翌朝の光景
「ねえ母上、それならタドラ様が兄上様になるの?」
沈黙を破ったのは、アミディアの無邪気な言葉だった。
「そうね。この話がまとまればそうなるわね」
「ええと、おめでとうございます。姉上」
無邪気に笑う妹を見て、クローディアは不安気に母を振り返った。
夫人は黙って立ち上がり、彼女のすぐ側へ行ってしゃがみ込んでそっと手を取った。
「貴女が嫌なら全部無かった事にするわ。どう」
「い、嫌じゃ……ないけど……」
クローディアにとっては、タドラは憧れの存在であり、また兄のような人だと思っていた。
そんな方との結婚という言葉が、不意に生々しく感じられて彼女は戸惑う事しか出来なかった。
「一度、タドラとゆっくり話をしようと思っている。詳しい話は、まずは双方の気持ちを確認してからだ」
俯いたクローディアは握ったままだった母の手を縋るように両手で握り返し、そのまま倒れ込むようにして母にもたれかかった。
「大丈夫よ私達に任せてくれる? きっと、全部良いようにしてあげるから」
そっと抱きしめて、優しくそう言ってくれたその言葉に、小さく震える彼女は頷く事しか出来なかった。
もしも断られたら、どうしよう。
不意に沸き起こった不安に潰されそうになる。
しかし、いずれはこう言った話は、遅かれ早かれ自分の元にも来たであろう。
顔も知らない、会った事すら無い人や、父親ほどに歳の離れた人との結婚を強要される子だっている。それに比べたら、憧れの方と結婚出来るかもしれないなんて、考えてみたら夢のような話だ。
戸惑いと不安、そして不意に湧き上がる喜び。
どんな顔をしたら良いのか分からなくなって、顔をあげられなくて俯いたまま母にしがみついた。
「大丈夫よ、大丈夫」
優しく背中を撫でてくれる母に、必死になってしがみつき続けた。
結局その日の話はそこまでになり、その後はまた、温室へ行って花の世話をする娘達を手伝い、請われるままに、大きな植木鉢の移動を手助けしたりしてのんびりと過ごした。
夕食の席でもその話題には一切触れず、花の鳥を作る際の難しい部分や、苦労した話をしたりして過ごした。
妹のアミディアは何か言いたげだったが、母や姉が何も言わないのを見て、もうそれ以上は何も口にせずにいた。
「それではおやすみなさいませ。父上、母上」
「おやすみなさいませ。父上、母上」
それぞれのメイドに付き添われて、お休みの挨拶をした二人は部屋に戻って行った。
笑顔でその後ろ姿を見送ったヴィゴ夫婦は、揃って小さなため息を吐いた。
「少々強引だったかな?」
「まあ、満点とは申せませんが、貴方にしては中々に頑張られたのでは?」
少しからかうようなその口調に、ヴィゴは今度は大きなため息を吐いた。
「難しいな。強引に進め過ぎると当人達の気持ちを置き去りにしてしまう。かと言って放っておいたら、何処でどんな妙な虫が付かんとも限らんからな」
「国一番の剣士の娘に妙なちょっかいを出すような命知らずが、果たしてこの国にいるでしょうか?」
「馬鹿は何処にでもいる。防御の手立ては一つでも多い方が良いからな」
「まあ、貴方ったら」
小さく笑った夫人は、ヴィゴの頬にそっとキスを贈った。
「ちょっと、あの子と話をしてきます」
「ああ、そうだな。出来れば、今夜は一緒についていてやってくれ」
「そうね、女性同士、枕を抱えて秘密の内緒話をする事にするわ」
嬉しそうに、まるで少女のように笑った妻に、ヴィゴは目を瞬いた。
「待て待て、一体何の話をするつもりだ?」
「もちろん、素敵な恋のお話ですわ」
「恋の話?」
「私が叔父上に紹介されて、貴方にお目にかかった時の事。それから、貴方が初めて私にくださった真っ赤な花束の事。それから、私がラプトルから落っこちた時の事もね」
唐突に、耳まで真っ赤になったヴィゴに、夫人はコロコロと鈴を転がすように笑った。
「恋の始まりは、誰にも分かりませんわ。出会った瞬間にいきなり激しく燃え上がる恋もあれば、本人でさえ気付かないうちにゆっくりと小さな火種を温め続けて、じっくりと育てる恋だってある。恋に正解なんて無いわ。本人が良いと思えば、それが全部正解なんですもの」
「確かにその通りだな。では任せよう。若かりし日の恥ずかしい話で、ディアが元気になってくれるのなら、その程度の辱めは甘んじて引き受けるとも」
大真面目なヴィゴの言葉に、夫人はもう一度笑ってお互いに引き寄せられるように抱きあい、優しい想いを込めたキスを交わしたのだった。
翌朝、ヴィゴは早めに起きて中庭で軽い運動と剣の素振りをしていた。
「おはようございます」
声に手を止めて振り返ると、すっかり身支度を整えたイデア夫人が笑って手を振っている。
「おはよう。昨夜は眠れたか?」
苦笑いしながらキスを贈ると、笑った夫人もキスを返してから小さく笑った。
「もう、本当に全然寝てくれなくて大喜びでいくらでも聞きたがるものだから、途中からは誤魔化すのが大変でしたわ」
「誤魔化す? 何をだ?」
不思議そうに首を傾げるヴィゴに、夫人はもう一度笑ってヴィゴの鼻先にキスを贈った。
「だって、初めてのキスの話は、まあ仕方がないにしても、さすがに初めての夜の事なんてまだ話せませんでしょう?」
それを聞いた瞬間、真っ赤になったヴィゴは膝から崩れ落ちた。
翌朝、いつものようにシルフ達に起こされる前に目を覚ましたレイは、しかし自力でベッドから起き上がる事が出来なかった。
身体中が、まるで初めて棒術訓練を受けた時みたいにカチカチになっていて、もう何処が痛いのか判らないくらいに、とにかく全身が痛いのだ。
「えっと、これどうしたら良いんだろう……」
目を開いて、ベッドに横になったまま固まっていると、不意に目の前にブルーのシルフが現れた。
『おはようレイ。どうした、起きないのか?』
いつものように平然とそう言うが、その声は笑っている。
周りでは、興味津々でいつものシルフ達もレイを覗き込んでいる。
「おはようブルー。ねえ、これってどうしたら良いと思う?」
『何か問題があるか? 普通に起きれば良いではないか?』
「あはは、僕、今日はお休みにしようかな」
『休ませてくれればな』
ブルーのシルフにそう言われて、レイは声無き悲鳴を上げた。
その時、ノックの音がしてラスティが入って来たのが、目の端に僅かに見えた。
もう、正直言って横を向く事すら困難な状態なのだ。
「おはようございます。えっと、ねえラスティ……僕、どうしたら良いと思う?」
「どうかなさいましたか?」
上から覗き込まれて、目だけ動かしてラスティを見ると、完全に顔が笑っている。
「酷いラスティ! 僕、本当に全く動けないんだよ!」
「今、ハン先生をお呼びしますので、どうぞそのままお待ちください」
そう言って、カーテンを開けて部屋を明るくしてから早足で部屋を出て行ってしまった。
「えっと、何とか起きられないかな……」
ゆっくりと、出来るだけゆっくりと腕を動かし、何とか上体を捻って横向きになった所で、再びノックの音がしてハン先生がラスティと一緒に入って来てくれた。
診断の結果、特に問題になるような怪我は無いが、取り敢えず今日は安静にしているように言われた。
その後レイは、下着一枚残して服を全部脱がされてしまい、身体中のありとあらゆる所に、もう肌が見えないくらいに、湿布を全身に隙間無く貼られてしまった。
「
「はい、分かりました」
またベッドへ戻ったレイが大人しく返事をするのを見て、苦笑いしたハン先生は一礼して部屋を出て行った。
「あれ、おはようございます。ハン先生が出てきたって事は、やっぱり?」
丁度ハン先生が部屋を出た所で、白服のルーク達が揃って廊下を歩いてくる所だった。
ハン先生に気付いた三人が、揃って心配そうにレイの部屋を見る。
「おはようございます。まあ、大きな怪我はありませんが、さすがにあれでは動けないでしょうね。今日はレイルズは訓練は禁止です。ヴィゴには私から言っておきます」
その言葉に、ロベリオとユージンは顔を見合わせて肩を竦めた。
「昨夜は割と平気そうだったら大丈夫かと思ったけど、まあ無理無いか」
「だね。じゃあ今日はレイルズはお休みだね」
「じゃあ、今日の突撃訓練は無しか。ヴィゴが残念がるだろうな」
笑ったルークの言葉に、二人は無言で顔を覆った。
「それって、死刑執行が先送りされただけな気がする」
ロベリオの言葉に、ユージンとルークは、堪える間も無く吹き出してしまい、三人は廊下で大笑いになったのだった。
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