悪夢と現実
お弁当を持って、機嫌良く蒼竜の背に乗って出かけて行った少年を見送って、三人は同時にため息を吐いた。
「なんとか上手くいったわい」
ギードのホッとした声に、タキスとニコスも笑顔で頷いた。
「いつまでも隠しておける事ではないでしょうが、これでしばらくは大丈夫ですかね」
「だな、まあ油断は禁物だろうが」
「後は、街へ出かける準備だな。タキスよ、本当に大丈夫なんだろうな」
ギードの問いに、タキスは笑って頷いた。
「ええ、そちらは任せてください。いくつか準備がありますので、私は部屋にいます。行商人の事はお任せしますね」
さっさと家へ戻るタキスの後ろ姿を見送ると、ギードはニコスの肩を叩いて笑った。
「まだ来ぬというのに、もう逃げられてしもうたわ。では、すまぬが荷馬車を出すのを手伝ってくれ」
「全くしょうがない。まあ、仕方がないのでお手伝いしますよ。ついでに、厩舎の掃除も手伝ってください」
二人は顔を見合わせて、苦笑いしてから肩を竦めた。
自分の部屋へ戻ったタキスは、もう我慢の限界だった。
ここに人間が来る。
そう考えただけで、身体中に悪寒が走る、酷いめまいを感じて、崩れるようにベッドに倒れこんだ。
「エイベル……エイベル」
シーツを握りしめ、何度も何度も、すがりつく様に同じ名前をただ呼び続けた。
その閉じた瞼に浮かぶのは、幼かった我が子の姿だった。
彼の職場である研究棟の庭で、息子はいつも一人で遊んでいた。
ようやく一区切りついた仕事を抜け出し庭に出る。喜んで手を振る息子に笑って駆け寄ると、抱きしめる直前、彼は突然糸が切れるように倒れた。
視界は暗転し、次にそこにいたのは、わずかの間に別人の様に痩せ細った、ベッドに横たわる息子の姿だった。
『一体、何がどうなっておるのか』
『薬が全く効かぬとは、どういう事だ?』
『可哀想だが、もう長くはあるまい』
『可哀想に』
『可哀想に』
同僚達の囁き合う声が聞こえる。
『だが、これは良い研究材料になるぞ』
『良い研究材料だ』
『滅多にない機会だ』
「やめてください! そんなことは許さない!」
自分の叫ぶ声で我にかえる。
心臓が早鐘を打っているかのように早い。
息が出来ない。
うつぶせのまま掴んだ枕に顔をうずめ、必死で息を吐き、息を吸う。
喉がおかしな音を立てて目の前が暗くなる。それでも、必死に頭の中で数を数えながら息を整えた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。ゆっくり深呼吸して呼吸が元に戻ったのを確認する。
緊張して硬くなった腕をゆっくりと動かして、ベッドから起きあがろうとしたが出来なかった。
もう一度深呼吸をして、目を閉じる。体が泥のように重い。
遠くなる意識の中で、過去の悪夢が再び鎌首をもたげて口を開く。抵抗出来ずにその中へ引きずり込まれていった
悪夢の中で見たのは、原因不明の病で急死した息子を、解剖しようとする同僚の人間達との戦いだった。
当時、それを庇い止めようとしてくれたのは、わずか二人の竜人だけだった。
人間にとっては、死んでしまえばその体は用無しなのかもしれない。でも、竜人にとっては、現世で受けた身体は、輪廻の輪を潜った先の新しい世界の礎となるものだ。簡単に損なって良いものではない。ましてや幼い子供の身体に手を出すなど、竜人の常識では考えられない事だった。
体の中の血の流れも臓器の具合も、精霊の目を通せば容易に分かる。
それなのに、精霊と話せないただの人間は、身体の中を知るために死んだ体をわざわざ損なうような事をする。
人間の体なら好きにすれば良い。だが、竜人の体を、ましてや自分の息子の身体を好き勝手に弄られるなど絶対に許さなかった。
その夜、タキスは研究所から息子の亡骸を精霊達を使って取り返し、書類を偽造し、厩舎から盗んだラプトルと共に逃げ出したのだ。
しかし、あっという間に追っ手がかかり、複数の精霊使いと戦う羽目になった。
彼がどれほど精霊使いとしては一流だったとしても、こちらは一人きり、疲労が限界に達したらもう抵抗は出来なかった。
手ひどく痛めつけられ、息子の亡骸は取り上げられた。せめてもの慈悲にと願って手元に残ったのは、わずか一束の髪の毛だけだった。
そしてそのまま、野に放置された。
研究所に帰る事も出来ず、荒野を、森の中を茫然自失のまま彷徨い続け、それでも死ぬことの出来ない自分が心底嫌になった。
最後に迷い込んだ森は他とは違っていて、とても強く原始の、太古の気配を残す古い森だった。
ここならば、自分のことを殺してくれる力を持った幻獣がいるかもしれない。
わずかな希望を抱いて、どんどん奥へと進み辿り着いたのは、恐ろしいほどの静謐な、あちこちから湧き出す水に覆われた白い砂と、深く青い水の湧く大きな泉だった。
言葉も無くその美しい光景に見入った。
我に返った途端に激しい喉の渇きを覚え、夢中で湧き水を飲んだ。その水はほのかに甘く、身体中に染みわたるようだった。
その時、目の前が青に染まった。
「我の眠りを妨げるのは何者だ」
問われた声に呆然と顔を上げると、そこにはとてつもなく、大きく、そして美しい竜がいた。
「私を殺してくださる方を探しております。あなた様ならば、容易に私を殺せましょう。お願いします。私を殺してください」
いっそ晴れ晴れとした笑顔で話す彼を、その竜は静かに見ていた。
だが、襲いかかってくる様子は無い。
「自分で自分を殺しては、輪廻の輪に戻ることが叶いませぬ。私は、亡くなった妻と息子にもう一度会いたいのです。今度こそ間違わぬ様にするために」
焦れて叫ぶ彼を黙って見ていた竜は、静かに首を振ってこう言った。
「我には、其方は死にたがっておる様には見えぬ。しばらく頭を冷やしてみると良い。其方はもうこの森に受け入れられておる。シルフに案内させるゆえ、そこで住んでみると良い」
竜がそう言うと、目の前にシルフが現れて袖を引っ張った。
『行こう行こう案内するする』
「一年、そこで暮らしてみよ。その時にまだ、死にたいと思うなら……考えてやろう」
言い捨てると、静かに泉の中へ戻ってしまった。
その後、シルフに案内されて連れていかれた場所は、かなり昔に放置されたと思われるドワーフの手による岩の家だった。
「タキス、昼食を持ってきましたよ。開けてください」
扉を叩くニコスの声に我に返った。
「ああ、すみません。今開けます」
慌ててベッドから立ち上がろうとしたが、立てなかった。
「大丈夫か? 入りますよ」
そっと扉を開けたニコスが心配そうに覗き込んでいる。どうやら、パニックを起こしたことはお見通しだった様だ。
「ええ、大丈夫です、もう落ち着きました」
苦笑いして、今度は両手をついてゆっくりとベッドから起き上がった。
ワゴンを押して入ってきたニコスは、心配そうに見ていたが、特に何も言わなかった。
今はその気遣いが有り難かった。
「昼の用意と、お茶のセットが入っておるから、好きに食べてくれ。これだけあれば夕方まで大丈夫だろう?」
言うだけ言うと、返事も聞かずに、手を上げて出て行ってしまった。
「……全く、我ながら情けない。年下の彼に気を使わせてしまった」
あとで礼を言おうと心に決めて、まずは食事をとることにした。
街へ出掛ける少年の身を守るために、久々に大掛かりな魔法を使う事にしたのだ。その為には準備しておかなければならない事が沢山ある、呆けている暇はなかった。
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