第139話_掛け違った絆、いつかの角部屋
そして人当たりも、悪くは無かった。レベッカなどのような人懐っこさは無いけれど、男性に対して少々手厳しいくらいで、基本的には誰に対しても平等に微笑み、穏やかに接する子だ。研究が関わると厳しい意見も入るけれど、理不尽を強いるようなことは全く無い。何より彼女は誰よりも自分自身に厳しいこともあって、彼女の振る舞いを不満に思う者は居なかった。
「ではまた明日、よろしくお願いします」
「はい。ヴェナさんお疲れ様でした」
まだ十五歳だったヴェナに対して、成人済みの男性らが丁寧に頭を下げている様子は、傍目には異様な光景かもしれない。だがヴェナにとっては、父の研究施設でも似たようなものだったので気にしていないようだ。ただ、持ち帰りの資料を胸に抱いてタワーのロビーに戻ったヴェナは、別の心情から小さく息を吐く。すると不意に温かな腕がヴェナの肩に落とされた。
「よ、ヴェナ。どうした?」
「カミラ。もう、驚いたでしょう。どうしたって? 今は研究施設の帰りよ」
何処から現れたのだろうか。そんなことを考えながらも、ヴェナは笑ってカミラに答える。カミラはヴェナの肩を抱いたままで、彼女の顔を覗き込むように軽く首を傾ける。
「分かってるさ。で、なんで元気が無いんだよ」
その問いにヴェナは目を丸めた。それから、ゆっくりと眉を寄せていく。
「……そんな風に、見えた?」
「いや分かりにくい。お前は笑うのが上手だな」
そうは言ってもあっさりと見破られているのならどうなのだろうとヴェナは思う。カミラは大きな手の平で慰めるみたいに何度かヴェナの頭を撫でた。
豪快で無頓着な振る舞いをするカミラは、人の心にはやけに敏感な人だった。目が合うだけで心の中を読むようで、なのに不躾に踏み込んでくることは無い。「どうした」と聞く声はいつも優しく、「大丈夫か」と掛ける声は分け隔ての無い優しさがある。誰に対しても。
「誰かに嫌なことでも言われたか? あたしが殴って来てやろうか」
「やめて、そんなのじゃないわ」
徐に拳を掲げるカミラに対し、ヴェナは苦笑を漏らしながらもその手を下ろさせた。訳を話さなくてもきっとカミラはヴェナが願えば殴り込みには行かないだろうし、話したくないと言えばもしかしたらこれ以上は聞かずに、甘いものでも食べに行こうなどと誘って慰めたかもしれない。だからヴェナが素直に理由を語ったのは、彼女になら話してしまえるだけの信頼や甘えがあったからに他ならなかった。
「子供扱いをされていて、少し、居心地が悪いの」
ヴェナは奇跡の子としてだけではなく、研究者としてもこの首都へと招かれた立場だ。研究内容について承認は必要となるものの、その内容のほとんどがヴェナに一任されており、待遇だけを見れば一人前として充分以上に認められている。しかし、ヴェナを取り巻く研究員らの対応は、ヴェナにとってはそうではなかった。
研究中にも拘らず、ココアを飲むかとやたらと聞いてくるし、お菓子をたくさん持って来るし、部屋は寒くないかと問いながら今日だけで膝掛けを三度も勧められた。ヴェナがそれらを溜息交じりに語り終えると、カミラは肩を震わせて笑う。
「ヴェナ、それは多分『子供扱い』じゃない」
「え?」
共に居住域へと上がった二人は、近くの休憩所で並んで座る。そこでカミラがヴェナへと差し出した飲み物も、温かなココアだった。妙な表情で受け取るヴェナに、揶揄うような顔で笑うカミラ。「もう」と小さな文句を口にしても、今しがた愚痴を零したような「居心地が悪い」という感想を、ヴェナは抱いていなかった。職員らがココアを飲ませようとすることが子供扱いでないのなら、これもそうなのだろうかと、ヴェナはもう一度カミラを見つめて首を傾ける。自らに向けられた視線を受け止め、カミラが優しく微笑んだ。
「お前が大事なだけだよ」
軽い調子で笑っていたカミラが突然、真っ直ぐに目を見つめて言うものだから、ヴェナは咄嗟に視線を落とした。大きな手がまた、ヴェナの頭をゆっくりと撫でていく。
「少しでもこの場所が、お前にとって幸せであるように。居心地が良いものになるように。ま、下手くそだから逆効果だったわけだな! 頭のいい奴はバカだよなぁ」
ブラックコーヒーを手に、カミラはヴェナの隣に座り直す。俯いてココアを見ているばかりのヴェナをどう思ったのか、ヴェナの表情を隠している髪をカミラの指先が勝手に耳へと掛け、顔を覗き込んだ。
「そんなに上手に笑ってなくていい。お前はどんな表情も綺麗だよ。きっと怒っていても、泣いていても」
「……そこまでストレートに言ってほしいとは、思っていないわ」
下手で不器用な表現をする研究員と対照的に、言葉でたっぷりと伝えてくるカミラ。それが照れ臭くて、ヴェナは思わずそう返した。それでも、カミラはただ嬉しそうに笑っていた。
ヴェナは誰から見ても大人びていただろうし、きっと大人の中で育った彼女は周りからもそれを求められてきた。だけど、カミラの前でだけ、彼女はほんの少し子供だった。それが男性に対する『手厳しい対応』とは違うものであると見付ける者は少なかったかもしれない。おそらくヴェナも気恥ずかしさから同じに見えるようにしていたのだろう。甘えの延長だった。ある日が来るまでは。
「……カミラ」
ゆっくりとした足取りで廊下を歩いて来る彼女は、ヴェナが声を掛けるまで彼女の存在にも気付いていなかったようで、視線を足元に向けていた。声に応じ、顔が上がる。頬に大きなガーゼが貼られてはいたけれど、カミラは軽傷だった。歩く様子からも、何処かを痛めている動きは無い。
「ああ、ヴェナ」
少し掠れている声は疲れを滲ませるけれど、それでもカミラは微笑んだ。しかし、瞳はいつものような優しさだけを湛えた色ではなかった。
「おかえりなさい、あの……」
何かを言おうと思うのに、気の利いた言葉などあるはずもない。一瞬言葉に詰まってしまえば、カミラが慣れた様子でヴェナの頭を無造作に撫でた。
「ヴェナ、ちゃんと休んでいたか? あんまり遅くまで起きてないで、寝た方が良い」
これは日頃カミラが、ヴェナに対してよく言うことだった。ヴェナは他の奇跡の子らと違って研究も仕事の一つとなる為、拘束時間は他の子らよりも多いことがある。顔色が悪い日には必ずと言っていいほど掛けられた言葉だけど、今日はそうではなかった。カミラはきっとヴェナの顔色も、この日は見えていなかった。
「あたしもヘトヘトだよ、ゆっくり休むことにする」
そのままカミラは部屋へと下がっていく。声を掛ける隙間が無かったわけではないのに、ヴェナは何も言えなかった。カミラの顔を見る前以上に、掛ける言葉が見付けられなかった。
「……あなたは、笑うのがとても下手だわ」
いつも通りを装って微笑んでいたそれは、痛みと苦しみに引き攣っていた。
翌日以降はそれでもいつものように朗らかに笑うカミラだったけれど、瞳だけは、色を取り戻さなかった。カミラという人は、いつでも優しかった。温かかった。生い立ちを思えば奇跡と思えるほどに、純粋だった。そんな彼女の瞳が戦場を重ねるほどに少しずつ濁っていくことを、どれだけの者が気付いていたのだろう。
「――カミラ、何をしているの!」
「おっと、ヴェナ」
同じ頃、カミラが女性に声を掛けることが増えた。いや、女性から声を掛けられることが増えた結果そうなったのか、どちらが先だったかは分からない。研究施設の前で、自分の部下に声を掛けているカミラに、ヴェナが眉を寄せる。部下は赤く染めていた頬を瞬時に青ざめさせ、早口で言い訳をして逃げて行った。別に、彼女を怒ったつもりではなかったのに。ヴェナは小さく溜息を吐き、後でフォローをしなければと考える。
「可愛らしい人だな、あたしよりも年上なのに初心なところがいい」
「何の話よ」
「ああ、悪い悪い、何をしていたか聞かれたのに、『口説いていた』理由の方を先に言ってしまった」
悪びれる様子無く、わざとらしく肩を竦めて楽しそうに話すカミラに、ヴェナは重ねて溜息を零す。
「……この間はタワーの受付の子に声を掛けていたのじゃないの?」
「そうそう。今度デートしてくれるんだ、楽しみだな」
「あなたね」
彼女の傷を誤魔化すのに、このような遊びは気が紛れるのだろうか。褒められた行為だとは思わないし、毎回こうしてヴェナは小言を言うものの、強く止めたことは一度も無かった。まして、上司であるデイヴィッドにまで告げ口するつもりも毛頭なかった。
しかしある日、ヴェナはタワーに朝帰りをしてきたカミラを見てしまった。この日は偶々、研究で立て込んでヴェナも朝帰りをしたから見付けることが出来たけれど、今まで知らなかっただけで、カミラがこのようなことを何度も繰り返しているのだとしたら、流石に止めなければならないと考えた。慌ててヴェナはエレベーターに乗り込む彼女を捕まえる。カミラは一瞬驚いて目を見張ったものの、苦笑を零すだけだった。
「もう少し、自分の立場を考えて。あなたは奇跡の子の中でも特に影響力が強いのよ、分かっているの?」
「あー、悪かったよ、気を付けるから、朝からそんなに血圧を上げるなって」
「ふざけないでちゃんと聞いて」
奇跡の子である上に、カミラはスタートナンバーだ。当時の
「他に無いの?」
「ん?」
「あなたの悲しみを晴らすものは、こんな形じゃないといけないの?」
その言葉に、カミラの目には怒りに近い色が浮かんだ。カミラはそれが例えヴェナであったとしても。誰にも傷を触れられたくなかったのだ。彼女が示したのは不快感だった。それを見付けてしまったヴェナは咄嗟に口を噤む。
「なら、お前が『代わり』になるか?」
表情だけは軽薄に笑ったままで、カミラはそう言ってヴェナを抱き寄せる。温かな腕に、ヴェナは錯覚していた。逆鱗には触れてしまったかもしれない、だけどそれでも、縋ってくれるのかもしれないと。
「……そうしたら、気を付けてくれるの?」
カミラの腕が、微かに震えた。返答に驚いたのだろうとヴェナは思った。だがヴェナが『代わりになる』と応じた瞬間、有無を言わさずに彼女を部屋に引き込み、強引にベッドへと押し倒したカミラの行動には優しさが無かった。
「ちょっと、他の女を抱いた手でそのまま抱くつもり?」
「シャワーなら浴びてきた」
「そう言う問題じゃ」
「やめるか?」
見下ろす瞳にはまだ怒りが滲み、いつもの優しさではない色がヴェナを見つめていた。カミラは、ヴェナを求めていない。ただ傷付ける為だけに、今、こうして組み敷いているのだ。何処から何処までが、カミラの怒りに触れてしまう言動だったのか、もうヴェナには分からなかった。
今、ヴェナの中に湧き上がった形容しがたい怒りと悲しみが、それを覆い隠して見えなかった。
「……っ、大嫌いよ」
「それでいいさ」
この日からカミラは、ヴェナの名前を口にしなくなった。ヴェナだけではなくきっとカミラも、一体何が相手の逆鱗に触れ、絆を歪めてしまったのか、確かなことはおそらく理解していない。それが歪になったと知りながらも、繋いでいたかった。その想い以外には、何も。
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