第88話_服の下、無意味な所有印

 レベッカのことが、日々分からなくなる。モカは此処の所ずっとそう感じていた。結局、キスを求めてくる理由もよく分かっていない。三、四日に一度は部屋に泊まりに来て、あの日のようにベッドの中で何度も口付けられる。そうでない日も、別れ際には必ずキスされていた。「気に入ったの?」と問い掛けたことに対して「そんな感じ」と曖昧に答えてもらった以上の言葉はまだ無く、さり気なく探ろうとしてもキスで誤魔化されるか、「モカは嫌なの?」という、首を振ることが出来ない質問で躱されている。レベッカに躱しているつもりがあるかどうかはともかく、何にせよ、モカは納得のいく解答が得られていないままだ。

 ただ、モカの中では『親愛の延長』という意味で捉えるようにしていた。どう考えても無理がある解釈だが、今までにモカはレベッカに対して親愛のキスを頬や額に落としていたのだから、それに慣れてしまったレベッカが過剰になればこのくらいに至る可能性もあるのかもしれないと、モカはそう思うようにしていた。

 これは単なる現実逃避だ。今この瞬間、モカは自分の身に起こっていることについて向き合えない為、無茶でもそのように捉えて『何でもないこと』として懸命に処理しようとしていた。

 しかし思考の隙間に入り込むようにレベッカの吐息が首筋に掛かり、思わず肩が小さく跳ねる。それを宥めようとでもするように、うなじに柔らかな感触と温もりと、そして小さなリップ音。心臓が縮んでしまうような心地に、モカは一層身体を強張らせた。色んな戸惑いを逃がす為に少し身体を捩ったが、モカの身体を捕まえているレベッカの腕は再び彼女を引き寄せ、同時に軋んだベッドの音が、モカに逃避を許してくれない。

 今夜も、レベッカが泊まりに来ている。そしていつものように散々キスされた後、今日は何故か後ろから抱くようにして引き寄せられ、うなじや肩にずっと唇で触れられていた。これの何が楽しいのか、モカには全く分からない。強く吸い付いてくるようなことは無く、先程のように軽いリップ音を聞かせたり、少し舌先が触れてきたり、食むように触れてきたりする。理解は及ばないが、思考を停止させたいが故にモカはすがままになっていた。

「ねー、モカ」

「なに」

 のんびりとレベッカが名前を呼ぶ。答えた声がやや硬くなってしまったけれど、この時のモカは考える余裕が無かった。項の近くで話すレベッカの存在に、身体中がざわ付いて落ち着かない。

「キスマークって、どうやって付けるの?」

 だがこの質問はモカに生返事を許さなかった。一瞬何を言われたのか分からなくて静止し、たっぷり五秒数えてから、モカは眉を顰める。

「……教えないわよ」

「え、なんで」

「教えたら付けるつもりでしょう」

「うん」

 うんではない。あっさり肯定してくるその迷いの無さに戸惑って口籠ると、追撃が来てしまった。

「嫌なの?」

「……嫌と言うわけじゃないのだけど」

 もうこの展開に入ると負け戦だ。そんな予感がありつつも、モカにだってきちんとした理由がある。これは彼女の心臓の耐久性だけの問題ではない。

「身体検査や戦闘服の調整で、職員の前で薄着になることくらいはレベッカもあるでしょう、だから」

「じゃあ下着の中ならいい?」

 それは、つまり、何処なのだろう。モカは言葉が出てこなくなった。黙り込んだモカに対してレベッカは手を緩めるどころか追撃を重ねてくるのだから、こういう時に限ってひどく無慈悲な人だとモカは思う。当然、今ではなく、後日思うのだけど。

「どうしても教えてくれないなら、他の人に聞くことになるけど?」

「……それは駄目」

 先日、イルムガルドにおかしな質問をしたことについて、モカは「二度とあのような質問を他の人にしないこと」を懇々と言い聞かせた。イルムガルドからも指摘があったが、他の誰かのやり方で触れられたくはないし、そうでなくとも、レベッカに知識を吹き込んだものが彼女に対して下世話な妄想などをする可能性を思うと不快でならない。

 だが結局、二人が話したのはそこまでだ。それ以上の話は特にしていない。そして、あの時きちんと反省して了承してくれたレベッカは、今、疑問を他の誰でもなくモカに打ち明けている。約束を守ろうとしてくれているのだ。……けれど、今のような言葉は予想していなかった。答え辛いという理由で逃げるのは、モカにとっては逆に自分の首を絞めることになるらしい。悪知恵を得たレベッカに項垂れ、モカは拒むことを諦めた。

「……何処に、付けるつもりなの」

「下着の中」

「だから、それって具体的に、ま、待って脱がさないで教えて」

「えー」

 脱がして教えようとしたらしく、レベッカが徐にモカの服を引っ張ったので慌てて止める。もっと素早く引き上げられてしまっていたらモカでは抵抗し切れずに、さっさと脱がされてしまったことだろう。間に合ったことに一先ず安堵の溜息を吐く。

 脱がすことを止めたレベッカだが、結局は指先を服の上に滑らせて場所を教えてくれるのだから、大きな違いは無かったかもしれない。おそらくモカは「脱がさないで教えて」ではなくて、「言葉で教えて」と言うべきだったのだ。

 モカが後悔している傍らでレベッカの指先が教えてくれた案は三か所。一つ、腰の真後ろ。一つ、背中の真ん中にあるブラジャーの留め具付近。最後が、レベッカであれば谷間と言える位置にあたる、鳩尾みぞおちの少し上。幸か不幸か、モカにはそこに谷と呼べるような高低差が無いので、確かに何にも遮られずに痕を付けることは可能だろう。

「他にどっかいいところある?」

 最後の一か所をくすぐるように指で撫でながらレベッカが問い掛けてくるので、モカはその手を掴んでまず引き離した。良いところ、と言われても特におすすめなどはモカの中には浮かばない。こうなるともう消去法だ。確かにレベッカが示した場所ならば、職員らの前で着替えるようなことがあっても、晒してしまう可能性は低い。つまり、モカの心情として、痕を残す過程を最も場所であるべきだ。

「背中、なら」

 ぐるぐると考えた末に、そう答える。しかしモカはレベッカが何かを言うのを待たずに更に言葉を続ける。

「だけど私も付けるわよ、いいの?」

「いいよー」

 少しくらいは怯んでくれることを期待したモカだったが、レベッカにそんな様子は微塵も無い。悔しい気分になるけれど、彼女がそうである限り、『親愛の延長』という解釈をモカは持ち続けることが出来る。これもきっと、ただの戯れだ。

 深く考えないように冷静を保ち、モカは身体を反転させてレベッカの腕を取る。引き寄せたその腕の、柔らかい肌に痕が付かない程度に軽く吸い付いた。

「これを強くして、皮下出血させるだけ。少し痛いわよ?」

「ヘー」

「やってみるから、背中こっちに向けて」

 実感が湧かないのか、分かっていても照れが無いのか。素直に従うレベッカは飄々と寝返りを打ってモカに背を向けた。レベッカのシャツをたくし上げ、指先で留め具に触れる。少し迷ってから、モカはそれを外さずに少し上にずらした。思考を巡らせているとモカは既に耐え難いほど恥ずかしい。あまり深く考えないように目当ての場所に吸い付いて、痕を付けた。少し加減を間違えて一度で綺麗に付かず、結果、二度吸い付く羽目になり、モカには散々だ。

「……はい」

「もう付いたの?」

「ええ」

「うーん、見えないから分かんないや、ちょっと見てくる!」

「えぇ……」

 戸惑うモカを置き去りに、レベッカはさっさとモカの上を乗り越えて洗面所へ行ってしまった。そしてすぐ、楽しそうに「付いてた~」と言いながら小走りで帰ってくると、そのままの勢いでモカに覆い被さる。

「じゃあモカ、付けさせて」

 モカは無言でうつ伏せになった。レベッカは何だか楽しそうで、新しいおもちゃを与えられた子供のようだ。無感動にモカのシャツを捲るレベッカに、モカと同じ思いや緊張などは感じられない。だからこれはやはり好奇心だ。執着でもなく、感情の発露でもない。念じるようにモカはそんな言葉を頭の中で繰り返していた。しかしそれでも、ブラジャーの留め具をレベッカの指先が弄ぶ感覚は、モカの感情を掻き混ぜる。

「外していい? あとで付け直すから」

「……どうぞ」

 モカは振り切れてしまって、もう好きにしてくれという気持ちになっているが、了承を受けたレベッカは気にすることなく丁寧にそれを外している。次いで唇が肌に落ちてきて、心臓の音が激しさを増す。これ以上は無いと何度思っても酷くなる一方だ。モカは軽い耳鳴りを感じた。

 それでもこの状況がすぐに終わってくれるなら、まだ良かったのに。吸い上げてくる感触は弱く、時間も短くて、モカは内心頭を抱えていた。

「ん~、付かないな、弱いのか」

「そうね……」

 加減が少しも分からないということは、つまり、この時間はまだしばらく続くのだ。おそらく二度や三度ではない。

「ちょっと電気点けていい?」

 あまつさえレベッカはそう言うと、モカの返答を待たずに部屋を明るくしてしまう。文句を言えば更に長引くことが分かっていたモカは、枕に顔を埋めて押し黙った。そして、レベッカが何度も繰り返し背に吸い付いてくるのを只管ひたすらに耐え続けた。

「あっ、できたー、モカ、ようやく綺麗に」

 付いたよ、とレベッカが言い終わるのを待たずにモカは手を伸ばして部屋を消灯する。視界全てが暗くなると、幾らかモカはほっとしていた。

「えー、モカ見なくていいの?」

「見ないわよ……」

 ぐったりと疲れ果てた様子のモカを見下ろすレベッカの機嫌は良さそうだ。結局モカの背中には、二つの出来損ないと、綺麗に付いた一つの、合計三つの痕が残された。

「ところでずっと心臓すごかったけど、大丈夫?」

 宣言通りに留め具を付け直しながら問い掛けるレベッカの声は、明らかに楽しそうに弾んでいる。本当に、何処まで分かってやっているのだろうか。

「聞かないで。意地悪」

 モカが深い溜息を零しているのとは対照的に、レベッカはその言葉に、増々嬉しそうに笑っていた。

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