第163話_消去法の図書館

 しとしと雨の降る音が部屋に静かに入り込む。この天気では今日、洗濯物を干すのは難しそうだ。

 アシュリーはしばらく空を見上げていたのだけど、「うーん」と小さな唸り声が背後から聞こえて、振り返った。声の主は無意識に漏らしただけのようでアシュリーからの視線に気付かず、前髪をモシャモシャと掻き混ぜて難しい顔をしている。愛らしくて思わず笑ってしまったが、声を漏らせば集中を妨げてしまうだろう。口元を押さえ、声を飲み込んだ。

 ベランダの窓を閉ざし、ゆっくりとイルムガルドの後ろを通ってからキッチンへ。背後からちらりと窺ってみたところ、紅茶が底を突きかけていた。おかわりを淹れようと、早速お湯を沸かし始める。

「ねえ、アシュリー」

「はぁい」

 お湯が沸き始めた頃。その音に反応したのか、全く別の理由で集中が切れたのかは分からないが、イルムガルドの方から声が掛かった。アシュリーは一度カップの準備を止めて、彼女の方へと向き直る。切れ長の目は視線が絡むと柔らかく下がり、穏やかな色を見せた。

「手が空いたら、分からないとこ教えて」

「ええ。今お茶を淹れてるから、少し待ってね」

 頷くイルムガルドは表情を緩めている。そして残り少なくなっていた紅茶を飲み干していた。新しい紅茶が入ることが嬉しいのか、勉強をアシュリーに教えてもらえるのが嬉しいのか。アシュリーも無意識に頬を緩めながら、手早く紅茶の用意を進めた。

「あら……化学をやっていたの」

 紅茶を運ぶと同時に、イルムガルドの手元を見てアシュリーは少し眉を顰める。基本の教科の中で、アシュリーは化学が最も苦手なのだ。自分の分かる範囲でどれだけイルムガルドの無垢な問いに答え、疑問を解消してやれるだろうか。不安な思いを胸に、寄せた隣の椅子に腰掛ける。

「それで、何に困っていたの?」

「空気を温めると膨らむって説明が、よく分からない。袋に入れた食べ物を温める時、しっかり封をしてたら弾けちゃうことがあるから、起こるのは分かるけど……」

「そうね」

 実際、料理の経験があれば「なるほどそういえば、あるなぁ」と分かる現象だ。イルムガルドも料理がまるで出来ないわけではない為、ちゃんとその現象と紐づく記憶がある。ただ、説明内容が、納得できるものではなかったらしい。

 改めてアシュリーが教科書の記載を確認してみれば。『熱を加えることで原子や分子の動きが活発化して、各粒子の間隔が広がり、その結果、体積が増える』と書いてあった。アシュリーは苦笑した。

「原子と分子って、なに?」

「そうなるわよね……」

 これはまだ、アシュリーの妹よりも小さな子向けの化学の教科書なのだ。『物質というものは原子や分子で構成されていて』とだけの説明しか書かれておらず、その原子・分子に関する詳しい説明が無い。その辺りはもっと上の学年の子らが勉強することになる。

 しかしアシュリーの記憶では分子は原子で構成されていた気がする。此処に原子と分子がそれぞれ書かれているのは説明として少し違和感だった。原子が分子にならず留まることもあるのだったか。そんなことすら自分は分からないのに、きちんと説明してやれる気がしなかった。アシュリーは軽く頭を振った。

「ごめんなさい、私は化学が苦手なの。原子と分子について、うろ覚えの知識で説明しちゃうと余計に混乱させてしまいそうだわ」

 彼女の言葉にイルムガルドは落胆した様子は無かったが、目を丸めていた。彼女にとってアシュリーは賢い人に属し続けていて、苦手科目があることも意外であるらしい。ただしアシュリーは首都における一般的な教育しか受けておらず、特別に成績が良かったわけではない。しかしイルムガルドにとっては「自分の知らないことをたくさん知っている人」つまり「賢い人」の認識のままで、なかなか訂正されてくれない。内心では項垂れつつ、その件は置いておいて、アシュリーは話を続けた。

「イルは勉強の機会が無かっただけで小さな子ではないし、もしかしたら原子の理論も今の内に知ってしまった方が、この話は理解しやすいのかも」

 小さな内は『広く浅く』知識を学ばせて、上の学年に至った頃に、各分野を復習しつつ掘り下げていくのがこの国ではよくある教育方法だ。ただ、イルムガルドの思考力は充分に大人のそれだ。理解できないと思ったら、「そういうもの」と言ってしまうのではなくて本人が納得できるまで理論を学んでも良いのではないだろうか。

「私だと詳しいことは話せないけれど……あ、モカは? あの子は賢いから、分かりやすく教えてくれるんじゃないかしら」

「嫌。モカきらい」

「ふふ」

 物凄く苦い顔でイルムガルドは首をふるふると小さく横に振った。どうしても嫌であるらしい。彼女のことを「嫌い」と言うのが本当なのかアシュリーは今も疑っているものの、イルムガルドが彼女に教わりたくないのは間違いないようだ。これでは折角の『学ぶ意志』も削がれてしまうだろう。

「じゃあ、イル、他に教えてくれそうな人はいる?」

「うーん、ヴィェンツェスラヴァなら」

「ヴェナは私が嫌」

 今、自分達が身体を寄せ合っているせいで、ヴェナとそうして距離を縮めて教わる光景が頭に浮かんでしまい、アシュリーの声は思わず低くなった。イルムガルドは何処か嬉しそうに笑う。妬かれるのを分かった上で言ったらしい。「意地悪ね」と文句を呟きつつも、アシュリーは伸ばした手でイルムガルドを打つわけではなく、そっと頭を撫でる。この甘さではまるで躾にならないのだろうが、何処までもアシュリーはイルムガルドに甘く接することしか出来ない。

「……とりあえず、図書館で一緒に調べましょうか」

「うん」

 少なくとも『どういうことを調べたいか』程度ならアシュリーも説明できそうなので、図書館に居る司書に助けを求めれば、対象の本はすぐに辿り着けるだろう。

 二人はのんびりと紅茶を傾けた後で。揃って図書館へと向かった。

 WILLウィルに求めれば専用の家庭教師などを付けてもらえることは二人も分かっている。しかしイルムガルドは自らの無知をあまり周りに知られたくないようだし、何よりこうして試行錯誤することも、二人にとっては楽しい時間だった。同じ本を二人で見つめ、「分からないね」と言い合う。そんな日常の一つ一つを大事にしながら、今日も平和で穏やかな時間を噛み締めていた。


 二人がそうして平和に過ごせているのは、遠征が少し減っていて、出動の間隔が少し開きつつあるからだ。

 レベッカの戦場での活躍はおそらく、敵国内とその同盟諸国にも広がっているのだろう。攻撃が小康状態であると軍からの知らせがあった。此方の軍も次々に新型の武器を導入していることもあり、奇跡の子に頼らなければならないような危機的な状況が減っていた。

 その隙にと、ヴェナ達はタワーの子らの面談を取り付け、研究を進めている。

 しかし遠征が減っても総司令官には他にも目が回るほど仕事がある。今日も司令室は多くの職員が出入りし、デイヴィッドも相変わらず缶詰め状態だった。

「――司令、お忙しいところ失礼いたします」

「ああ、グラシア。どうした」

 早足で司令室に入り込んできたグラシアは挨拶もそこそこに、机の前に立つとその場で司令にデータを送信し、内容確認を求めた。

「了承を得たのか。ありがとう、手配に困る点はあるか?」

「問題ありません。ただ、大きな予算を回せる内容ではない為、送迎の飛行機は日程が固定になりそうです。もし不測の事態が起こっても、再調整は難しいかと」

 淡々と説明をするグラシアに対し、デイヴィッドは難しい顔でモニタを見つめ、小さく唸った。

「分かった。確実に引き合わせられるよう、俺の方で調整を試みる。万が一、失敗した場合にも、何とか再び予算を回せるように尽力しよう。相手方には負担をお掛けするかもしれないが、説明を頼む」

「承知いたしました。先方も強く希望して下さっているので、ご理解は頂けることと思います」

 継続してその件を担当するようにとデイヴィッドがグラシアに指示をすれば、彼女は再び「承知いたしました」と言って軽く頭を下げ、司令室を出て行った。

「少しでも、良くなってくれれば……」

 意気込むように彼はそう呟く。

 WILLウィルの総司令官は常に、組織に属する者を広く想い、良かれと思うことの為に方々へと手を伸ばしている。

 ただ、その全てが必ずしも良い方向に流れるわけではない。彼の短所を挙げるとすれば度々それを、読み損ねることなのだろう。

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