夜のひと時
「はい、これでよろしいかと。ですが当分の間、朝練は柔軟体操や走る程度にしてください。棒術や剣術の訓練は怪我が治るまで禁止です」
朝練での訓練の禁止を言い渡されて眉を寄せて口を尖らせるレイを見て、手当てをしてくれたハン先生はそれでも真顔で首を振った。
「いけません、指先の怪我を甘く見ると後で泣く事になりますよ。特に、利き腕の怪我は注意が必要です」
助けを求めるようにルークを見たが、彼も真顔で首を振った。
「駄目だ。ハン先生の仰る通りだよ。指先の怪我は注意が必要だ」
「分かりました」
まだ口を尖らせて拗ねていたが、一応納得したらしく素直に返事をする彼を見て、あちこちから安堵のため息が聞こえた。
「えっと、せっかく楽しんでおられたのに、お騒がせしてしまって申し訳ありませんでした!」
すっかり酔いが覚めたレイが立ち上がってそう言って謝ると、皆笑って手を振ってくれた。
「気にしないで良い。あれは不可抗力だよ」
ゲルハルト公爵がそう言ってレイの肩を叩く。
「怪我をしたのなら、もうワインは飲まない方が良いな。ほら、これでも飲んでいなさい」
苦笑いしたディレント公爵が渡してくれたのは、陶器のカップに入った茶色の液体だった。
甘い良い香りがしている。
「えっと、これは何ですか?」
「チョコレートをミルクで溶いて飲み物にしたものだよ。かなり甘いが其方ならきっと好きだろう」
チョコレートと聞き、レイの目が輝く。
「いただきます!」
そう言ってゆっくりと口に含む。
「美味しいです!」
一口飲むなりそう言い、これ以上無いくらいの満面の笑みになるレイを見て吹き出したのはディレント公爵だけではなかったようで、あちこちから笑う声が聞こえた。
その後は、ホットチョコレートを飲みながら、珍しいワインの話を聞かせてもらったりして過ごした。
「お疲れ様でした。お怪我をなさったとの事ですが、痛みはいかがですか?」
ようやく懇親会がお開きになり、レイは迎えに来てくれたラスティと一緒に本部へ戻った。
ルークとマイリーはディレント公爵の所でこのまま場所を変えて飲むのだと言っていたし、タドラはヴィゴ夫妻と一緒に一の郭の屋敷へ戻ったらしい。なので本部に戻るのはレイだけだ。
「うん、まだちょっと痛いけど、痛み止めが必要な程は痛くないよ。以前、蒼の森のお家で岩塩を削った時に削り器で指を引っ掻いた方がずっと痛かったや」
血が止まらなかったあの時の事を思い出してしまい、ちょっと苦笑いする。
「おお、それは聞いただけで痛そうですね。それほどでは無いとのことですが、今夜は湯に浸かるのはやめた方がよろしいかと」
「わかった。じゃあ汗を流す程度にしておくね」
本部へ続く渡り廊下を抜け、そんな話をしながらゆっくりと歩く。
「せっかくミスリルの弦に替えて、ようやく馴染んできたところなのに。また張り直しだよ」
ラスティと執事が持ってくれてる、ケースに入った竪琴を見ながらレイが口を尖らせる。
「まあ、ミスリルの合金で作られた弦は丈夫ではありますが、弦はあくまでも消耗品ですからね。切れない訳ではありません。今回は運が悪かったと思って諦めてください」
「そうだね。まだ舞台の上で切れなかっただけ良い事にするよ。舞台で演奏中に切れた弦で怪我をして出血してたら、大騒ぎになっていただろうしね」
「そうですね。そうならなかっただけ、まだマシだったと思いましょう」
ラスティに慰めるように背中を叩かれ、小さく頷いたレイは真っ暗な空を見上げた。
今夜は月は無く、夏の夜空が煌めいている。
「じゃあ部屋に戻って湯を使ったら、寝る前に少しだけ天体望遠鏡を出してみようっと」
小さくそう呟き、本部の建物に入って行った。
部屋に戻り、言われた通りに軽く湯を使う程度にしたレイは、もう一度部屋に来てくれたハン先生に指先の湿布を交換してもらってから寝巻きに着替えた。
窓を開けて、光の精霊に照らしてもらいながら天体望遠鏡を取り出すレイを見て、一礼したラスティはそっと部屋を出て行った。
天体観測を始めると、すぐに夢中になるレイはお茶も飲まないからラスティは控えの間に戻るのだ。
しかし、この日はいつもと勝手が違っていた。
「ああ、もうこの指!」
方角を合わせるための微妙な目盛りを合わそうとすると、右の親指の包帯が邪魔をして上手くいかない。
何度かやりかけたが、ことごとく失敗してしまいため息を吐いたレイは諦めて顔を上げた。
「ああ、もうやめた!」
とうとうそう言って箱に望遠鏡を片付けてしまった。
「じゃあこのままで良いや」
ため息と共にそう呟き、大きい方の天体盤を取り出したレイは、スリッパを脱いで窓に座った。
いつものように足は窓の外だ。
こっちを見上げる見張りの兵士に笑って手を振り、手を振り返してくれた事を確認してからレイはため息を吐いて空を見上げた。
『大丈夫か?』
ブルーのシルフが現れて、レイの頬にキスを贈る。
「うん、大丈夫だよ。まだちょっと痛いけどね」
小さく笑って包帯の巻かれた親指を見せる。
『痛いの痛いの飛んでけ〜〜』
ふわりと飛んできて手首に座ったブルーのシルフが、そう言ってそっとレイの親指を叩く。
『痛いの痛いの』
『飛んでけ〜〜!』
『飛んでけ〜〜〜!』
ニコスのシルフ達も現れて、次々に親指を叩いてくれた。
「ああ、ちょっと痛いのが引いたよ。ありがとうね」
小さく笑って順番に撫でてやってから、もう一度空を見上げる。
しばらく無言で空を見上げていた。
ブルーのシルフはレイの肩に座り、ニコスのシルフ達は膝の上。そして勝手に集まって来たシルフ達も好きなところに座ってレイにキスを贈ったりふわふわの赤毛を撫でたりしていた。
いつもはおしゃべりな彼女達も何も言わず、一緒に黙ったままで星空を見上げていたのだった。
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