儀式の開始
案内された部屋は、確かに広いが特に装飾なども無く、壁にも何も描かれていない普通の会議室のような部屋だ。
入り口横には見覚えのある剣置き場と壁の金具があるが、他に装飾品などは一切無く、付いている金具はそれだけだ。
部屋の真ん中には、何も置かれていない大きな机と幾つもの丸い背もたれの無い椅子が置かれているし、その奥には別に小さな机も置かれている。
「こちらの部屋で、針始めの儀式を行います。ですがその前に、どうぞこちらへ」
そう言って案内された部屋は、如何にも応接室と言った感じの豪華な部屋で、ふかふかの座り心地が簡単に想像出来そうな大きなソファーがいくつも置かれていて、その前には背の低い机も幾つも置かれている。
「こちらでお待ちください。ただいま、お茶をご用意致します」
一礼した僧侶がそう言って、横に用意されていたワゴンを向いた。
レイは小さく深呼吸をして、入り口横に置かれた立派な剣置き場に、腰の剣を外して置いた。
それから部屋を見回して、本棚に向かう。
何冊もの女神の教典が置かれているのを見て、一冊手に取って端に置かれたソファーに座った。
「あ、そうだ。針始めの儀式って載っていないかな?」
小さくそう呟いて、目次の項目を見ていく。
「ああ、やっぱりあった」
結婚式に関する項目の中にその文字を見つけ、嬉しくなってその頁を開く。
しかし、そこには具体的な事は書かれておらず、幾つかの祈りの言葉だけが書かれていたのだが、どれも初めて見る言葉だ。
「……想いを束ねて糸と為し、その糸を以て生地と為し、ここに花嫁の為の肩掛けを作り始めるなり」
初めて見る祈りの言葉を読んでいたレイは、ある行で思わず止まってしまい声を上げた。
「ええ、ちょっと待って。まさかとは思うけど、糸を紡いで布にする所から始めるの?」
これはちょっと予想外だ。
毛糸なら紡いだ事はあるが、縫い糸はさすがに紡いだ事は無い。布を織るのなんて聞いた事はあるが見た事もない。大きな織り機を使うのだということぐらいしか知らないので、これも全くの戦力外だろう。
思わず、自分が今着ている制服を見る。
縫われている事すら気付かないほどに綺麗な縫い目を見て、遠い目になる。こんな縫い方が自分に出来るわけがない。
「これは無理、うん、これは絶対に僕には無理。言われたら潔く辞退しよう」
「あらあら、何を辞退するのかしら?」
思わず声に出してそう言ったら突然返ってきた優しい声に、レイは本を置いて慌てて立ち上がった。
そこには、車椅子に乗ったサマンサ様とマティルダ様を始めとした、大勢のご婦人達が並んでいたのだ。
皇族の女性は、おそらく全員いるだろう。それ以外にも両公爵夫人や婦人会で知っている主だったご婦人達がほぼ全員いる。どう考えても自分がここにいるのは場違いな気がした。
「お待たせ。これで全員かしら?」
マティルダ様の呼びかけに騒めく声が聞こえ、前列にいたミレー夫人が頷いた。
「はい、これで予定している人は全員でございます」
「では参りましょう」
全員に挨拶する事も、誰一人応接室に座る事なく、そのまま先ほどの部屋に移動する。
レイも、教典を慌てて本棚に戻して、外していた剣を持って後を追った。
先ほどまで何もなかった部屋は、いつの間にか多くの物であふれていた。
机の上には大きな幅の生地が広げられているし、別に用意されたもう少し小さな机には、これも見た事の無い不思議な形の道具が幾つも置かれていた。真っ直ぐな長い棒の端の方に、円盤状の小さな板がさしこまれている、真ん中の芯の部分が異様に長い駒の様だ。
その横には、木箱に入った幾つもの針山とそこに刺さった何本ものとても細い針、大小の鋏もある様だ。束ねられた細い真っ白な糸も、別の木箱に沢山置かれている。
その横にある白糸は先程のものよりも少し太く、以前レイが刺繍した時に使った糸のようだ。
そして壁側にはどう見ても見覚えのある、あの蒼の森の綿兎の毛を入れた袋が、何故か幾つも置かれていたのだ。
呆気にとられるレイの腕を、マティルダ様が取って引く。
「さあ、貴方にはどこをやってもらいましょうかね?」
嬉しそうに目を輝かせて言われても、そもそもここでこれから何をするのかすらレイには想像もつかない。
「あの、大変申し訳ないのですが、ここで何をするのかそもそもさっぱり分からないんです。僕、どうしたら良いですか?」
困ったようにそう言って眉を寄せるレイを見て、マティルダ様だけでなく、それを横で見たサマンサ様までが揃って小さく笑い、直後にそっと抱きしめてくれた。
「当然です。貴方がこの儀式を知っていたら、そっちの方が驚くわ。じゃあ貴方は私と一緒にしましょうね」
嬉しそうにそう言って大きな机に置かれた椅子を振り返った。
気が付くと、大勢の婦人達が机を取り囲む様にあちこちに広がってこちらを見ている。中には腕まくりをしている方もいて驚いた。
しかもよく見れば、皆の着ているドレスが夜会の時よりも質素で飾りも少ない。それに少なくとも、大振りのブローチや大きな指輪を嵌めている人もいない。
髪も、結い上げて留めている方が殆どだが、耳飾りもごく小さく質素なもので髪飾りもピン一本が殆どだ。
マティルダ様や皇族の方々も似た様なものだ。男装のカナシア様は、騎士見習いの様な飾りのない服を着ておられるし、今日は剣を装備されていない。
「生地や糸に引っかけては大変ですからね。貴方も剣帯を外して上着を脱いできなさい」
優しくそう言われて、慌てて剣置き場の横の壁にある金具に、外した剣帯と脱いだ上着を掛けておく。ちょっと考えて、シャツも腕まくりをして肘の部分まで上げておいた。
「これでよろしいですか?」
両手を広げて振り返ると笑顔で頷かれたので、そのままマティルダ様の隣に座った。その横、レイを挟む様に反対側にサマンサ様の車椅子が差し込まれた。
それを合図に、全員が座る。
「それでは、只今より針始めの儀式を開始いたします」
一人だけ入って来ていた年配の僧侶が大きな声でそう言い、婦人達も居住まいを正す、レイも改めて居住まいを正した。
僧侶の声を合図に、正面側の壁に僧侶と巫女が全部で十名、ゆっくりと入って来て並んだ。
巫女達の手には、ミスリルの鈴がある。
クラウディアとニーカそれからジャスミンの姿をその中に見つけて、レイは思わず目を瞬いた。
「そっか、ティア姫様の担当になったって言っていたものね。これもお勤めのうちなんだ」
小さく呟き、何が始まるのかとワクワクしながら彼女達を見ていた。
僧侶の合図で巫女達が一斉にミスリルの鈴を鳴らし始め、一定のリズムでその音が続く。それに続き僧侶達が、レイが先ほど教典で見つけたあの祈りの言葉を唱え始める。
「本日ここに、新たな夫婦となる者の為の贈り物を作り始めるにあたり、我らが母、女神オフィーリアにご報告申し上げるなり。新たなる夫婦となる者達をどうぞお見守りください。新たなる夫婦となる者達に幸いあれ」
「新たなる夫婦となる者達に幸いあれ」
巫女達がそれに続いて唱和し、婦人達もそれに続く。
レイは言葉も無く、目の前の祈りを見ているしか出来ない。
「花嫁の、縁に繋がる人々の想いを束ねて糸と為し、その糸を以て生地と為し、ここに花嫁の為の肩掛けを作り始めるものなり」
ゆっくりと声を揃えて唱えられる祈りの言葉を、レイは目を輝かせて聞いている。
机に置かれた布の上では、ミスリルの鈴の音に誘われて現れたシルフ達が大喜びで手を叩いたり踊ったりし始めたのだった。
『始めるよ』
『始めるよ』
『聖なる儀式を始めるよ』
『想いを込めた糸で縫い』
『気持ちを込めて鋏を使う』
『愛しい儀式を始めよう』
『素敵な肩掛け出来るかな?』
『出来るよ出来るよ』
『始めるよ』
口々にそう言って、互いの手を取って大きな一つの輪になって回り始める。
精霊が見える者達は、シルフ達の楽しそうな舞いを笑顔で眺めていた。
いつの間にかブルーのシルフも現れて輪の中に加わって一緒に回り始め、それに気付いたレイも笑顔になるのだった。
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