日常と非日常

 翌朝、いつものようにシルフ達に起こされたレイは、目を覚まして見えた光景が嬉しくて、毛布に縋り付いたまま笑顔が浮かぶのを止められなかった。


『おはようおはよう』

『朝からご機嫌ご機嫌』

『ご機嫌ご機嫌』


 レイの笑顔につられて、シルフ達も嬉しそうに飛び回っている。

「おはよう。さあ、今日は何をするのかな?」

 腹筋だけで勢い良く起き上がったところで、ノックの音と共にタキスが顔を出した。

「おはようございます。おや、もう起きてるとは感心ですね」

 着替えているレイの背中を叩いて、タキスはシャツから顔を出したレイの額にキスをした。

「おはよう。今日も良い天気だね」

「ええ、しばらくお天気のようですから、今日から麦の刈り取りと、天日干し作業をしますよ。全部力仕事ですので頼りにしてますからね。しっかり働いてください」

「麦畑、綺麗に実ってたもんね」

 畑の奥にある広い麦畑を思い出して、レイは大きく伸びをした。いよいよ本格的な畑仕事が始まる。特に、麦は、収穫して天日干しの為に積み上げて脱穀するまでが大仕事なのだ。

「まあ、収穫するのも貴方は初めて見ますからね、きっと驚きますよ」

 笑いをこらえるタキスを見て、レイは首を傾げた。

「どう言う事? 麦の刈り取りなんて、鎌で切り取る以外やりようがないでしょう?」

「それは見てのお楽しみですね。さあ、顔を洗ってきてください。私は先に居間に戻ってます」

 立ち上がったタキスと一緒に、レイも部屋を出て洗面所に向かった。




「おはようございます!」

 顔を洗って居間へ行くと、ギードが踏み台に乗って、大きなお弁当箱を棚から取り出したところだった。

「おはようさん。今日も良い天気じゃぞ。今日から夏の最大の大仕事、麦の刈り取りにかかるからな。頼りにしてるぞ」

 それを見て慌てて駆け寄り、ギードから下ろしたお弁当箱を受け取った。

「おはよう。レイ、それはこっちへ持ってきてくれるか」

 竃の前に立って作業をしていたニコスが、振り返ってレイの持っているお弁当箱を指で示した。

「ここで良い?」

 二段重ねの大きな箱を台所の作業机の上に置くと、それを見たニコスは頷いて大きな鍋を火から下ろした。

「ああ、ありがとう。それからパンが焼けてるから出してくれるか。右側の二列が今食べる分で、あとは網に取り出しておいてくれ」

 平たい鍋に卵を割り入れながらそう言うと、別の大きな鍋を隣の火にかけた。

「薫製肉は、これで良いのか?」

 肉切り用のナイフを持ったギードが、作業台に置いてあった薫製肉の塊を見た。

「ああ、全部切ってくれ。昼用はパンに挟むから、半分は残しておいてくれよな」

 頷いたギードが、大きな肉の塊を切り始めた。

「そう言えば、夏の間に一度狩りに行っておくべきじゃな。肉の在庫が心許なくなってきたわい」

 確かに、あれだけあった肉の在庫も少なくなってきている。

「麦の収穫が終われば、後はまあ、それ程手のかかるものはないからな。すまないが肉の確保はよろしく頼むよ」

 食材の管理には常に気を使っているニコスも、頷いてギードの言葉に同意した。

「冬までの間に、もしまた誰か来るようなら……そうですね。早めに狩りに行っていただく方が良さそうですね」

 お皿やカトラリーを用意していたタキスも、それを聞いて頷いた。



 窯から取り出したパンをまとめて籠に盛って、机に置いたレイは、残りのパンを取り出して網に並べていった。

「ああ、パンの焼ける良い匂い! 駄目だ、僕お腹空いたよ」

 取り出したパンの良い匂いに、レイは思わず笑ってそう叫んだ。


『良い匂い』

『良い匂い』

『美味しい美味しい』


 現れたシルフ達が、クルクルとレイの周りを飛び回って遊んでいた。

「じゃあシルフ、パンに優しく風を送って冷ましておいてね」

 網に並べられた、まだ熱々のパンの横に座ったシルフ達にそう頼んで、レイは机に戻った。

 机の上に並べられたお皿には、サラダと茹でたじゃが芋、炒り卵と薫製肉が山盛りに盛られている。

 野菜のたっぷり入ったスープをもらって、ニコスも座ってから、皆で精霊王にお祈りをしてから食べ始めた。



「あっちの大きなお鍋は、お昼ごはん用なの?」

 台所の作業机に置かれた大きな鍋は、普段はあまり使っていない大きさだ。

「あれは今晩の分、弁当は、作業の合間に食べられるように全部パンに挟むんだ。それなら片手で食べられるだろ」

 振り返って鍋を見たニコスが笑って教えてくれる。

「食べたら、俺は弁当と夕食の準備をしてしまうから、家畜と騎竜達の世話は頼むよ」

「楽しみだな、ニコスのお弁当。あ、そう言えば干し草作りもしないとね」

 パンを千切りながらそう言うと、ニコスが笑って首を振った。

「干し草の備蓄はもう出来てるよ。今年はノーム達が張り切って作ってくれたからな。納屋と厩舎の奥に、山ほど積み上がってるよ」

「そうなんだ。干し草作りも大変だもんね。あとでノーム達にお礼を言わないとね」

 すっかりいつもの日常が戻ってきて、皆笑顔が絶えない朝ごはんの時間になった。



 食後のお茶は、レイの前にはカナエ草のお茶が置かれた。レイはタキスに貰ったお薬を飲んでから、そのお茶に蜂蜜をたっぷり入れた。

「そう言えば、蜂蜜は充分ありますか?」

 それを見ていたタキスが、思いついたように顔を上げてそう言った。

「ああ、大丈夫だ。今年は巣箱を増やしたからな。天気も良かったから収穫もかなりあったし、まだ街で買ってきたお茶が手付かずで残ってるから、俺達はいつものお茶にして、レイの分にカナエ草のお茶を淹れてやれば良いだろう」

「手間かけさせて、ごめんなさい」

 自分だけ、わざわざ別にお茶を用意してもらうのが申し訳なくて思わず謝ったが、ニコスは真剣な顔で首を振った。

「何言ってるんだ。これのおかげでレイが病気にならないって分かってるんだから、いくらでも喜んで用意してやるよ。あ、畑に持っていく分のお茶も作ってあるから、水筒を間違わないようにな」

「うん、ありがとう」

 照れたように笑って、お茶を飲んだ。

 今飲んでいるこのお茶は、ガンディが帰る時に沢山持たせてくれたお茶だ。

「そう言えば、訓練所の横の林にカナエ草の群生地がいくつかあるんですよ。なので、南側には訓練場所を広げないでくださいね」

 自分の分のお茶を飲みながら、タキスがニコスを見てそう言った。

「そうなのか、分かった。そっち側には広げないようにするよ。カナエ草って、畑で作らなくて良いのか?」

 カナエ草を作る為に、どこの畑を使うかギードと相談していたニコスは、驚いたようにそう言った。隣ではギードも同じように驚いて顔を上げている。

「レイ一人分程度なら、自然に生えているもので充分作れます。カナエ草は人間には有害な植物ですから、無理に畑で作る必要はありませんよ」



 それを聞いたレイは、隣で小さく頷いた。

「そっか、あれがカナエ草だったんだよね」

 皆、だいたい子供の頃に知らずにカナエ草に触ってしまい、手や腕、足だけでなく、うっかりその手で擦った瞼まで腫れるという酷い目にあった覚えが、誰でも一度や二度は絶対にある。

 レイも、小さな頃に畑の隅に生えていたカナエ草にうっかり触ってしまい、酷い目にあった事があるのだ。

 酷い痛みと腫れ上がった瞼に大泣きして、母に何度も川で洗ってもらい、ようやく痛みが取れるまで、村中から心配されたのだ。

 しかし、ようやく落ち着いて村に戻ると、村の大人達から笑われてしまい、随分と恥ずかしい思いをしたのだ。



「タキスは、素手でカナエ草に触っても大丈夫なの?」

 心配そうにそう言うレイに、タキスは自分の手を見せて笑った。

「竜人は、カナエ草に耐性があるらしく、素手で触っても大丈夫ですよ。瞼が腫れた事もありませんね」

「わしも大丈夫じゃぞ。ドワーフも耐性があるんだろう。カナエ草といえば、虫も寄り付かんから、昔は鉱山の入り口に干したカナエ草を丸めて火種を作って、煙を出したりしたのう」

「ああ、カナエ草の虫除けですね。それは私も子供の頃にやりましたよ。ですがあの煙も人間には有害だそうですから。もし使う事があるなら、体につけてこないように気を付けてくださいね」

「今は、別の薬草を香炉で焚いておるから、カナエ草は使っておらんよ。ああそう言えば、鉱山の横の林にもカナエ草の群生地があるわい。必要なら、言ってくれたら取ってきてやるぞ」

「それは心強い。いざとなったらお願いします」

 飲み終わったカップを置いて、タキスは頷いた。



 レイがここにいる間は、カナエ草は絶対に必要なものだ。万一、何かあって林の群生地で収穫が出来なくなった時の為に、別の群生地がある場所を把握しておくのは良い事だと思えた。



「そうだ。ノーム達に聞いて、蒼の森のカナエ草の群生地の場所を把握しておきましょう」

 思わずそう呟いて、小さく頷いたタキスは立ち上がった。

「さてと、それじゃあ皆を上の草原へ連れて行くとするか。それが終わったら麦畑の収穫じゃ」

 ギードもカップを置いて立ち上がり、レイも最後のお茶を飲んでから立ち上がった。

「それじゃあ頼むよ。終わったら俺も行くからな」

 食器を片付けるレイに声をかけて、ニコスは窯の横にあるパンを冷ましている網棚に向かった。それに返事をしたレイは、食器を置いてからニコスに手を振って外に出て行った。






「ふあぁ、さすがに少し眠いや」

 朝、シルフに起こされたルークは、ベッドから起き上がって大きな欠伸をした。

 昨夜、兵舎に帰って早々、待ち構えていた三人からの質問責めにあい、かなり遅い時間まで休憩室で話をしていたのだ。

 皆、目を輝かせて聞くものだから邪険にも出来ず、ついつい夜更かしになってしまったのだ。

「腕は思ったよりも痛くないな。加重訓練をもう少し増やすか」

 左手を握ったり開いたりしながら考えた。

 この旅で、かなり腕に負担を掛けたと思ったが、案外、良い訓練になったようだ。

「おはようございます。そろそろ起きてください」

 ノックの音がして、ジルが扉から顔を出した。

「ああ、おはよう。起きるよ」

 腕を伸ばして大きく伸びをするルークを見て、ジルは嬉しそうに笑った。

「左腕、かなり動くようになってきたみたいですね」

「ああ、傷自体はもう殆ど塞がってるんだし、後は回復するだけだよ」

 ルークは比較的怪我に慣れているから平気だが、後方支援が主な役割のジルは、訓練こそ受けているが実際の戦場へ出た事は無い。その為、ルークが怪我した事を知った時には相当心配したらしい。

 今でも湿布を変える度に毎回痛そうな顔をするので、ルークの方が申し訳ない気分になるのだった。



 湿布を替えた後、肩から背中をマッサージしながらジルも森での事を聞きたがったので、農作業や食料を倉庫に片付ける手伝いをした時の事を話した。

「ずいぶんと良い暮らしをしておられるのですね。地方の村の農民はもっと貧しい生活ですよ」

 ジルは、地方の農村出身の五男で、実家は酪農と養鶏を営んでいる。自分達家族が食べるくらいの作物も作っているので、殆ど一年中休みの無い生活だった。

 軍人になったのはジルだけで、彼は今でも実家に仕送りをしている。

「俺は、畑仕事や家畜の世話はした事が無いからな。色々知れて勉強になったよ。畑の土があんなに柔らかいなんて初めて知ったな」

「収穫が終わった土ですよね、もうそれならかなり硬いと思いますが? 春の植え込み前の、うね起こしが終わったばかりの土は、それこそ綿みたいにフカフカですよ」

「レイルズも、そんな事言ってた。今は収穫が終わったばかりだから硬いって。それでも、俺が知ってる土に比べたら、柔らかいなんてもんじゃなかったな」

 楽しそうに話すルークに、ジルは笑って自分の家の畑でやっていた事を思い出した。

「収穫が終わったら、お礼肥れいごえと言って、土に肥料を入れてやるんですよ。その時に肥料ごと土を掘り返して、土の中に空気を入れてやるんです。そうすれば、また春にはふかふかの土になってくれますよ」

 ジルの説明に、服を着ながらルークは感心して頷いた。

「肥料も作ってるって言ってたからな。農家ってすごいな、何でも作っちゃうんだ」

「まあ、肥料も土もどこにも売っていませんからね。無い物は自分達で工夫して作る。当然でしょ?」

 ボタンを留めながら、当然の事のようにそう言うジルに、着替えが終わったルークは苦笑いするしかなかった。

 剣帯を装着して、剣を取り付けながら小さな声で呟いた。

「逞しいな」

「農民にとっては、働くこと事こそが生きる事そのものですからね」

「そうだな。そうやって皆が働いて作物を作り、牛を育て鶏を飼ってくれるから、俺達が食べていけるんだからな。感謝しないとな」

 大方の貴族は、自分達が食べているものが、何処でどうやって作られているのかなんて考えもしない。そんな風に考えてくれただけでも、行って、土に触ってきた価値はあるのだろう。

 湿布や包帯を片付けながら、ジルは農民の生活を知ってくれようとするその姿勢が少し嬉しかった。






「この有様はいったい何事だ」

「緊急招集だと言うから慌てて来たが……これは思った以上に深刻だぞ」

「問題は何処で起こっている?」

「未だ何も分からん。とにかく、確実な封印の箇所が判っている場所から順に当たるしかあるまい」



 森の中に溶け込むような黒衣の者達の集団は、国境を越えて少し入った、街道から大きく外れた森の中にいた。その中の数人が、顔を寄せ合って相談している。

 周りに立つ多くの者は、何が起こっているのか事態を把握しきれておらず、不安気に自分達よりも年長者の指示を待っていた。

 彼らは基本的に単独行動は取らない。常に二人から数人で動き、基本的に年長者が若い者の面倒を見る。

 ガイのように、勝手に単独行動を取る者の方が珍しいのだ。

「キーゼルからの連絡はまだ無いのか?」

「シルフが見つからんと言ってる。どういう事だ」

「一緒にいるガイはどうだ? それも見つからんのか……困ったな」

 年長者達も、この事態にどうしたら良いか決めかねていた。

 その時突然、現れたシルフがひとりの男の肩に座った。


『見つけたこっち』

『キーゼルが呼んでる』


 それを聞いた男達は、一斉に立ち上がり素早くラプトルに騎乗した。

「案内を頼む」

 先頭の男の言葉に頷いたシルフが飛び上がり、その後を追って黒衣の一団は森の中に消えて行った。



 何が起こっているにせよ、キーゼルが手助けを求めているのは確実だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る