変わらない日常と変わる日常

 その日、訓練所から戻ったレイが見たのは、休憩室で疲れ切ってソファーで転がっているカウリと、書類の束と格闘しているヴィゴという珍しい場面だった。

「ああ、もう戻ったのか、おかえり。悪いけど、手伝ってくれるか」

 こちらも書類の束を抱えたルークが入ってきてそう言うので、レイは慌てて書類を持つのを手伝った。

 広げた書類は、どうやら四階の改修工事に関する書類だったようで、ルークに教えてもらいながら整理するのを手伝った。



「えっと、カウリはどうしたの? 大丈夫? 具合が悪いんだったらハン先生を呼んだ方が良いんじゃない?」

「いや、もう診てもらってるよ」

 横になったままのカウリの声に、レイは慌ててソファーに駆け寄った。

「大丈夫? もしかして、また貧血なの?」

 よく見ると、顔色が悪い。

「おう、最近ちょっとマシだったんだけどなあ。久々にデカいのが来たから結構危なかったんだよ」

 情けなさそうにそう言ったカウリは、ゆっくりと起き上がった。

 大丈夫そうなのでカウリにはそのまま座っていてもらい、ヴィゴにも教えてもらいながらレイは書類を一生懸命確認していた。



「それで、訓練所はどうだったんだ? 彼女は来ていたんだろう?」

 ルークの質問に、確認の済んだ書類を綺麗に並べながらレイは頷いた。

「うん、今日はお父上と一緒に来てるって言ってたよ。授業の間に、ケレス学院長と話をしてるんだって言ってました」

「まあそうだろうな。場合によっては授業内容の組み直しからやらなくちゃいけないかもしれないから、保護者との擦り合わせは必要だろうさ」

 起き上がって座ったまま大きく伸びをしてそう言うカウリに、レイはちょっと考える。

「つまり、ジャスミンの授業内容が変わるかもしれないって事?」

「そりゃあそうだろうさ。彼女は日常のお祈りにしたって、恐らく自分で全部唱える事さえ出来ないんじゃないか? そうなら、覚える量は相当だぞ」

 授業の一環で、幾つものお祈りを覚えたレイも苦笑いして頷いた。

「それに関しては、先輩巫女が二人も側にいるんだから、教えてもらわない手はないな」

 ヴィゴの言葉に、レイは嬉しそうに顔を上げた。

「ディーディーも言ってました。何かあったらいつでも聞いてって」

「良かったな。仲間が増えて」

 ルークにそう言われて、レイは大きな声で嬉しそうに返事をしたのだった。




 翌日もキルートと一緒に訓練時へ行き、皆で一生懸命勉強をした。

 どうやらジャスミンは、カウリが言っていたように相当量のお祈りを覚えなければならなくなったようで、それを聞いたディーディーとニーカが付きっ切りで、詳しく覚える時のコツなどを教えていた。



「ディーディーは、もうこれを全部覚えているの?」

 参考書と一緒に置かれた分厚い教典を開いて、レイは小さな声で尋ねる。これを全部本当に覚えるのだろうか?

「もちろん、日々使うお祈りは全て覚えています。でもそれ以外のこれらは、覚えると言ってもお祈りの全文を覚えるわけではありません。覚えるのはこの、いわば目次の部分ですね」

 最初の頁を開いて、幾つも書かれた項目を指差す。

「様々な祭事の際には、必ずそれを行う際に唱えるお祈りが全て決まっているんです。なので、事前にこの目次部分を覚えていれば、どれを唱えるかすぐに分かるでしょう? 祭事は一年を通じてあらかじめ決められていますから、事前に絶対に分かります。それならどれを唱えるのかは事前に分かるので、それを予習すれば良いだけです。初めての年は確かに大変ですが、二年目以降は一度覚えているお祈りですからね。例え忘れていても、唱えていればある程度は思い出します」

「成る程ね。そっか、日々のお祈りはともかく、祭事の際に唱える特別なお祈りは、一から全部覚える必要も無い訳か」

 横で聞いていたマークが、感心したように呟く。

「日常のお祈りくらいは確かに覚えているけれど、それだってちょっと唱える程度だったから、こんなにきちんと勉強していないもの。だから全部詳しく教えて頂けるようにお願いしたんです。来週から精霊王の神殿から神官様が来て下さるそうなので、授業の一環でそれもここでするそうですよ」

「私達も、その授業には参加するように言われたんです。ニーカは分かりますけれど、どうして私まで一緒なんでしょうね?」

 全く自分の置かれた状況を理解していないクラウディアの言葉に、ニーカとジャスミンは顔を見合わせて小さく頷き合った。

「ジャスミンの先輩役なんじゃない? でも一緒に勉強してくれるなら私は心強いわ。それより、ジャスミンは精霊王の巫女になる訳じゃないのね」

 計算問題のページを開きながら、ニーカが不思議そうにそう質問した。

「あくまで、私の役目は竜騎士様がされている祭事に関する部分を担当するという事らしいです。なので所属は神殿ではなく、あくまで竜騎士隊なんですって」

「今、僕らのいる上の階を女性専用の階にするのに、改修工事が入っているよ。将来的には、ニーカも本部に来るんじゃないの?」

 計算問題を解いていたニーカは、目を瞬いて手を止めた。

「さあ、どうなのかしらね? 私はどちらでも構わないけど、ディアと別れるのは寂しいなあ」

「私も寂しいけれど、ニーカも成人したら竜騎士隊の本部へ行くんじゃないの?」

 顔を見合わせたクラウディアとニーカは揃って首を傾げた。

「分からないけど、何であれ、私は言われる事をするだけよ」

「そうね、これからもよろしくね」

 笑顔で頷き合い、それぞれのノートに目を落とした。

「ニーカの扱いって、確かに考えれば難しいよな」

「そうだな。まあそれは陛下が考えて下さるだろうよ」

 マークの呟きに、キムが小さな声で答える。

 揃ってため息を吐いた二人も、自分の勉強に没頭するのだった。




 しばらく平和な日が続き、レイはお城で開かれる幾つかの会議にルークに連れられて始めて顔を出した。それはまだ発言権の無い聴講という形での参加だったが、レイは必死になって話の進行や様々な人達の発言を聞いていたのだった。

 それから、青年会の会合に参加したりもした。

 正式に見習いとして紹介されてから、こう言った今までした事がない事が多く増え、あまりゆっくり自分の時間が取れなくなったレイだった。



 そして、初めて自分の後援会が主催してくれる夜会にも参加した。それも、今までは常に竜騎士隊の誰かが一緒だったのだが、始めて一人での参加となったのだ。

 当然、主催者はマティルダ様で、錚々たる顔ぶれが並んでいるのを見て、改めて挨拶しながらレイはちょっと本気で帰りたくなったのだった。



「もうすっかり、こう言った場にも慣れたようね」

 挨拶の嵐がようやく一段落して一息ついたところで、隣に来てくれたマティルダ様に小さな声でそう言われて、レイは小さく首を振った。

「とんでもありません。何か失礼をしたらどうしようと思って、必死になって習った事を思い出しています」

「大丈夫よ。貴方は充分過ぎるくらい立派にやり遂げていてよ」

 目を細めてそう言われて、レイは嬉しくなって大きく頷いてお礼を言った。

「そうそう、明後日の午後からは何か予定はあって?」

 マティルダ様にそう聞かれて、レイはちょっと考える。ニコスのシルフが何も言わないところを見ると、特に大きな用は無いようだ。

「えっと、そう言えば午後からの予定は聞いていませんね」

「それなら、明後日の午後から、良かったらヴィゴとカウリと一緒に奥殿へ来てちょうだいな。貴方達に見せたいものがあるのよ」

「ええ、なんですか?」

「内緒よ。来てくれれば分かるわ」

 内緒話をするかのように顔を寄せて小さな声でそう言われて、レイも自然と笑顔になった。

「かしこまりました、本部に戻ったらヴィゴとカウリの予定を聞いておきます」

 レイもカウリもマティルダ様直々のお誘いを断る事などないのだが、ここでは敢えてそう答えておく。

「ええ、美味しいお菓子も用意しているからね」

「それは楽しみです」

 にこやかに、堂々とマティルダ様と話をするレイルズの事を、周囲の人達は無言で感心しているのだった。



「明後日の午後からは、ヴィゴのところのお嬢さん達と、それからジャスミンも招待しているのよ。きっと賑やかになるわね」

 招待されたのが自分達だけでは無いと知り、レイは少し安心した。

 かなり慣れたが、まだ陛下やマティルダ様とお話しする時は少し緊張するので、他にも人がいれば嬉しいなと思ったのだ。

「ジャスミンがいるのなら、きっと新しい竜の主をディアやアミーにも紹介するんだろうね。歳も近いし、仲良くなれたら良いのにね」

 ブルーのシルフに、レイは無邪気にそう呟くのだった。

『そうだな。まあ楽しみにしていなさい』

「ブルーは、明後日、何があるのか知ってるの?」

『もちろん知っておるぞ。だが内緒なのだから我が話したら王妃に恨まれそうだからな。内緒だ』

「ええ、ずるいよ! 僕だけ知らないって、なんだか悔しい!」

 口を尖らせて文句を言うレイに、隣で聞いていたマティルダ様は、堪えきれずに小さく吹き出すのだった。

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