れている訳じゃない」


「………………」


 その言葉にはクラウスの方が傷ついた。


 精一杯可愛がっているし、愛情を注いでいるつもりだが、それが伝わっていないのだろうか。


 それとも、受け入れるつもりがないのだろうか。


 それはクラウスにとって哀しいことだった。


「ごめん。そうじゃない。言い方が悪かった。トリスはお爺ちゃんのことを本当に大好きだと思う。感謝もしているし、本当は今の環境に身を置きたいと思っている。でも、トリスはそれ以上に人間を憎んでいるんだ。あいつは仲間が殺された時のことを忘れられない。忘れたら楽になれると分かっているのに、忘れようとしない。トリスの心にはいつだって復讐の気持ちがあるんだ。だから、心配なんだ。今回の件でトリスが人間への憎悪を深めてしまったら、きっと取り返しがつかなくなる。戻れなくなる。そんな気がするんだ」


「………………」


「………………」


 クラウスもイーグルも、トリス達がどんな地獄を見たのか知らない。


 問いかけることすらしてこなかった。


 知っておくべきだという気持ちもあったのだが、そのことで思い出したくない過去に触れることを躊躇っていたのだ。


 今が幸せで、過去を少しずつ過去として整理していければ、それでいいと考えていた。


「自惚れかもしれないけど、私はトリスにとって踏みとどまる足かせになると思うんだ。トリスは私を守ろうとしてく

れているから。闇に堕ちそうになるトリスを、私が引っ張り上げられると思う。だから、トリスの傍に居たいんだ。もしも助け出した時にトリスが取り返しの付かない状況になっていたら、私が引き戻してやりたい。これはトリスの安全じゃなくて、心の問題でしかないけど、でも、だからこそ譲れない」


 トリスの身柄を取り戻すだけならば、イーグル達に任せておけばいい。


 彼らは腕利きの戦闘職なので、きっとトリスを取り戻してくれるだろう。


 心配なのはトリスの心だ。


 トリスは優しすぎる。


 その優しさが、闇へと堕ちやすくしてしまっている。


 未来よりも、過去を見ているからこそ、復讐を諦めきれない。


 今はマーシャがいるから踏みとどまっているが、そこに新たな何かが加われば、その均衡は容易く崩れてしまうかもしれない。


 いや、崩れてしまうことを確信してしまっている。


 だからこそ放っておけない。


 トリスの心を引き戻す為にも、マーシャが助けに行かなければならないのだ。


「……そうじゃな。トリスにとってはマーシャだけが心の均衡を保つ足かせじゃったな」


 トリスを見ていればそれは分かることだった。


 マーシャに依存しているのとは違う。


 しかしマーシャがいるからこそ、闇に傾きそうになる心を踏みとどまらせている。


 レヴィアースもそこを心配していたが、マーシャを守る為に踏みとどまればいいと言ってくれた。


 だからこそ、マーシャがいなければ簡単に傾いてしまうのだ。


「イーグル。手間をかけるが、マーシャも連れて行ってやってくれるか? トリスの為にも、その方がいい」


「ええ。拉致監禁されている以上、メンタルケアは必須です。俺もあの子が荒んでいくのは見たくないですしね」


「決まりじゃな。しかしマーシャ。これだけは約束してくれ。決して危険なことはしない。戦闘は大人に任せると」


「私だって少しは戦えるのに」


「それは知っておる。少なくとも対人格闘においては本職顔負けの技倆を発揮していることも報告されておるしな。しかしそれとこれとは別問題じゃ。子供を危険な目には遭わせたくない。大人のエゴじゃと思ってくれてもいい。儂らもマーシャのエゴを聞き入れるのじゃから、マーシャも儂らのエゴを聞き入れるべきじゃろう? それが対等な条件というものじゃ」


「う……」


 そう言われると弱いマーシャだった。


 交換条件ならば聞き入れるしかない。


 戦えないのは不満だが、マーシャはイーグル達を、そしてクラウスを信頼している。


 自分で全てを背負い込むのではなく、頼れるところは任せる強さが必要なのだろう。


「うん。分かった。どうしても必要な時以外は、手を出さない。戦わない。約束する」


「よし。ならばイーグル。マーシャのことを頼むぞ」


「はい。今度は命に代えても護ります」


「命には代えなくてもいい」


「それは困る。目の前で死なれたら目覚めが悪い」


 クラウスがばっさりと拒否し、マーシャも同様に拒否した。


 イーグルなりの覚悟と謝罪のつもりだったのだが、二人は受け入れてくれなかった。


 それよりもみんなで幸せになることを選んで欲しいということだろう。


「私はまたいつもの日常に戻りたい。トリスが居て、私が居て、お爺ちゃんが居て、イーグルが居て、PMCのみんなが居る。そんな日常を取り戻したい。トリスにも、取り戻して欲しい。だから、犠牲が出るような戦い方はしないで欲しいな」


「分かったよ、マーシャちゃん」


 まったく、と肩を竦めるイーグル。


 この小さな女の子に完全敗北したような心境だった。

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