父と息子

 竜騎士隊の休憩室を出たヴィゴとマイリーは、早足で城にある第二訓練所へ向かっていた。

 ようやく目的の場所に到着した時、その場にいたのは皇王とアルス皇子の二人だった。

 執事の案内で、誰もいない第二訓練所に入った四人は、顔を見合わせて頷き中に足を踏み入れた。

「光の精霊ウィスプ、この場の確認をしてくれ。呪術的な仕掛けやカラクリは無いな」

 アルス皇子の言葉に、彼の指輪から五人の光の精霊が現れ、部屋の中を飛び回った。

 全員が無言で入った場所で立っている。


『問題無い』

『ここは清浄なる場所』


 全員が皇子の目の前へ来て、何度も頷きながらそう言って笑った。

「よし、ご苦労だったね。指輪に戻ってくれ」

 全員が指輪に戻るのを確認すると、皇子は顔を上げて隣に立つ父を見た。

「問題ありません。二人を呼んでください」

 その言葉に頷いた皇王はシルフを呼び、ディレント公爵とルークを呼ぶように頼んだ。

「それでは、二人が来るまで我らはここを守るとしよう」

 その言葉に、三人は頷き、壁際に置かれた大きなソファーに並んで座った。



 今、皇子がやったのは正式な決闘や勝負の際に行われる、第三者による場の確認だ。

 勝負の当事者である二人のうち、ルークは精霊魔法を上位まで使いこなすが、ディレント公爵は逆に精霊を見る事も声を聞く事も出来ない。当然、精霊魔法の類も全く使えない。

 その為、勝負の場に何らかの精霊魔法の仕掛けが無いか、第三者が確認してから呼ぶ事になっているのだ。

 私闘を厳しく禁じている現状では、こうして第三者による確認を経て、立会いの元で堂々と勝負をするのだ。



 しばらくの沈黙の後、ヴィゴが口を開いた。

「ルークの気持ちは分かるが……しかし、思い切った事をしたものだな」

「そうか? 当事者のヒューは、いきなり『勝負を申し込まれた。立会人を頼む』と言って私のところへ来たが、ずいぶんと嬉しそうだったぞ」

 皇王は、長年の親友であるディレント公爵の事をそう呼ぶ。

「まあ、全く無視していた時の事を考えれば十分な変化でしょうが……」

 ヴィゴが何か言いかけたその時、扉が開いてディレント公爵が現れた。少し離れた後ろには、第二部隊の兵士の格好をしたままのルークの姿もあった。

「お忙しい中、お時間を頂きありがとうございます」

 公爵の言葉に、ルークも頭を下げた。

 立ち上がった四人はそれを見て頷くと、部屋の四隅に置かれた椅子に行きそれぞれに座った。

 ルークが無言で剣帯を取り、上着も脱いで椅子に置いた。公爵も、着ていた変装の為の上着を脱ぎ、隣にいた執事に放り投げるように渡した。今の公爵は剣を帯びていない。



 二人は揃ってゆっくりと広い訓練所の真ん中へ行き、そこで向かい合った。



「いつでも良いぞ。かかってこい!」

 公爵の大声に、しかしルークは冷静だった。

 戦上手で知られる公爵は自身も優秀な戦士でもある。

 ルークとて鍛えた大きな体をしているが、今の彼は体格では公爵に負ける。迂闊に懐に飛び込み、あの太い腕に捕まったら不利になるのは目に見えていた。



「来ないならこっちから行くぞ!」

 声と同時に、固く握られた公爵の右手が繰り出される。

 一瞬で顔面に迫ったその拳を、ルークは冷静に仰け反って避けると、そのまま後ろ手に手をついて転がり距離を取る。そうはさせじと一気に迫る公爵の腹に、下からルークの拳が迫る。


 パーン!


 甲高い音が立ち、ルークの目が驚きに見開かれた。

 完全に死角から繰り出した腹を狙ったルークの拳は、公爵の左手に完全に止められていたのだ。

 咄嗟にその手を振り払って後ろに転がる。

「どうした! 男なら拳で勝負するのだろうが! 逃げ回っていて何とする!」

 一喝されて、ルークの顔が歪む。

「ぬかせ!」

 咄嗟に前に出て右の拳でその顔を殴る。ほとんど同時に殴り返され、二人は互いに吹っ飛ぶように後ろに転がって距離をとった。



 そこからはもう、作戦も駆け引きも何も無い、ただの力任せの殴り合いになった。



 殴り合う鈍い音がする度に、見届け役の四人の眉が上がり、実際には拳での本気の殴り合いなどした事が無いアルス皇子は、音がする度に自分が殴られたかのように痛そうに顔をしかめていた。






「なんじゃと! 今、何と言った! もう一度言え!」

 白の塔の部屋で部下達と一緒に、珍しい薬草を手に薬談議に花を咲かせていたガンディは、いきなり現れたマイリーからの使いのシルフの言葉に、思わず立ち上がってそう叫んだ。

『ルークとディレント公爵が拳で勝負する』

『念の為城の第二訓練室へ来てくれ』

『治療の為の薬も忘れずに』

 言うだけ言って、そのまま返事も聞かずにいなくなったシルフを見送ったガンディは、大きなため息を吐くと、呆然とこっちを見ている三人の部下を見てにっこりと笑った。しかしその目は全く笑っていない。

「其方達は、何も聞いてはおらぬ。……良いな?」

 目が笑っていないのに笑う彼を見て、恐怖のあまり無言で何度も頷く部下達に満足げに頷き、ガンディはそのまま足早に部屋を出て行った。

 それを見送った部下達は、しばしの沈黙の後、全員揃って大きなため息を吐き、顔を見合わせてそれぞれが黙って首を振った。

 それから何事も無かったかのように、彼らは薬草を手に話を続けたのだった。



 医術に関わる者達には、見てはいけない事や聞いてはいけない事に関わったりする事が多い。その為、当然だが彼らには守秘義務が発生する。

 彼らはそれをよく知っていたし、また理解していた。

 それにルークと公爵の親子の確執は、城では知らぬ者は無いほどの有名な話だ。

 どうなるのか知りたい気持ちも無い訳ではなかったが、賢明な部下達は、今の話は全員が聞かなかった事にしたのだった。






「うぐっ!」

 顎にまともに入った一撃に、公爵が逃げるように後ろに転がった。

 顎に一撃を食らうと頭が揺れるのですぐに次の動作が取れない。身を守るための咄嗟の動きだったが、その機会を逃すまいと上から飛びかかってくるルークを、公爵の左足が横から思い切り蹴飛ばした。

 その勢いを止めきれずに、ルークは横に吹っ飛ばされ床に叩きつけられる。

 しかし、二人ともすぐに立ち上がってまた向かい合う。

 もう二人の顔は、口元や頬が赤く腫れ上がり酷い事になっている。しかし、二人共殴り合いの手を止めようとはしない。

 もう何度目か分からない殴り合いの最中に、突然死角から繰り出されたルークの左手が、物凄い勢いでまともに公爵の右頬にぶち当たった。



 それは、見ていたマイリーとヴィゴが咄嗟に立ち上がったほどの強烈な一撃だった。

 まさかの左からの強烈な攻撃に吹っ飛ばされた公爵が、受け身も取れずに床に叩きつけられるように転がる。一回転して床に転がったままその場に倒れた公爵は、もう立ち上がる事は出来なかった。



 二人の激しい息遣いだけが訓練所に響く。

 しばらくの沈黙の後、陛下が立ち上がって右手を上げた。



「そこ迄だ。勝負あった」



 その瞬間、ルークも崩れ落ちるようにその場に膝をついた。

 口を開けて床に手をつき、えずくようにして咳き込みながら必死になって息をする。真っ赤になった顔は一気に吹き出した汗でびっしょりになり、床に、顎を伝って血の混じった汗の雫が落ちて散った。



 慌てたヴィゴが駆け寄って、その背中をさすってやる。

 口を歪めて笑ったルークは、そのまま倒れるようにして床に仰向けに転がった。血まみれの両手は投げ出されたままだ。

 傍にしゃがみ込んで心配そうに覗き込むヴィゴと目が合い、ルークは小さく咳き込みながら笑った。



 倒れたまま動かない公爵にはマイリーと陛下が駆け寄り、両脇を抱え上げて、壁際に置かれた大きなソファーに横に寝かせた。

 絞り出すような呻き声が聞こえて、ルークは顔を上げた。

「何だ。残念……まだ、生きてるのかよ」

「……残念、だったな……まだ、死んで無い……ぞ」

 ソファーに横になった公爵の口から、笑いを含んだ声が聞こえ、ルークも堪えきれずに転がったまま吹き出した。

 静まり返った広い部屋に、二人の笑う声だけが響いていた。



「ああ、久し振りに、本気で、殴り合ったぞ」

 まだ息を切らせたルークが、天井を見上げたまま笑ってそう呟く。

「私は……ここまでの、殴り合いは……初めてだ」

 それを聞いたルークは、鼻で笑った。

「上品なお貴族様は、言う事が、違うね」

「ぬかせ。ああ……歯が折れたぞ、これは……全く……何て事を、して、くれるんだ……お前は」

 公爵もまた天井を見上げたまま、話している内容とは裏腹に、顔は妙に嬉しそうに笑っている。

 それを黙って見ていたマイリーは、呆れたようなため息を吐いて立ち上がり、シルフを呼んで隣の控え室で待機しているガンディに、来てくれるように頼んだ。



 入って来たのは、ガンディとハン先生の二人だった。それぞれに第二部隊の医療兵と衛生兵が付いている。

 公爵にはガンディが、ルークにはハン先生がそれぞれ駆け寄り、助手達と共に手早く怪我の手当てを行なう。



「全く、無茶をするにも程があろう。ご自分の歳をお考えくだされ」

 公爵の開いた血まみれの口元を覗き込みながら、折れた歯を見て呆れたようにそう言うガンディの言葉に、それでも公爵は笑顔だった。

「本気で勝負を申し込まれたのだ。本気で応えねば、男が廃ると言うものだろうが」

「それで、歯を折っておっては世話無いな」

 一言でそう切り捨てられて、更には折れた歯を引っ張られて公爵は呻き声を上げた。

「いたた。おい、麻酔が効いているのでは無いのか! 頼むからもうちょっと優しくしろ!」

 折れて抜けかけた歯を一気に引き抜かれて、公爵は悲鳴を上げた。

 隣で並んで手当てを受けていたルークが、それを見て堪える間も無く吹き出した。

「さらば、前歯殿。長年のお務め、ご苦労様でありました」

 それを聞いたその場にいた全員が、堪える間も無く吹き出したのだった。



「痛い! やめろ! 笑わせるな!」

 涙ぐんでそう叫ぶ公爵を、ルークは横目で見て鼻で笑った。

「俺は痛み止めが効かないんだぞ。 麻酔の効く奴が何を言ってる」

「知るかそんな事」

 顔をしかめて言い返す公爵を、ヴィゴ達は驚いたように見つめていた。

 二人の間にはもう、今までのような不自然に張り詰めた緊張感は全く無かった。

「はい。これで良いですよ。骨には異常は有りませんが、顔はまあ……諦めてください。これはかなり腫れますよ」

 氷で冷やした布で顔を冷やしてやりながら、ハン先生が呆れたようにそう言って立ち上がった。

 笑いを収めたルークは、歯の手当てを終えて打ち身に湿布を当てられている公爵を改めて見た。

 もう、その顔には怒りも、憎しみも無かった。



 処置の終わった汚れた布や薬を持って、医療兵と衛生兵達が一礼して部屋を出て行く。

 部屋には、ルークと公爵、立会人達とガンディとハン先生だけになった。



「勝負は其方の勝ちだ。もう何も言わん。これからは好きにすると良い」

 改まった公爵の言葉に、ルークは眉を上げた。

「今までだって好きにして来たよ。勝負は俺が勝ったけど……教えてやるよ。俺があんたを許せなかった時の事をね」



 ルークの言葉に、その場にいた全員が驚いたように彼を見た。



「俺はここに何の説明も無しに、強制的に連れて来られて、竜との面会でパティと出会った……その事については、本当に感謝してる。あのクソみたいな場所から出て行く機会を与えてくれたんだからな」

 ルークはそう言うと、ハン先生から新しい布をもらって頬に当てた。

「それから半年、俺は必死になって勉強した。誰からも馬鹿にされたく無い一心でね。あんたはその間、一度たりとも俺に会いに来なかった」

 公爵は目を閉じたまま、一言一句聞き漏らすまいと黙って話を聞いている。



「次に俺があんたに会ったのは、俺のお披露目の時……あんたはもう忘れているだろうけど、その時あんたは陛下にこう言ったんだよ『私の自慢の息子ですから』ってね。今まで全く見向きもしなかったくせに、竜騎士になった途端に手のひらを返すような言い方しやがって、恥ずかしくないのか」

 それを聞いた公爵は驚きに目を見開き、陛下と皇子は妙に納得したように頷いた。

「確かにヒューはそう言ったな。それはお披露目の時だったか? まあ、唐突な言葉だったから違和感を覚えた記憶があるぞ」

 陛下にまでそう言われて、行った事自体全く記憶にない公爵は困ってしまった。

 そんな事で? その一言で、あそこまで恨まれ憎まれる程の事か? しかし、賢明にも公爵はその思いを口には出さなかった。

 代わりに口から出たのは、素直な詫びの言葉だった。



「それは……すまぬ、全く私には言った記憶が無い。しかし、お前がそれ程にその言葉で不快な思いをしていたのだとしたら……せめて謝らせてくれ。長い間気付きもせずにいて、本当にすまなかった」

 頭を下げる父親を見て、ルークは何とも言えない顔になった。

 もう良いと笑ったら良いのか、それとも、まだ許さないと怒るべきなのか、どちらの気持ちも彼の中にあって、どんな顔をすれば良いのか分からなくなった。

 それからもう一つ。まさか、こんな素直に詫びられるとは思ってもいなかったからだ。



 しばらくの沈黙の後、ようやくルークは口を開いた。

「もう良いよ。さっきの拳で全部無かった事にしてやるよ。改めてよろしく……父上」

 そう言って包帯だらけの右手を差し出す。

 呆然とそれを見た公爵は、同じく包帯だらけの右手でその手を握った。



「痛い! 力一杯握るな!」

 全く同じ言葉が二人の口から同時に出て、どうなる事かと固唾を飲んで見守っていたその場にいた全員から同時に、堪えきれない笑いが起こったのだった。

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