第96話_片腕で闊歩するタワー内

 タワーへと戻るアランの左腕には、まだ布に巻かれたままのイルムガルドが抱かれている。軽々と運んでいる様子から、おそらく今回も能力で浮かせた彼女をただ腕で支えているだけなのだろう。

 イルムガルドが攫われた件はあまり広くは伝えられていないこともあり、アランとイルムガルドの二人は裏口にあたる場所からタワーに入り込んだ。中では、イルムガルドのチームメイト、司令や職員、そしてアシュリーが並んでいた。姿を見るなり真っ先に駆け寄ったアシュリーを誰も咎めはしなかったが、アランは彼女を困った顔で制止する。続けて何か言おうと口を開きかけた彼に対し、後ろに控えていたモカが先に『忠告』を口にした。

「彼女への軽口はお勧めしないわ。あなたの丈夫な左腕、はじけ飛ぶわよ」

 アランはその言葉に笑うと、イルムガルドを抱いていない方の右肩だけを器用に竦めて、大人しく「承知した」と返す。

「申し訳ない、奥様、イルムガルドはまだ気が立っていてね。シャワーを浴びるまで他の誰にも触られたくないそうだ。……敵の血の臭いや、機体が爆発した臭いが纏わり付いてる気がするんじゃないかな」

 実際はそんな臭いなど付いていないことは抱いているアランにはよく分かっているが、おそらくイルムガルドの気持ちの問題なのだろう。イルムガルドは以前にも、直接人を斬った後はシャワーを浴びるまでアシュリーには触れたがらなかった。そんなことをアランは何も知らないが、彼も同じ奇跡の子として、少なからず身に覚えのある感情なのかもしれない。

「……イル」

 心配そうに呼び掛けるアシュリーの声にも、イルムガルドは振り返らない。アランの肩に頭を埋めたまま、身体を小さく丸めている。

「大丈夫だよな、シャワー浴びるまでだろ?」

 あやすように軽く揺らしてからアランが肩のイルムガルドにそう言うと、彼女の頭が小さく頷く動作をした。それを見守った後、アランは顔を上げて司令を見つめる。

「という訳だ、シャワールームまで送り届けたら引き渡すよ」

「ああ、それでいい」

 この後、彼は宣言した通りにシャワールームの前にイルムガルドを下ろし、扉の奥へと入ることを見届ければ任務完了のはずだった。しかし、下ろされたイルムガルドはいつまで経ってもアランの袖を握ったままで放さない。アランは下ろす為にやや屈めた上体すら起こすことも儘ならず、苦笑を見せた。

「どうしたんだ、イルムガルド。いくら君の誘いでも、レディと一緒にシャワールームには入れないぜ」

 アランはそう言って笑う。周りの皆も彼女の様子を心配そうに見つめているが、イルムガルドはどの視線にも応える様子は無く、ただむつりと不満そうな表情で黙り込んでいる。しばらく待っても放されない手を見つめたアランは、少しだけ首を傾けた。

「あー、よし、ならこれはどうだ。ほら」

 徐にアランは左腕を操作して取り外すと、その腕をイルムガルドへと差し出す。

「俺の分身だ。少し重いが、これを持っていればいい。腕が無ければ俺は何処にも行けないからな、君の気が済むまで、ずっと傍に居るよ」

 優しくそう囁いてやれば、イルムガルドはようやく袖を握っていた手から力を緩める。そして両腕でしっかり彼の義手を抱えて大人しくシャワールームへと入った。空になった袖を軽く撫でた後、アランが上体を起こす。

「一体、何をどうしたらあの子をあんなに懐かせることが出来たの?」

 振り返ったアランに向かってモカがそう言って笑うけれど、アランは大袈裟に肩を竦める。彼にもさっぱり理由に覚えが無いらしい。しかしそれにしては駐屯地でもずっと膝に収まっていたし、抱き上げても抵抗は無く大人しかった。イルムガルドを良く知る者ほど、信じられないことだ。一連の特別さに、何の理由も無いということなどあり得るのだろうか。誰もが疑問に思うのに、アランは陽気に笑っていた。

「言われてみれば、イルムガルドは俺には最初からちょっと懐っこかったぜ? 女性にモテてしまうのは天賦の才かな!」

「はいはい」

 アランのいつも通りの軽口にモカが苦笑している。しかし実際、アランは他の奇跡の子らと違ってイルムガルドから笑みを向けられたことがあり、遠征前にもわざわざ見送りに来てもらっている。イルムガルドが何を考えてそうしたのかは誰にも分からないものの、アランから見てそれを「最初から懐いていた」と捉えるのにも、全く理由が無いわけではない。

 一方、そんなイルムガルドのことを誰よりも気にしているだろうアシュリーは、アランのことを不思議そうに見つめたのは一瞬だけのことで、近くの職員へ「中で倒れた場合、すぐに分かるのでしょうか」と心配そうに問い掛けている。アランに対する態度云々よりも、身体の状態がまだよく分かっていないイルムガルドを一人きりにしていることの方が気掛かりであるらしい。考えてみれば当然の懸念だ。

「大丈夫だよ、アシュリー」

 レベッカは優しく声を掛ける。アシュリー以外は、この中へイルムガルドを一人きりで入れることに深い心配を感じていなかった。勿論気にならないわけではないが、このシャワールームにはきちんとそれらが考慮されている。本人が異常に気付いた場合には外に助けを求められるボタンがあるし、そうでなくとも内部の者の心拍数や体温などは自動で測定されており、異常値が出た場合には外に通知される仕組みになっている。シャワールームを使用したことのある奇跡の子であれば皆が知っていることだ。説明を聞いたアシュリーは僅かに安堵の色を見せながらも、レベッカらが近くのソファに座ることを促すまでは、扉から離れようとしなかった。

 元よりイルムガルドはシャワーの時間が短い子ではあるが、こうして心配しているアシュリーにとってはたった十数分が一時間にも二時間にも感じられる。待ち侘びた扉が静かに開いた瞬間、アシュリーはずっと背を撫でてくれていたレベッカが驚いて仰け反るような勢いで立ち上がった。

「ご、ごめんなさいレベッカ」

「あはは、いいって。行っておいでよ」

 そう言って笑うレベッカに小さく頷き、扉から出てきたイルムガルドの元へとアシュリーは駆け寄った。イルムガルドは彼女を見ると、少しだけ眉を下げて微笑む。

「……イル」

「うん、ごめんね、ただいま」

 アシュリーは一つの瞬きと同時に一滴の涙を零し、イルムガルドを抱き締めた。腕の中の彼女にだけ囁いた「おかえりなさい」が掠れていて、片腕でアシュリーを抱き返しながら、イルムガルドも小さく頷く。

「立っているのはまだ辛いわよね。早く診てもらいましょう」

「ん、そうだね、少し怠いかな」

「それと、ええと、……それは持っていたいの? 重くない?」

 イルムガルドが抱えているアランの左腕を見つめてアシュリーが問い掛ける。金属製とは言え軽めの材質で作られているので見た目よりもやや軽いが、それでも小柄な少女の腕の中にあるべきものでもない。しかしイルムガルドは、「平気」と言うとそれを大事に抱いたままでアシュリーに付き添われ、医療班に促されるままに検査室の方へと歩いて行ってしまう。アランが苦笑を零した。

「どうやら、取り返すのはしばらく無理そうだな」

 小さく首を傾けた後、諦めたアランはイルムガルドが歩いた方とは逆へ足を向け、空になってしまった左袖をくるりと丸めて縛った。そうして彼が向かったのは、レベッカとまだ並んで座っているモカの元だ。彼の接近に対してレベッカはまるで条件反射のように不快そうに眉を顰めたけれど、噛み付く様子は無く、不満な顔をしたままで視線を逸らした。

「お疲れ様、アラン君。左腕が無いのは不便ではない? 災難だったわね」

 傍に立った彼を見上げ、モカは笑う。アランは普段からほとんど義手を外さない為、今のような状態の彼を見るのは珍しい。不在を示す袖を、アランは自身の能力を使用してふわふわと揺らして見せた。

「ま、可愛いレディの我儘を聞けたんだから、幸せなことさ。強いて言うならもう少し綺麗にして、花の香りでも付けた状態で渡したかったがね」

「腕を花束代わりにするのは斬新ね。色んな意味で重たくてならないわ」

 彼の軽口にモカがくすくすと楽しそうに笑えば笑うほど、隣に居るレベッカの仏頂面が更に険しいものに変わっていく。それを一瞥した後、アランは少し声のトーンを落とした。それは静かになったというよりは、幾らか優しく変わったような音だった。

「モカ、今回は大変だったな、疲れただろ」

「……辛かったのは、私ではないわ」

「そうかな」

 少なくともモカはそうであると思っている。誰よりも辛かったのは被害に遭ったイルムガルドだったのだろうし、彼女が攫われた事態に最も心を痛めたのは伴侶であるアシュリーであったはずだ。イルムガルドを普段からとても可愛がっているレベッカも、現場指揮として彼女を置き去りにする指示を出したフラヴィも、その指示に従うべく、抵抗するレベッカを無理やり連れて敗走したウーシンも、そして、その戦場に子らを送った司令官も。モカは、自分より辛かっただろう人をどれだけでも挙げることが出来た。しかしアランは彼女の思考を否定するように、緩く首を振る。

「今、辛いのは君だよ。まだ、眠れていないんだろ」

 彼の言葉にモカは笑みを崩さなかったが、微かに眉を寄せた。ずっと俯いていたレベッカは、逆に驚いた様子で顔を上げてモカの横顔を見つめる。

 イルムガルドが攫われた後、タワーに戻るまでの間はモカに限らず、誰もが眠れなかった。しかしイルムガルドが保護されたという連絡の後は、翌日アランと共に戻るまでの間、全員がきちんと部屋に下がって休息を取ったはずだ。イルムガルドの無事は確認されていたのだから。

 だがモカはそれでも、眠れなかった。いつの間にかモカは視線を落とし、足元だけを見つめていた。

「仲間が攫われるのを、手出しも出来ない状態でずっと見つめ続けるなんて、……それがどんなに辛いことか、俺には想像も出来ない」

 モカは全てを見つめていた。イルムガルドが攻撃され、動けなくなった瞬間も。彼女に敵兵が迫り、攫って行ってしまう瞬間も。小さな手足に拘束具が付けられ、倉庫の奥に入れられる瞬間も。彼女に怯えた何人もの兵士が、ずっと銃口を彼女に向けている状況も。モカだけは鮮明にその瞬間を、。目を閉じようとも、脳裏から離れない。少しも忘れられるものではない。モカは昨夜も、碌に身体をベッドに横たえることすら出来ていなかった。

「イルムガルドは無事だ、もう大丈夫なんだよ。ちゃんと歩いている姿をその目で確認しただろ? ……だから君は、一度眠った方が良い」

 語り掛けるアランの声はずっと穏やかで優しい。疲れ果てているだろうモカの身体にも心にも障らぬように、むしろ寝かし付けようとでもするように。その気遣いをくすぐったく思うのか、モカは困った様子で首を傾けて苦笑した。

「……ありがとう、だけどそんな」

「それとも――」

 きっとモカは、そんなに大袈裟にしなくても大丈夫だと、自分は戦闘員ではないから皆と比べて体力も消耗していない等と続けようとしていたのだろうが、アランは続きを遮った。

「俺が部屋までお送りしようか?」

 彼の右手がモカへと向けられた瞬間、触れてもいないモカの腕がふわりと浮いた。それが何を意味するのかを瞬時に理解したモカが「待って」と慌てて告げる。能力で浮かせてしまえば、アランは相手の意志など関係なく運んでしまえる。彼が申し出ているのはそういうことだ。モカが何と言おうと、部屋に行かせようとしている。つまり今モカが選べるのは、自分で歩くか、彼に運ばれるかのどちらかしか無いのだ。

「分かったわ、もう、時々本当に強引ね」

「女性を愛する為には、メリハリが必要なんだよ」

「はいはい」

 再び呆れたように笑って、モカはゆっくりとソファから立ち上がる。その動作に不安定さはまだ見られない。表情を変えないままで、モカはレベッカを振り返った。

「レベッカ、私は一度、部屋に下がるわね」

「あ、うん……」

 心配そうな顔をしながらも咄嗟に立ち上がれないレベッカを見止め、アランは眉を上げた。

「レベッカは送らないみたいだから俺が部屋まで付き添ってやるよ、モカ」

「アタシが行くに決まってんだろ下がってろバカ!!」

 いつも通りに煽ってやれば素直に立ち上がり、レベッカがモカを引き寄せる。そんな様子にアランは可笑しそうに笑うと、それ以上の追撃をする様子無く、くるりときびすを返して何処かへと立ち去っていった。

「いちいち、むかつくんだよなぁ……」

 小さな舌打ちをしながら彼の背を見送ったレベッカの険しい表情は、モカを見つめるなり弱々しい色に変わる。優しく手を取り、心配そうに見つめてくる瞳を受け止めて、モカは目尻を下げた。

「そんな顔をしないで。眠れなかったのは本当だけど、不調はまだ感じていないのよ」

 とは言え、レベッカがそんな言葉で心配を払拭するはずもない。表情を変えないレベッカの額に、モカは自分の額を押し当てた。一瞬驚いて目を丸めるレベッカに対して、モカは何処か楽しそうだ。

「付き添いありがとう。もう行きましょ」

「う、うん」

 戸惑ったままのレベッカと共に、モカは素直に部屋へと向かう。アランだけではなく、心配性のレベッカにまで見付かってしまえば逃げようも無い。何より彼女自身、確かに心身に疲れは宿しているのだろう。

 部屋に到着すると、レベッカがモカの手を軽く引く。いつも部屋に送ってくれる時は、別れ際に中に入って口付けられるのだけど、流石に今日ばかりはモカもそんな気持ちになれなかった。

「ごめんなさい、レベッカ、今日は」

「ううん」

 断りの言葉を告げようとしていたモカの言葉をやんわりと止めると、レベッカはモカを引き寄せ、額に軽く口付けた。それは恋人としてではなく、やさしい親愛のキスだった。

「おやすみ。何かあったら呼んでよ、すぐ飛んでくるからさ」

 微笑むレベッカに、モカは柔らかく肩の力を抜いた。こんな宣言をしていようがしていまいが、モカが本当に求めればレベッカはいつだって来てくれるのだろう。きっと職員らが注意するのも聞かないで、廊下を全力で駆け抜けて。

 部屋に入って行くモカを見守ると、レベッカは小さな溜息を一つ零してから、再びイルムガルドの検査室の方へと足を向けた。

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