糸紡ぎと王妃様
「さあ、私の事は気にせず、どうぞ糸紡ぎを初めて頂戴」
笑顔のマティルダ様にそう言われて、後ろで見ていた巫女達は元気に返事をして、それから顔を見合わせた。
「じゃあ私は、これを使わせてもらうわ」
リモーネがそう言って、三台並んでいる紡ぎ車の一番右端に座った。
レイルズが座っている場所から一番遠い位置だ。
「じゃあ私は、これを使わせてもらうわね」
ニーカがそう言って、その隣にある三台並んだ真ん中に座る。そうなると、空いているのはレイの隣に置かれた紡ぎ車だけになる。
クラウディアは小さく深呼吸をして、その左端の紡ぎ車の前に座った。
「はいどうぞ」
レイがトレーを持って、彼女達にカーディングの済んだ綿兎の毛を巻き取ったものを渡して回る。
スピンドルを持って来た巫女達も、トレーから綿兎の毛を取り、リモーネの横に並んで座って糸を紡ぎ始めた。
一気に減った綿兎の毛の山を見て、レイは急いで次の作業を開始する。
その様子をマティルダ様は、笑顔で黙って見つめていたのだった。
しばらくは、カラカラと紡ぎ車が回る音だけが聞こえていたが、元々おしゃべり好きな少女達だ。
マティルダ様の事は気になるが、いつまでも我慢はしていられず小さな声で話をし始める。
その様子を見ていたマティルダ様は、小さく笑って立ち上がった。
「それじゃあ私は刺繍に戻るわ。皆頑張ってね」
慌てて立ち上がった巫女達に笑いかけ、レイの頬にそっとキスをしてからマティルダ様は、刺繍をしている机に戻って行った。
少し離れたので安心したのか、一気に皆喋り始める。
「驚いたわ。まさか王妃様がおられるなんて」
小さな声でそう呟いたクラウディアに、レイは笑って首を振った。
「マティルダ様は、とっても優しい方だよ」
マティルダ様は、彼女に会いたがっていたのに、この場では挨拶だけで、結局一言も言葉を交わしていない。せっかくだから、少しでもお話ししてもらえたら良かったのに。
そう思っていたのだが、彼女の意見は違っていた様だ。
「そ、そんなの分かっているわ。だけど……だけど私なんかが、気軽にお話しして良い方じゃないでしょう?」
戸惑う様なクラウディアの言葉に、レイは困った様に眉を寄せる。
エンブロイダリービーの場は、通常の社交の場とは違い、基本的には身分を問わない。挨拶程度はするが、それ以上は強要されない。ここはあくまでも針仕事をする場、なのだ。
ただし、年長者には敬意を払う事。未経験者、もしくは初心者には上手な人が付いて一から教えてあげる事。おしゃべりは良いが手は止めない事。飲食は禁止等々、そう言った暗黙の了解が多くあり、実はこれも中々に複雑な社交の場なのだ。
『エンブロイダリービーの場では、身分は問わぬ筈ではないのか?』
紡ぎ車の枠に座ったブルーのシルフのからかう様な言葉に、クラウディアとニーカが顔を上げる。
「それはもちろん分かってるわ。だけど……じゃあそうですかって言って、王妃様と気軽にお喋り出来る?」
ニーカの反論は、小さな声だったがレイには聞こえている。
「そうよ。ニーカはまだ良いわよ。私なんて……何を話したらいいのか分からなくて、頭が真っ白になったわ。正直に言うと、戻ってくださってほっとしたわ。あんなに近くにいらっしゃったら、何か失礼をするんじゃないかって思って、糸紡ぎも失敗しそうよ」
ごく小さなクラウディアの言葉に驚いて口を開きかけたレイは、以前初めて皇王様に離宮の迷路の中でお会いした時の事を思い出していた。
あの後の食事の際、皇王様は寂しそうにこう仰ったのだ。
私だって妻だって、母上だって人間だ。他の皆と同じ。王だからと差別されては堪らんな。と。
「そっか、身分によってはこんな風に最初から相手が下がってしまって、ろくにお話さえ出来ない事だってあるんだね」
マティルダ様は、クラウディアに会ってみたいと仰ってくださっていた。せっかくだから少しくらいお話をすれば良いと思ったのだが、彼女だけでなく、明らかにまだ戸惑っている様な他の巫女達の様子も見て、レイはマティルダ様とクラウディアに話をさせる事を諦めた。
考え事をしつつも、せっせと手を動かしたおかげで、それ程かからずにかなりの量のカーディングをする事が出来た。
「はあ、さすがにこれだけの量を一気にすると大変だね」
手を止めて、軽く振りながらそう呟く。
「ご苦労様。少し休んでてよ。これだけあればかなり紡げるものね」
器用にごく細い糸を紡ぎながら、ニーカが笑っている。
カーダーを置いたレイは、彼女達が糸を紡いでいるのを改めて覗き込んだ。
実は、彼女達が糸を紡いでいるのを初めて見るレイは、さっきから密かに横目でずっと見ていたのだ。
主にクラウディアの手元を。
自分とは違う、小さくてまろやかな細い手が、器用に糸を紡いでいる。
記憶の中にある母さんの手は、もっとゴツゴツとした荒れた手をしていた。
村にいた時は、そんなものだと思っていたから何とも思わなかったが、若い頃、あんなにも綺麗な手をしていた母さんなら、村での厳しい生活は、きっと辛かっただろうと思える様になった。
彼女の手は、出来ればずっと綺麗でいて欲しいと思う。
「綺麗な手だね」
つい、考えていた言葉が口をついて出てしまった。
唐突に真っ赤になったクラウディアの手が止まり、足で踏んでいた回転のペダルが止まる。回っていた大きな紡ぎ車の糸巻きが、その反動で反対向きに回転する。
「ああ! 駄目よ!」
糸巻きが逆向きに回転してしまうのは、糸つむぎの際に一番困る事だ。せっかく
「あらあら大変、大丈夫?」
自分の紡ぎ車を止めたニーカが、笑いを堪えながらクラウディアを覗き込む。
「え、ええ……何とか大丈夫よ」
小さくため息を吐いて、緩んだ部分引きながら戻してやる。それから改めてゆっくりとペダルを踏んで紡ぎ車をまた回し始めた。
平然としているが、まだ顔は真っ赤なままだ。
「ご、ごめんね」
思わず小さな声で謝ると、隣のニーカだけで無く、他の巫女達まで小さく吹き出している。
「もう、知りません!」
それだけを言ったクラウディアは、まだ真っ赤なまま少し向きを変えてレイに背中を向ける様にして糸を紡ぐ。
「ええ、こっち向いてよ」
「知りません!」
「ええ、そんなこと言わずにさ」
「もう、知りませんったら、知りません!」
そう言いながら、堪えきれない様に笑い出し、我慢していた他の巫女達も揃って笑い出す。
レイも何だかおかしくなって、一緒になって笑ったのだった。
おかしくて堪らないとばかりに笑い合う少女達とレイを、部屋にいたほぼ全部の人たちが、密かにこっそりと見ていた事に気が付いていたのは、やっぱりブルーのシルフとニコスのシルフだけだ。
彼女達は、だけどそんな周りの視線なんて気にせず、一緒になって楽しそうに笑っていたのだった。
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